2016年02月16日

Coffee Break箴言・55 悪を行なう者は邪悪なくちびるに聞き入り、(箴言17章4節〜7節)



 悪を行なう者は邪悪なくちびるに聞き入り、
 偽り者は人を傷つける舌に耳を傾ける。(箴言17章4節)

 悪はひとりでに湧いて出るのではなさそうです。またまた創世記ですが、アダムとエバが禁断の木の実を食べる時も、その耳にささやきかけてきた「邪悪なくちびる」があったのです。(創世記3章1節〜6節)カインがアベル殺害を行なう時も、悪魔が戸口で待ち伏せしていると神が警告しておられます。ここでは、悪魔のセリフは書かれていませんが、悪魔はカインにささやきつづけていたのは明快です。(創世記4章1節〜8節)

 新聞で見たのですが、ある少女を山林に連れ込んで暴行殺害した犯人は、取調官に、「悪魔がささやいたのだ。(自分ではない)」と供述したとか。
 他人への不満を自分一人の胸に収めることができず、すぐに友人の同意を求める人がいます。すると、それは不思議と賛同者を得るのです。誰も、自分を偽り者だと思いたくないのですが、たしかに悪魔の囁きがあると、耳が、そば立つのです。

 貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。
 人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。(5節)

 貧しい者や災害にあった人をあざけるのは、ある意味とても簡単です。上司や身分の高い人の悪口などうっかり言えませんが、弱者に対するあざけりは、報復の心配がありません。

 近年では、公人としての発言やマスコミ報道では、人を不用意にあざけることが戒められています。しかし、私の記憶ではわずか30〜40年前に、「年寄りにお金を使うのは、枯れ木に水をやるようなもの」と発言した大臣がいたのです。今でも、性的暴行を受けた女性に「女の方にも責任がある。挑発するような恰好をしていた」などと言う「公人」がいます。
 公けでは言わないけれど、いつでも陰口なら、貧しい人や災害にあった人は、格好の槍玉です。そのような残酷な人間の言動を、神は見ておられるという自覚が必要なのでしょう。

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 孫たちは老人の冠、
 子らの光栄は彼らの父である。(6節)

 子孫の繁栄が祝福であり、人の喜びであるのは、時代を超えた真実です。

 すぐれたことばは、しれ者にふさわしくない。
 偽りのくちびるは、高貴な人には
 なおさらふさわしくない。(7節)

 しれ者(痴れ者)とは愚か者です。愚か者が立派なことを言うはずはないのです。りっぱなことを言うかぎりは、愚かな行動をしてはいけないのです。
 まして、自分を高貴であると自覚している人、回りからも尊敬されている高貴な人なら、言葉に気をつけなければならないと、戒められています。







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2016年02月17日

Coffee Break箴言・56 わいろは、その贈り主の目には宝石、(箴言17章8節〜12節、出エジプト記23章8節)




 わいろは、その贈り主の目には宝石、
 その向かう所、どこにおいても、うまくいく。(箴言17章8節)

 聖書はもちろん、賄賂を戒めています。神はイスラエルの民に十戒を下さったと同時に、十戒をさらに具体的にした多くの戒めを与えておられます。(出エジプト記20章〜23章)その個々の戒めの中に、
 わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。(出エジプト記23章8節)とあります。

 これは、今で言えば収賄側への戒めです。今日では、贈賄側も等しく罰せられるようになっています。箴言のこの箇所は、贈賄側を戒めているのです。

 椅子取りゲームの社会では、おいしい利権や社会的ポジションはたいてい厳しい取り合いになります。正々堂々公明正大に「ヨーイドン」をやっていては、取りっぱぐれることも多いわけです。自分のためだけにこっそり椅子を取り置いてもらうとか、あらかじめスタートラインに細工してもらうとかできたらと、つい思うのです。
 便宜を図ってもらうために昔から使われてきたのが「わいろ」です。残念ながら、古今東西賄賂の絶えることはなかったのでしょう。だから、箴言も、この先、何度もわいろについて戒めています。

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 そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。
 同じことを繰り返して言う者は、
 親しい友を離れさせる。(9節)

 罪を負おうとは罪を許すこと(新実用聖書注解・いのちのことば社P873)

 罪を許した後は、同じことを持ちださないようにという戒めです。たしかに、人は許したようでもなかなか忘れることはできません。それを、意思的に断ち切るのが「知恵」だと語られているようです。

 悟りのある者を一度責めることは、
 愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。(10節)
 ただ逆らうことだけを求める悪人には、
 残忍な使者が送られる。(11節)
 愚かさにふけっている愚かな者に会うよりは、
 子を奪われた雌熊に会うほうがましだ。(12節)

 ここでも、「愚か者」「悪人」と「悟りのある者」が対比されています。「愚かさにふけっている愚か者」とは、また容赦のない形容です。

 悟りのある者なら、一度責められれば「理解する」ことが、愚か者にはわかりません。それはたぶん、愚か者が「逆らうこと」そのことに溜飲を下げる性質があるからかもしれません。悪を飲む快感そのものが喜びになってしまった愚か者と付き合うのは、たしかに大変です。(自分がそうでないことを願いつつ・・・)
 森で、怒り狂った母熊に遭うよりも、災難だというのです。









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2016年02月18日

Coffee Break箴言・57 愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。(箴言17章13節〜16節、創世記8章21節)



 善に代えて悪を返すなら、
 その家から悪が離れない。(箴言17章13節)


 最近、テレビなどでは、日本史の戦国時代がブームです。下剋上の時代の、この「国取り合戦」は、美しくドラマチックに語られます。主な戦国大名たちもみな知恵のかぎりに戦い、それぞれにりっぱであったように見えます。大勢の家臣団を率い、口に大義、手に武器を掲げて、いのちを賭けてしのぎを削って生きている人たちは、今の私たちから見るとある意味、魅力的です。
 しかし、神がご覧になったらどうでしょう。結局、人間から「悪が離れない」状態ですね。
 もっとも、人間が自分の力で正しくあろうとしてもそれは無理な相談だと、神ご自身が仰せられています。

 「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(創世記8章21節)


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 争いの初めは水が吹き出すようなものだ。
 争いが起こらないうちに争いをやめよ。(14節)

 争いのタネはどこにでも転がっています。それこそ、思いがけず川の土手から「水が噴き出すようなもの」です。最初はアリの一穴でも、ほおっておくと堤防の決壊につながりかねません。そうなる前に、穴を塞ぐのが、知恵なのでしょう。

 悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、
 この二つを、主は忌みきらう。(15節)

 これは、裁判の場を想定した言葉のようです。(参・出エジプト記23章7節
 人は、自分の利害や先入観、偏見から、なかなか「正しい」判決ができないことがあります。けれども、主はすべてを見通しておられます。このような過ちを、主は忌み嫌われるのです。

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 愚かな者が思慮もないのに、
 知恵を買おうとして、手に代金を持っている。
 これはいったいどうしたことか。(16節)

 今日では、資本(金)の論理で世の中が回っているといっても過言ではないでしょう。有能な人材も、おカネ次第で集まると思われています。成長する企業にはそれをけん引するような「頭のよい」リーダーやブレーンがいるのです。そのような人材がいなければ、高額な給料でヘッドハンティングしてきます。

 教育や訓練を受けるのにもカネが必要だとの思い込みが、世の中に蔓延しています。
 子どもをエリートに育てるために、両親が寝る間も惜しんで働き、事実上、家庭の団欒がないとしたら、箴言で父親が語るような「知恵」を、子どもに与えられるはずがありません。
 しかし、神を知らせることなく、人間の知識だけに価値を置く危険は明白です。あやしげなリーダーに率いられた国が、しばしば、信じられないような害毒を流すのは、歴史が証明しています。







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2016年02月19日

Coffee Break箴言・58 愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。(箴言17章17節〜21節)



 友はどんなときにも愛するものだ。
 兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17章17節)

 友も兄弟も、今日の日本で考えるより、広い範囲の「関係」を指していたと思われます。
 荒野を転々とする遊牧生活や商人にとって、たまたま出会った相手との取引や関わりは当たり前のことだったでしょう。旅人を自分の天幕に招いて一杯の水を振る舞い、また、一夜の宿を提供する中で、互いに交流があり、知恵が広がる時代だったのです。ビジネスの情報も縁組も政治状況も、人から聞き、人間関係のうちに自分の行く道を判断したのです。今では、情報はネットやメディアを通じて日々取得することができ、自分の目と勘を信じて、人間関係を拓いて行かなくても良いようにも見えます。
 けれども、生身のひと一人から得る情報は、とても大きいのです。直接は何の益ももたらさないように見える相手であっても、あなどってはいけないのです。心を病む人、麻薬や酒に溺れる人は、基本的には、人間関係がうまくいっていないのではないでしょうか。

 ここでいう兄弟も、今の時代の同じ親から生まれた人間関係以上のものです。イスラエルでは、イスラエル人同士は「兄弟」だと認識していました、
 今日、クリスチャンが同じクリスチャンを「兄弟姉妹」と呼び合うのと同じです。ひとりの神(親)によって造られた人間同士なのですから、兄弟姉妹なのです。これは、肉の親による兄弟姉妹より強いきずながあるのです。「苦しみを分け合う」と認識されているのですから。

 しかし、保証人になることは、隣人であっても戒められています。

 思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、
 隣人の前で保証人となる。(18節)


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 そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。
 自分の門を高くする者は破滅を求める。(19節)

 喧嘩っ早いことを自慢する者がいますが、それは、神に対する「そむき」なのです。
 門を高くするとは、「喧嘩をしている人間が自己防衛をすること」を意味しているのではないかとと、新実用聖書注解(いのちのことば社)は説明しています。防衛のために、門や塀を高くして守ろうとするのです。しかし、防衛設備(軍備)が争いの根本解決にならないのは、歴史が証明しています。剣を取る者は剣で滅びる(マタイの福音書26章52節)のです。

 心の曲がった者は幸いを見つけない。
 偽りを口にする者はわざわいに陥る。(20節)
 愚かな者を生む者には悲しみがあり、
 しれ者の父には喜びがない。(21節)

 心が曲がっているか、偽りを口にしたかは、なかなか当人にはわかるものではありません。聖書全体を読むときの視点の要点は、愚か者は「だれか他の人」で、正しい人は自分と言う図式ではないと自覚しなければならないのでしょう。神の前に正しい人などいないのですから。
 愚か者――愚かな行いをしたとき、だれよりも、父親が胸を痛めるのです。これは、肉の父親のことだけではなく、なによりも、天の父の思いではないでしょうか。







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2016年02月20日

Coffee Break箴言・59 陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす(箴言17章22節〜28節)



 陽気な心は健康を良くし、
 陰気な心は骨を枯らす。(箴言17勝22節〜28節)


 これ、全くこの通りですね。NHKの今日の健康の標語にしてもらいたいくらいです。

 聖書の神様は因果応報や現生利益の神ではありませんから、聖書書物のなかには、世俗的な価値観からは理解に苦しむ様な物語もあります。
 モーセ五書に見るモーセの死一つをとっても、なんだか得心できないと思わせられるわけです。せっかく、四十年もイスラエルの民を率いてヨルダン川の手前まで来たのだから、あと一歩でカナンに入れる、その時になって、神はモーセがカナンに入れないこと、ひとりでネボ山に入って死ぬようにお命じになるのです。(申命記34章)

 小さな功績でもたたえてもらいたい、メダルや褒賞をもらって、死んだときには盛大な葬儀で送られ、出来ればモニュメントの一つも建ててもらいたいと願う人は多いのです。
 ところが、モーセの墓はどこにあるのか、だれも知らないと言う結末です。もちろん、キリスト者にとって、この世の墓やメダルは問題ではありません。モーセの最後はすばらしいのです。(もちろん、神様に大きく用いられた彼の全生涯が!)

 対して、箴言は、もう少しわかりやすいのです。神の価値に則って生きることが、人間的な価値にもつながるように書かれています。

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 悪者は人のふところからわいろを受け、
 さばきの道を曲げる。(23節)

 またしても、賄賂です。よほど賄賂が横行していたのでしょうか。上司やお世話になった方への贈り物そのものは、今日でもあることです。それで、さばきが曲げられるとしたら、その上司は「悪者」なのです。

 悟りのある者はその顔を知恵に向け、
 愚かな者は目を地の果てに注ぐ。(24節)
 愚かな子はその父の憂い、
 これを産んだ母の痛みである。(25節)
 正しい人に罰金を科し、
 高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、
 どちらもよくない。(26節)

 正しい人=悟りのある者=高貴な人、愚かな者=愚かな子と、またしても対比が続きます。正しさを打つのは、ただの愚か者より、もっと悪いのですね。

 しかし、神様ご自身が「正しい人はいない」と仰せのように、つい、愚か者になってしまう弱い人間は、どうしたらいいのでしょう。
 それが次の答えです。

 自分のことばを控える者は知識に富む者。
 心の冷静な人は英知のある者。(27節)
 愚か者でも、
 黙っていれば、知恵のある者と思われ、
 そのくちびるを閉じていれば、
 悟りのある者と思われる。(28節)

 「はい。仰せのとおりです。」と思わず頭を垂れてしまいます。








posted by さとうまさこ at 10:16| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする