2016年02月22日

Coffee Break箴言・60 おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。(箴言18章1節2節、創世記2章18節〜23節、マタイの福音書28章19節20節)



 おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、
 すべてのすぐれた知性と仲たがいする。(箴言18勝1節)
 愚かな者は英知を喜ばない。
 ただ自分の意見だけを表わす。(2節)

 人間は一人では生きていけないように造られています。アダムをお造りになったあとすぐに、神様は仰せられるのです。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2章18節)
 神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生きものにつける名はみな、それがその名となった。(19節)
 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けた。しかし、人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。(20節)

 このあと、アダムのあばら骨からエバが造られます。それを人は喜ぶのです(同21節〜23節)
 これは、人間のカップルの由来ですが、同時に、人間がひとりでは生きることができないという大切な神のメッセージです。神はアダムがひとりの人(a man)としてでなく、人類(Man)として生きるように決められたのです。

 人間は「群れ」の中で生き、群れのハーモニー(和)を大切にします。どれほど個性的な人も才能のある人も、群れの中でその個性が光り、才能が生きるのです。しばしば、「ハーモニー」(和)は、日本人の持つ強い美質だといわれますが、聖書は、人間を唯一の神さまによって造られた、ひとつの命のように扱っています。聖書の物語りでは、ノアやアブラハムやイスラエル(ヤコブ)、モーセ等が、固有名詞で登場しますが、彼らはすべて「神の救いのご計画」のために指名を受けたに過ぎません。罪に罪を重ねて「箸にも棒にもかからない人間たちを救いに導くご計画のために」神は彼らを用いられ、民族としてイスラエルを、救い主を誕生させる麦畑として選びだされました。
 しかし、救い主が誕生して救いが完成した今は、「全人類」(としての群れ)が明確な救いの対象としてして認識されています。

 イエス様が十字架にかかって死なれたのも、全人類の罪のためでした。復活されて、天にお帰りになるとき、主イエスは仰せになっています。

 あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、[マタイの福音書28章19節]
 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように,彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(20節)

★★★★★

 じつは、神は聖書を通して、人に知性や叡智について、繰り返し語っておられるのではないでしょうか。
箴言18章の冒頭の2節も、それゆえ、「おのれを閉ざす」「自分の意見だけ主張する」ことは、神のことばを聞かない者のことを指していると思われます

 群れとしてのハーモニー、神とのハーモニーの中にこそ、優れた知性や英知あると、神ご自身が仰せなのでしょう。心しなければとは思いますが、人には難しいことですね。







posted by さとうまさこ at 10:34| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月23日

Coffee Break箴言・61 陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。(箴言18章3 節〜10節)




 悪者が来ると、侮りも来る。
 恥とともに、そしりも来る。(箴言18章3節)
 人の口のことばは深い水のようだ。
 知恵の泉はわいて流れる川のようだ。(4節)
 悪者をえこひいきすることはよくない。
 正しい者をさばきのときに否むこともよくない。(5節)

 侮りやそしりや恥をもたらす者が、悪者であると、箴言は語ります。人は言葉一つで、知恵も湧き、知識も得る。ことばを聞いていると、その人の心の深さがわかる。
 悪者をえこひいきしたり、正しい者の言い分を退けたりする者はすなわち、悪者だと読み取れます。

 愚かな者のくちびるは争いを起こし、
 その口はむち打つ者を呼び寄せる。(6節)
 愚かな者の口は自分の滅びとなり、
 そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。(7節)

 私たちが日常、争いになる場面のほとんどに、言葉が関係しています。会社の社員管理のシステムや学校の統制方法などに文句を言うより、誰かの口から出たことばの方が人を傷つけることが多いのです。人を傷つける言葉が、自分の落ち込む罠にならないはずがありません。
 
 ★★★★★

 陰口をたたく者のことばは、
 おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。(8節)

 「人の不幸は蜜の味」
と言うことわざがあります。さらに、陰口がおいしい食べ物になるのは、人を非難したりバカにしたりする言葉が、陰口をたたく相手と共有できるからでしょう。
 たとえば、知り合って直ぐの人には、ふつう他人の陰口を話題にしません。告口されたりしたら大変ですから、互いに心が許せるまで言わないわけです。
 飲み会などで上司の陰口で盛り上がるのは、「気が許せる」雰囲気のためでしょう。
 それが酒の上でのきずなであっても、陰口を共有すると、溜飲が下がり、場が盛り上がるのもまた人間の愚かな一面です。

 陰口で盛り上がりそうなとき、どうすれば巻き込まれないのでしょう。自分がその輪に入らなければ、つぎは自分がターゲットになるような気がします。
 方法はひとつしかありません。主のお名前を唱えて、主のことばの中に入れていただくのです。
 自分の身を厳しく律するように主は仰せでしょう。無駄話をしている間に働くことです。主は、勤勉を勧めておられます。(箴言6章6節〜19)
 「小人閑居して不善を成す」
 「怠け者の頭は悪魔の仕事場である」
などのことわざにある通り、怠惰と悪徳は背中合わせです。

 自分の仕事をなまける者は、
 滅びをもたらす者の兄弟である。(9節)
 主の名は堅固なやぐら。
 正しい者はその中に走って行って安全である。(10節)








posted by さとうまさこ at 10:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月24日

Coffee Break箴言・62  人の心は病苦をも忍ぶ。  しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(箴言18章11〜15節、ヨハネの福音書11章25節26節)



 富む者の財産はその堅固な城。
 自分ではそそり立つ城壁のように思っている。(箴言18章11節)

 財産がたっぷりとあるのは、堅固な城に住んでいるような気分になることでしょう。
 円高も株暴落も、戦争でさえ恐くないと思えるほどの資産があって、たとえば、スイス銀行に多額の預金をしていたら、どこに行っても何もしなくても暮らしていけるのです。一見平等に見える現代でさえ階級はあり、堅固な城を構えて悠然と暮らせる人がいるのは、どうやら事実のようです。
 ただ、どれほどの財産に支えられていても、それはたしかに完璧ではないのです。人は結局、「死に向かって」歩いているのです。「そそり立つ城壁」ごと、死の淵に落ちていくのです。
 
 鉄壁の城壁に守られていると思うことは、破滅を招くことです。
 ほんとうの城壁は、金銀財宝ではなく「栄誉」であるべきなのです。栄誉をもたらすのは、謙遜だと箴言の著者は言います。

 人の心の高慢は破滅に先立ち、
 謙遜は栄誉に先立つ。(12節)

★★★★★

 よく聞かないうちに返事をする者は、
 愚かであって、侮辱を受ける。(13節)

 「よく聞く」大切さは、人間関係の基本としてあらゆる機会に教えられるのですが、私などはなかなか実践できないのです。対人折衝に何らの齟齬、断絶を見て初めて、自分の失敗に気づかされるのです。

 人の心は病苦をも忍ぶ。
 しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(14節)
 悟りのある者の心は知識を得、
 知恵のある者の耳は知識を求める。(15節)

 たくさんの病人が、多くの病院で深刻な病と闘っています。人間は不治の病であってもなんとか治療して元気になりたいと思うのです。生きようと思うかぎり、大きな傷痕の残る手術も、副作用の大きい抗がん剤や辛いリハビリにも、立ち向かえます。しかし、心がひしがれた瞬間、私たちは耐えきれなくて壊れてしまうのではないでしょうか。

 さいわい、私たちは謙遜になって耳を傾ければ、たしかな知識が得られます。
 たとえ、どれほどの絶望の先にも、それが「死」であっても、死は終わりではないと、断言して下さる方の声が聞こえるのです。
 死んでも生きると宣言して下さる方との、天における生は、今とは比べようもないすばらしいものだと、教えられるのです。

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネの福音書11章25節26節)








posted by さとうまさこ at 10:05| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月25日

Coffee Break箴言・63 反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。(箴言18章16節〜24節)



 人の贈り物はその人のために道を開き、
 高貴な人の前にも彼を導く。(箴言16節)

 箴言は、警句の前提として、ときに人間社会の現象を容赦なく説明します。人間は矛盾した者ですから、ときに正反対の警句が意味をもつのです。贈り物がうまく働けば力ある人とのコネに繋がるのです。賄賂も贈り物の一種ですが、賄賂の中でも、さばきを曲げたり人を依怙贔屓する場合にのみ、とくに神は警告しておられるのでしょう。

 最初に訴える者は、
 その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。(17節)

 子どもの喧嘩を見ていると、この通りです。「Aちゃんが叩いた」などと、Bちゃんが手をさすりながら訴えます。「ぼく何にもしてないのに!」
 すぐにAちゃんがやって来て、両方の言い分を聞いてみると、その前にBちゃんがAちゃんの漫画を隠したなんてことがわかります。

 どうしても分けることのできないものの所有権などで争っている時、くじで決めるのは最善の方法かもしれません。たとえば、ハイキングに行った時に化石を拾ったとか、クラスで一人だけ代表としてテレビ出演出来るなんてときは、権利をくじで決めるのが一番すっきりするのではないでしょうか。

 くじは争いをやめさせ、
 強い者の間を解決する。(18節)

★★★★★

 反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。
 敵意は宮殿のかんぬきのようだ。(19節)

 人はどういうきっかけで、敵意を持ち、人や世の中に反抗することになるのでしょう。悪意に満ちた世界観は、一度や二度の経験で生みだされるものではないのでしょうが、恨みや敵意が積もって心のしこりとなっている人は、人を寄せ付けません。仲良くしたいと思っても、敵意のかんぬきで心の扉をしっかりと押さえているからです。
 カウンセリングが必要な人に、親切な、また愛情のこもった態度を示しても、なかなか効果が得られないのは、カウンセリングの方法が間違っているとは限らないでしょう。

★★★★★

 人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、
 そのくちびるによる収穫に満たされる。(20節)
 死と生は舌に支配される。
 どちらかを愛して、人はその実を食べる。(21節)

 ふたたび、口と唇への警告です。発する言葉は、すぐに消えるように見えるのに、恐ろしい効果があります。おくればせながら、生に繋がる、良い実のなる言葉を発するようになりたいと思うのです。

 良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、
 主からの恵みをいただく。(22節)
 貧しい者は哀願するが、
 富む者は荒々しく答える。(23節)
 滅びに至らせる友人たちもあれば、
 兄弟よりも親密な者もいる。(24節)

 男社会である聖書の世界でも、「良い妻」は男に幸せを与え、家庭を恵みに満ちた場にしたのです。共稼ぎが当たり前で、フィフティフィフティの夫婦関係の今日なら、配偶者選びは、なお大切でしょう。 
 さらに、出来れば、「滅びに至らせる友人」ではなく、「兄弟よりも親密な友人」をもちたいものです。





posted by さとうまさこ at 09:42| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月26日

Coffee Break箴言・64 貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。(箴言19章1節〜7節)



 貧しくても、誠実に歩む者は、
 曲がったことを言う愚かな者にまさる。(箴言19章1節)


 長く生きて来て実感するのは、「誠実であること」の価値ですね。沢山の人とすれ違う人生ですから、その後、長く関係が続く人は一部です。大部分の人は記憶の中にしまわれています。けれども、誠実という言葉とともに甦る人がいます。熱血と言う単語にふさわしく見える人もいます。「才能」だとか、「聡明」「優秀」「出世頭」「憧れ」「ろくでなし」など、いろいろな単語に引っ張られて出てくる顔があります。でも、長い年月の後にも、思い起こして温かい気持ちになるのは「誠実」な人です。
 きらきらと輝いていたけれど、嘘が多かったとわかる人は、イミテーションの宝石と同じです。

 箴言では、曲がったことを言う者は愚か者だと断定しています。
 誠実な者が貧しい可能性があるように、愚か者が「成功者」「金持ち」かもしれないのです。
 結果ではなく、心の在り方を戒めているのでしょう。

★★★★★

 熱心だけで知識のないのはよくない。
 急ぎ足の者はつまずく。(2節)

 これは、心の状態をまた違う切り口から開いています。確かに、どんな場面でも熱心な人がいます。女性なら、みんなで食事を作ろうというような場面で、先頭に立って甲斐甲斐しく働く人です。目標に向かって「早く」「がんばって」と熱くなって、その場を引っ張って行こうとします。やがて、とつぜん失敗に気が付いて、慌てふためき、「まあ、こういうやり方もありよ。ねえ。発見、発見」などと開き直ったりします。
 だれもその時、クレームを付けなくても、結果的に出来上がった料理がまずくなくても、これは失敗です。急ぐのであれば、なお、初めにしっかり段取りを覚え、レシピや手順を記憶しておかなければなりません。

 さらに大切なのは、つまづいたときの対処です。自分自身で反省し、他の人には謝罪の態度を出すのはなかなか難しいのです。神様に対して、謝るのはもっと難しいかもしれません。
 自分の性格や容貌を親のせいにし、その親の元に生を受けさせた神(主)に噛みつくのは、案外簡単なのです。
 神様は、たちどころに反論したりなさらないので、言い放題になる人もいます。

 人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。
 しかもその心は主に向かって激しく怒る。(3節)

★★★★★

 財産は多くの友を増し加え、
 寄るベのない者は、その友からも引き離される。(4節)
 偽りの証人は罰を免れない。
 まやかしを吹聴する者も、のがれられない。(5節)
 高貴な人の好意を求める者は多く、
 だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。(6節)
 貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。
 彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。
 彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。(7節)

 世の中を生きる時に、「神」の知識と同時に、神ならざる「人間」についても知っていなければいけないのでしょう。
 箴言は、金持ちであることや高貴な地位の利点を、率直に認めています。
 神は「貧しいけれども誠実な人」を評価しておられるのですが、やはり、貧しさはいろいろな形で人を「打つ」のです。
 それでも、貧しさを「拗(す)ねる」のは間違っています。それは、「主に向かって激しく怒ること」だと、戒められています。








posted by さとうまさこ at 09:43| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする