2016年02月06日

Coffee Break箴言・45 野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(箴言15章7節〜17節)

 

 知恵のある者のくちびるは知識を広める。
 愚かな者の心はそうではない。(箴言15章7節)
 悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。
 正しい者の祈りは主に喜ばれる。(8節)
 主は悪者の行ないを忌みきらい、
 義を追い求める者を愛する。(9節)
 正しい道を捨てる者にはきびしい懲らしめがあり、
 叱責を憎む者は死に至る。(10節)

 ふたたび、知恵ある者=正しい者=義を追い求める者と、愚かな者=悪者=悪者の行い=正しい道を捨てる者=叱責を憎む者が、対比されています。
 注目すべきは、知恵ある者は、詩篇にあるように、「何をしても栄える」(詩篇1章2節)のです。知恵がある者の唇は「知識を広める」のです。祈りは「主に喜ばれる」のです。「主に愛される」のです。それに対して、悪者はいけねえをささげてさえ、主に忌み嫌われるのです。いろいろな行いも主に忌み嫌われるのです。懲らしめがあり、最後は死に至ると断言されています。なんと空しいことでしょう。

 よみと滅びの淵とは主の前にある。
 人の子らの心はなおさらのこと。(11節)

 人にはうかがい知ることもできない場所、よみと滅びの淵も主はご存知であるから、人の心などなおさら見ておられるとの意味(新実用聖書注解・いのちのことば社)です。

 あざける者はしかってくれる者を愛さない。
 知恵のある者にも近づかない。(12節)

 私たち人間は、たしかに真逆の価値観には拒否反応する者です。神をあざける者は、神を信じる者から逃げたいのは当然です。叱られるのがわかっているからです。

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 心に喜びがあれば顔色を良くする。
 心に憂いがあれば気はふさぐ。(13節)
 悟りのある者の心は知識を求めるが、
 愚かな者の口は愚かさを食いあさる。(14節)
 悩む者には毎日が不吉の日であるが、
 心に楽しみのある人には毎日が宴会である。(15節)

 正しい者と悪者を一歩突っ込んだ「心情」で色分けしています。正しい者=心に喜びがある=悟りがある=心に楽しみがある。悪者=心に憂いがある=愚かさを食いあさる=悩む者=毎日が不吉の日。
 
 このような図式に陥らないために、どうすればよいのかが、書かれています。

 わずかな物を持っていて主を恐れるのは、
 多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。(16節)

 貧しくても、「主を恐れて」生きる人は、どのような財宝を持っている人より平安があるのです。多くの財宝が恐慌を呼ぶのは、日々世の中を見ていてもわかります。犯罪の動機の多くが金に関わる物です。直接にはそう見えない場合でも、そうなのです。戦国時代の陣取り合戦、植民地争奪戦、王位継承のための殺し合い。毎日、メディアを賑わす詐欺、贈収賄、結婚できない若者は経済力に自信がないといいます。反面、結婚に際してしっかりとそろばん勘定をするのも当たり前です。

 野菜を食べて愛し合うのは、
 肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(17節)

 有名な言葉です。
 もし、一椀の野菜スープしかなくても、みんなで笑いあって食べることができれば、たしかに、豊かなごちそうの前で陰謀をたくらんでいる人たちより幸せでしょう。
 しかし、貧しさに満ち足りるためには、「主の教え」という「山海の珍味」を見ることができなければならないのではないでしょうか。







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2016年02月07日

Coffee Break箴言・46 悟りのある者はいのちの道を上って行く(箴言15章18節〜24節)

 

 激しやすい者は争いを引き起こし、
 怒りをおそくする者はいさかいを静める。(箴言15章18節)

 15章1節、「柔らかな答えは憤りを静める。しかし、激しいことばは怒りを引き起こす」を言いかえたものです。
 
 なまけ者の道はいばらの生け垣のよう。
 実直な者の小道は平らな大路。(19節)

 なまけ者に、実直な者が対比されています。箴言では神を恐れることを、生き方の根底に置くよう訓戒しています。たとえ小道を歩むように見えても、神を恐れる者(実直な者)の道は、平らな大路のようだというのです。なまけ者とは、結局神をあざける者のことでしょう。

 知恵のある子は父を喜ばせ、
 愚かな者はその母をさげすむ。(20節)
 思慮に欠けている者は愚かさを喜び、
 英知のある者はまっすぐに歩む。(21節)

 親は子どもを「良い子」に育てたいのです。子供から喜びを与えられたいと願うのです。親をさげすむ行為は、もっとも親を悲しませる愚か者の証拠です。社会的には、りっぱに出世し、人を教え導くような人でも、親との関係が悪い人がいます。学歴のない親や地味な仕事でコツコツ苦労しているだけの親をバカにするとしたら、どれほど成功したとしても、その人は愚か者です。
 思慮は神から来るものです。正しい思慮は、生来の愚かさを矯正してくれます。英知を手にしたとき、人はまっすぐに歩むことができると、教えられています。

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 密議をこらさなければ、計画は破れ、
 多くの助言者によって、成功する。(22節)

 密議は、秘密の相談ではなく、綿密な議論ということでしょう。計画は綿密に寝られなければ、破たんします。綿密な計画のためには多くの人の助言を受け入れなければなりません。どれほどの情報や経験があっても、人ひとりの能力や知力には限りがあるからです。

 良い返事をする人には喜びがあり、
 時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。(23節)

 よい返事とは、適切な時宜にかなった返事です。もし、助言を求められたら出来る限り誠実な意味のあるアドバイスをしたいものです。それでこそ、神にも人にも喜ばれるのです。たとえ、相手が自分のライバルで、その成功をあまり喜べないとしても、誠実な助言をするのが悟りだと、箴言は言っていると思います。そのような人は、結局いのちを長らえるのではないでしょうか。

 悟りのある者はいのちの道を上って行く。
 これは下にあるよみを離れるためだ。(24節)







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2016年02月08日

Coffee Break箴言・47 利得をむさぼる者は自分の家族を煩わし、まいないを憎む者は生きながらえる。(箴言15章25節〜29節)



主は高ぶる者の家を打ちこわし、
やもめの地境を決められる。(箴言15章25節)

 主の憎まれる者=悪者に、もうひとつのカテゴリーが加わります。「高ぶる者」です。これも、神に対して高ぶることであって、私たちの目から「えらく見えるかどうか」「近づきがたいかどうか」ではありません。たとえば身分の高い人,社会的地位が高くて直接口を利くこともできない人は、ある意味高い所にいるように思えます。また、正論を述べて譲らないような人も、時に高ぶって見えるかもしれません。けれども、本当に高ぶっているかどうかは神様が判断されるのです。そのような者は、栄えているように見えてもかならず、神がその家を打ちこわして下さるというのです。

 強い者によって、弱い者は、わずかな持ち物さえ取り上げられることは、歴史が語っています。夫がいなくなったやもめは、わずかな地所でさえどんどんと削り取られるようなことがあったのでしょう。しかし、主は悪者の高ぶりを見ておられるのです。
 北イスラエル王国の王、アハブは、イズレエル人ナボテが持っているぶどう畑が欲しくなり、妻イゼベルが夫のためにナボデを冤罪に陥れて、その畑を奪った話が思い出されます。(T列王記21章1節〜16節)その結果、神はエリヤを通じて彼らの悲惨な最期を予言し、その通りになります。(同19章、U列王記9章25節〜36節)

 つぎも、心に刻みたい言葉です。

 悪人の計画は主に忌みきらわれる。
 親切なことばは、きよい。(26節)

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 利得をむさぼる者は自分の家族を煩わし、
 まいないを憎む者は生きながらえる。(27節)

 「まいない」は、賄賂のことです。正当な商売や労働の対価として利益を得るのは、「貪る」とは言いません。便宜を図ってもらっても、「それが仕事の人」に報酬を払うのは当然です。しかし、官吏などのように公けに雇われ、報酬も得ている者がその立場を利用して、金品をもらうとそれは賄賂です。最近も、どこか地方の公務員が、窓口に相談に来る人の土地を不動産業者に仲介して、バックマージンを取っていて問題になりました。
 役人の贈収賄の話は後を絶ちません。賄賂が悪であるのは、古今東西にその話がつきないことでも、わかります。

 しかし、賄賂は贈収賄と言われるように、それを贈る側にも罪があります。
 利権のある地位にいる者は、だから、物を送られて見返りを求められるとき、自分を律しなければならないのでしょう。神の前に出て、どう返事をすべきか考えなさいと、戒められています。

 正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。
 悪者の口は悪を吐き出す。(28節)
 主は悪者から遠ざかり、
 正しい者の祈りを聞かれる。(29節)








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2016年02月09日

Coffee Break箴言・48 謙遜は栄誉に先立つ。(箴言15章30節〜33節)



 目の光は心を喜ばせ、
 良い知らせは人を健やかにする。(30節)


 「目は心の窓」ということわざがあります。心に喜びがあるかどうかは、目に現れます。「目が輝くような良い知らせ」を聞くことは、健康に良いのです。
「良い知らせ」とは、神のことばです。いくら楽しいニュースでも、ただ自分に都合のよいだけの話は、本当の幸いかどうかはわかりません。
 また、聖書、目は、心の目を含みます。アブラハムのそばめハガルが息子イシュマエルと荒野を放浪し、渇いて死のうとしていた時、神が彼女の目を開かれたので、ハガルは井戸を見つけた(創世記21章14節〜19節)とあります。これは、「心の目」だと言えます。

 近頃、マスコミでは、「人を健やかにする」情報を目にしない日はありません。健康に良いサプリやエクササイズ、食事、生活態度、住まい方や衣服、もちろん、医学情報も満載です。すべての人が健康で当たり前、どんな病気も治癒出来て当たり前であるかのような前提があるとしか思えないほどです。高齢者向けの情報はとくに豊富で、まるで、人が「死ぬ存在である」ことを忘れさせてくれるほどです。
 病気の時に適切な治療があること、栄養や暖房や衣服で病気を未然に防ぐのはもとより、私たちの希望ですが、でも、ほんとうの「健やかさ」の前提は、「良い知らせ」でしょう。壮健な肉体と有り余るお金と名声を持っても、心が荒んでいては何もなりません。

 心の問題は、精神〈医学〉の対象である以上に、たましいの問題、霊の領域の問題、神の眼差しの問題ではないでしょうか。


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 いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、
 知恵のある者の間に宿る。(31節)
 訓戒を無視する者は
 自分のいのちをないがしろにする。
 叱責を聞き入れる者は思慮を得る。(32節)

 心を健やかにする良い知らせは、神の基準にとどかない私たち人間には、とうぜん叱責に聞こえます。「良薬は口に苦し」なのです。それを聞く耳を持つ者が、知恵があると言われています。「訓戒を無視する者は、自分の命をないがしろにする」いうのも、至る所に実例を見ます。暴飲暴食で健康を壊す者、気ままな生活態度で仕事を失う人、傍若無人に振る舞って、法に触れ警察の厄介になる者。自分の自由に振る舞った結果は、たいてい周囲との大きな摩擦を起こし、けっきょく、自分の命を危険にさらすのです。

 主を恐れることは知恵の訓戒である。
 謙遜は栄誉に先立つ。(33節)

 箴言の訓戒は、その原点に戻ります。主を恐れることが知恵なのです。
 謙遜とは、人間に対して謙遜のふりをすることではなく、神様の御前に謙遜なことです、と改めて自分に言い聞かせるのです。







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2016年02月10日

Coffee Break箴言・49 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(箴言16章1節〜3節)



 人は心に計画を持つ。
 主はその舌に答えを下さる。(箴言16章1節)

 私たちは動物とは違いますから、本能のまま生きているのではありません。食欲や性欲に突き動かされるとしても、満腹し、子孫を残す性行為さえ果たせればよいのだとは考えません。あるいは、やっと食べていくだけの貧しい地域に住んでいたとしても、食事を得るために計画を立てます。農業はもちろん、牧畜、漁業、狩り、採取、すべてに知恵を使って食べ物を得ようとします。衣食住のすべてに亘って、ある計画を立ててそれにしたがって生きているのです。

 人間社会の知恵は、きちんと目標と計画を立てまじめに努力していればやがては、願うものが手に入ると教えます。その希望がなければ、苦しい受験勉強をしたり、メダルのために心身を鍛えたり、寝食を忘れて研究に没頭したりできるでしょうか。しかし、たしかに、だれもが計画通りの結果を手にするとは限らないのです。
 仕事の進捗や、人生設計――たとえば家族計画や家計の計画でも、計画通りにいくわけではありません。
 結果が思い通りであってもなくても、それが、主が私たちに下さる答えです。少なくとも、そのように受け止めるのです。そこから計画を練り直すか諦めるかも、人間の「計画」のうちです。私たちが心に計画を持つこと自体が悪いのではないでしょう。しかし、結果に対して、主が下さった答えであると謙遜に受け止める必要があると、語られていると思います。

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 人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。
 しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。(2節)

 真面目にきちんと計画を立てた。実現に向けて熱心に努力するつもりもあると思いたいのは、当然です。投げやりな気持ちでは、どんな計画も実行以前に瓦解してしまいます。
 小さなことでも着々と計画を立てて実現させてきた人は、その意味で純粋な努力家であると自負できるのです。
「いや、それでも、わたしは、そのあなたのたましいの値打ちをはかるのだよ」
 神様がそう言われて、「それはおかしいですよ。神様」と突っかかる自信のある人はいるでしょうか。私たちの信じる方は、全知全能なのです。

 ただし、神の視点は異なると、聖書は語ります。人が自分で自分を純粋だと思っても、神はなお彼のたましいの値打ちをはかられるのです。

 方法は一つです。

 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。
 そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(3節)

 どんなに綿密に立てた計画も、主の前に持って行くことだと言われています。
「このように行います。これでよろしいでしょうか。」とお伺いする謙虚さ、「どうか実現するために力をお貸しください。助けて下さい」と祈る態度が必要です。
 「計画がゆるがない」の意味は、計画がかならず成るという意味ではないでしょう。しかし、迷いや後悔や恐れを神様にゆだねることができるのです。
 何をするにしても、神様におゆだねしたと確信がもてることは、とても大切なことだと思います。






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