2016年02月11日

Coffee Break箴言・50 主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。(箴言16章4節〜6節)



 主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、
 悪者さえもわざわいの日のために造られた。(箴言16章4節)

 ある時、教会に来て求道している人が尋ねました。
「すべてを神さまがお造りになったのなら、どうして神様は悪魔を造ったんですか」
 これは、創造神・唯一の神である聖書の神に信仰をもつ過程で、一度は誰でも自問することではないでしょうか。なにしろ、神様がお造りになった完全な美しい世界「エデンの園」に、ぬけぬけとサタンが入り込んでいたのです。神様がご自分の息を吹き込んで生きる者とされた人間・アダムとエバが、やすやすとサタンにそそのかされ、神様の禁じておられた木の実を食べてしまうのです。
 どうして、みすみすそのような悪の存在を、神様はお許しになったのか。まして、エデンの園から追放されると、そこは、悪魔がさらに力を振るう世界だったようです。

 アダムとエバの息子カインとアベルにも、悪魔は働き、兄のカインが弟のアベルを殺してしまいます。神は、カインの殺意をご存知でいて警告もされるのですが、その元になっている罪(サタン)をその場で滅ぼされる様子はありません。つまり、サタンの存在を許しておられるのです。少なくとも、そう見えるのです。その結果災いが起ります。
 地震や洪水などの天災はもちろん、障がいや病気にいたるまで、人の苦しみのもととなっています。すると、神を信じない人は言うのです。「神がいるなら、どうしてこのようなことを許しているのだ?」
 少なくとも、「自分の神」「自分を守ってくれる神」「愛の神」である方が、「自分にムチを振るうことがある」「自分を痛めつけることがある」のは、心情的に受け容れられないのです。

 このあたりの「人間的な心情」が、多くの神を産みだす理由かもしれません。神の担当を細かく分け、ある神は、豊作、ある神は恵みの雨、ある神は、安産、ある神は、家の繁栄や良縁、ある神は、戦いの時の味方、ある神は、病気平癒、ある神は、厄除けといった具合に分けておけば、拝む側の気持ちがすっきりするのです。
 それはまさに、自分の都合なのですが、自分の都合で生きることは心地がいいので、それが、心がおごっている結果だとはなかなか気が付きません。

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 主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。
 確かに、この者は罰を免れない。(5節)

 多くの人は、「心おごる者」は、自分以外の誰かだと思いたいのです。(私もそうです)けれども、たぶん「心おごる者」という烙印を押される固定した存在はいないのではないでしょうか。どれほど謙遜を心がけていても、それが「おごる心」に逆転する瞬間があります。イエスさまを十字架に架けた時代の律法学者やパリサイ人、祭司のように、振る舞いはいかにも謙遜で信仰的でした。が、その心はおごりで満ち満ちていました。

 恵みとまことによって、咎は贖われる。
 主を恐れることによって、人は悪を離れる。(6節)

この言葉が、イエス様の十字架によってはっきりいたものとなりました。キリストが十字架上で私たちの罪を贖って死んでくださったこと自体が、神のまこととめぐみだったのです。このような犠牲を払って下さる神さま(主)であることを、改めて思い起こしたいと思います。
ますます、主を恐れる者になりたいと、思うのです。






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2016年02月12日

Coffee Break箴言・51 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(箴言16章7節〜12節)



 主は、人の行ないを喜ぶとき、
 その人の敵をも、その人と和らがせる。(箴言16章7節)
 正義によって得たわずかなものは、
 不正によって得た多くの収穫にまさる。(8節)

 16章の冒頭は、「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。」です。
 その主のお答えがそのあとに、書かれています。

 人は心に自分の道を思い巡らす。
 しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(9節)

 自分の道を思い巡らせるとき、だれでも、それを確かにするのは「自分だ」と思うのは、ある意味自然です。結婚したければ婚活したり、恋人にプロポーズしたり、また経済的な準備をしたりしなければなりません。進学や就職を成功させるための勉強は自分がしなければなりません。それは自分が「する」のです。けれども、それだけでは不十分です。どんなに努力して完璧な準備をしたと思っても、すべてを采配しておられる方に祈り、より頼みなさいと、箴言の語り手は諭します。

 すべてを采配しておられる方は、主(神)です。これは、たぶん、世界や時間を広く生き、経験を重ねるほどわかって来ることなのではないでしょうか。
 王として頂点を極めたソロモンだからこそ、人間が心に持つ計画の「限界」をよく知っていたでしょうし、実感として、神が世界を支配しておられることが、「見えて」いたのではないでしょうか。

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 王になること自体が、神の選びです。
 ソロモンの母はバテ・シェバです。彼女が、ダビデの何人もの妻の一人だったことは、当時の社会習慣の結果でした。ダビデには名前がわかっているだけで八人の妻(※)がいて、側女もたくさんいました。
 バテ・シェバが特別であることは、聖書読者ならだれでも知っています。ダビデの生涯の拭いがたい大きな罪の元になった女性だからです。ダビデとバテ・シェバが不倫を犯した時の子は死にました。そして、その後に生まれたソロモンは、結局ダビデの王国を引き継いだのです。これは、成り行きを見る限り、母バテ・シェバの政治力と機転があずかって力を発揮したようです。

 Uサムエル記・T列王記を読むと、バテ・シェバはなかなかしたたかな女性であることが見て取れます。そうだとしても、ソロモンが王位につけたのは不思議なことです。ダビデに王子はたくさんいたのです。有力なライバルだった、アムノン(Uサムエル記13章)アブシャロム(Uサムエル記14章〜18章)、アドニヤ(T列王記1章〜2章25節)などはいずれもダビデに可愛がられ,また容姿端麗で民の心を盗むだけの魅力もありました。ところが、それぞれに自滅していくのです。

 ソロモンは、自分の王座は神に対して責任があることを、充分理解していたはずです。
 つぎの言葉は、王に対する神のことばであると同時に、ソロモンの自覚でもあったと思います。

 王のくちびるには神の宣告がある。
 さばくときに、その口に誤りがない。(10節)
 正しいてんびんとはかりとは、主のもの。
 袋の中の重り石もみな、主が造られたもの。(11節)
 悪を行なうことは王たちの忌みきらうこと。
 王座は義によって堅く立つからだ。(12節)

    ミカル、アビガイル、アヒノアム、マアカ、
     ハギト、アビタル、エグラ、バテ・シェバ、






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2016年02月13日

Coffee Break箴言・52 直ぐな者の大路は悪から離れている。(箴言16章13節〜25節)

 

 王が神から任命を受けたとの自覚があり、神の御心を実現するのだという決意があるかぎり、政治に神の支配が反映されるでしょう。つまり、「人間の国」――世の国がそのままでも「神の国」に近づくことができるのです。
 
 神の御意思を代行しているとの自覚があると、王は当然、正義を喜びます。

正しいことばは王たちの喜び。
まっすぐに語る者は愛される。(箴言16章13節)
王の憤りは死の使者である。
しかし知恵のある人はそれをなだめる。(14節)
王の顔の光にはいのちがある。
彼のいつくしみは後の雨をもたらす雲のようだ。(15節)

 とくに、王制が当たり前の時代には、統治者は神の前にへりくだった者であるべきでした。その顔に現れる憤りも光もいつくしみも、神が表わされると同じ反応であるべきでした。そうすれば、神の威光の前にひれ伏すように、民は王の前にひざまずき王を尊敬し、国は良い方向に進んで行くでしょう。

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知恵を得ることは、黄金を得るよりはるかにまさる。
悟りを得ることは銀を得るよりも望ましい。(16節)

 ふたたび「知恵」です。箴言の諭しの目的が「知恵や悟りを得させること」にあるのですから、何度もここへ帰ってきます。

 知恵の根本は奸計ではありません。ただ真っ直ぐでありなさいというのです。自分の命を大切に思うなら、自分が真っ直ぐな大路を歩いているか、つねに監視している必要があります。

直ぐな者の大路は悪から離れている。
自分のいのちを守る者は自分の道を監視する。(17節)

 真っ直ぐな道かどうかの判断は、他の角度からでもできます。それが、つぎに語られます。

高ぶりは破滅に先立ち、
心の高慢は倒れに先立つ。(18節)
へりくだって貧しい者とともにいるのは、
高ぶる者とともにいて、
分捕り物を分けるのにまさる。(19節)

 高ぶる人は必ず破滅するのです。ところが、私たち人間はややもすれば隆盛な人に擦り寄って行きます。隆盛な人との付き合いは、たしかに仕事や勉強に「得るところが多い」と感じられるからです。ですが、その人も「高ぶりや高慢」があるかどうかは、きちんと見極めていなければなりません。高ぶる人が倒れる時にいっしょに倒れる可能性があるのです。それよりは、心のへりくだった貧しい人といる方が神さまがお喜びになるのではないでしょうか。
 真っ直ぐな大路を歩くために大切なのは、次のような態度です。

みことばに心を留める者は幸いを見つける。
主に拠り頼む者は幸いである。(20節)
心に知恵のある者は悟りのある者ととなえられ、
その快いことばは理解を増し加える。(21節)
思慮を持つ者にはいのちが泉となり、
愚か者には愚かさが懲らしめとなる。(22節)
知恵のある者の心はその口をさとし、
そのことばに理解を増し加える。(23節)
親切なことばは蜂蜜、
たましいに甘く、骨を健やかにする。(24節)

 人の見るところだけに心を奪われることは危険です。次のようにある通りです。

人の目にはまっすぐに見える道がある。
その道の終わりは死の道である。(25節)








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2016年02月14日

Coffee Break箴言・53 くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。(箴言16章26節〜33節)



 働く者は食欲のために働く。
 その口が彼を駆り立てるからだ。(箴言16章26節)

 これはまた、率直な言葉ですね。生活のためだけに働いている人は、つき詰めれば、「食うため」に働くと言うでしょう。だれも、この本音を非難することはできません。あり余る資産でもないかぎり、自分で自分を養うのです。
 食欲のためでも「働きたくない」者は、人に寄生するか、盗むか、飢え死にするしかありません。飢え時にはなかなかできませんから、よこしまなことを考えます。

 よこしまな者は悪をたくらむ。
 その言うことは焼き尽くす火のようだ。(27節)

 悪は、悪を招きます。盗んだりだましたりすれば、それをごまかすために嘘をつきます。心が曲がってきます。自分の嘘を正当化するために、陰口もたたきます。陰口はたしかに人間関係の信頼を壊すのです。

 ねじれ者は争いを巻き起こし、
 陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。(28節)

 もっと悪いのは、自分の悪を正当化するために他の人を悪の道に引き込むことです。

 暴虐の者は自分の隣人を惑わし、
 良くない道へ導く。(29節)
 目くばせする者はねじれごとをたくらみ、
 くちびるをすぼめている者は悪を成し遂げた者だ。(30節)

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 しらがは光栄の冠、
 それは正義の道に見いだされる。(31節)

 ここでの「しらが」は、たんに高齢者のことではないように思います。聖書では、長寿は、神の御心に叶う人が神からいただくものとの考え方があります。
 悪をたくらんだりすれば、それだけでいのちを縮めるのです。長生きしている人、しらが頭の老人になるまで生きていられること自体が、「正義の道を歩いてきた」者のいただく祝福だったのではないでしょうか。
 
 怒りをおそくする者は勇士にまさり、

 怒りにかられたら瞬間に反応して、怒鳴ったりクレームを付けたりする人がいます。そのような態度は、周囲に対して一定の確かな効果があるので、短気を「自慢」する人さえいます。しかし、箴言の著者は言うのです。

 自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。(32節)
 くじは、ひざに投げられるが、
 そのすべての決定は、主から来る。(33節)

 聖書では占いは禁じられていますが、くじは禁じられていません。ヨシュアとともにカナンに入ったイスラエルの民の相続地は、くじで決められています。(ヨシュア記18章19章)
 十二弟子の一人ユダが死んだ後、代わりの者を選ぶときにも、くじが用いられています。(使徒の働き1章23節〜26節)
 いずれも、神の国の歴史においてとても重大な局面です。
 たしかに選挙や協議で決めるのが合理的にも見えます。けれども、どんなに密議を尽くしても人間の考えには限界がありますから、くじで決めたのでしょう。この場合、くじに神の御意志が現れている。それに従うとみんなが思い、祈ることが前提です。





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2016年02月15日

Coffee Break箴言・54 一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言17章1節〜3節)



 一切れのかわいたパンがあって、
 平和であるのは、
 ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言17章1節)

 豊かな現代、このような言葉に実感を持てる人は、どれほどいるでしょうか。15章17節に「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」と同義の言葉がありました。人は誰でもおいしい物で満腹したいのですから、これもある意味逆説でしょう。

 楽園を追放されて以来、人は顔に汗を流して働かなければ生きていけないものとなってしまったのです(創世記3章19節)。さらに、カインが犯した罪で土地は呪われてしまった(創世記4章11節12節)のです。私たちは、食べ物のために苦しみ、人と争うようになってしまったのです。ですから、ごちそうや肥えた牛は、当然戦いの勝利の象徴です。満腹する楽しさはあっても、争いをはらんでいる戦利品なのです。

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 思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、
 その兄弟たちの間にあって、
 資産の分け前を受け継ぐ。(2節)

 たとえ、しもべの身分であっても思慮を持つことが大切だというのです。神はすべてを見ておられ、真実な者を引き上げて下さるからです。
 最近の日本は戦国時代に焦点が当てられた歴史検証が人気ですが、成功した武将、最後に勝利して行く大名たちには、思慮のある家臣がいたようです。また、長く続く家は、賢い跡継ぎを育てる制度だけでなく、しっかり者の家臣がいたのです。

 銀にはるつぼ、金には炉、
 人の心をためすのは主。(3節)


 人は生まれたままの「無垢」では生きていけません。また、神もそのような人間を望んでおられるのではなさそうです。アダムとエバは、文字通り生まれたままの人間でした。善悪も知らず、裸であることも知らず、自分たちが無防備であるとの自覚もないので、簡単にヘビの姿をした悪魔に誘惑されてしまいました。

 楽園を追放された後の人間には、さまざまな試練がふりかかってきました。罪に罪を重ねる人間を一度は滅ぼされたのです。神はノア一家だけを箱舟に避難させられたのです。
 けれども、そのノアの子孫達からも罪はひろがりました。そのために、人はさまざまな争いや労苦を生きていくことになります。けれども、苦難や試練は、人を精錬する炉だとの自覚も生まれました。
 主は、おのれの愛する者に、ムチを振るわれるのです。(へブル人への手紙12章6節)
 その結果として、神の前に成長することこそ大切だと言うのが、箴言の態度です。






posted by さとうまさこ at 10:50| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする