2016年02月26日

Coffee Break箴言・64 貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。(箴言19章1節〜7節)



 貧しくても、誠実に歩む者は、
 曲がったことを言う愚かな者にまさる。(箴言19章1節)


 長く生きて来て実感するのは、「誠実であること」の価値ですね。沢山の人とすれ違う人生ですから、その後、長く関係が続く人は一部です。大部分の人は記憶の中にしまわれています。けれども、誠実という言葉とともに甦る人がいます。熱血と言う単語にふさわしく見える人もいます。「才能」だとか、「聡明」「優秀」「出世頭」「憧れ」「ろくでなし」など、いろいろな単語に引っ張られて出てくる顔があります。でも、長い年月の後にも、思い起こして温かい気持ちになるのは「誠実」な人です。
 きらきらと輝いていたけれど、嘘が多かったとわかる人は、イミテーションの宝石と同じです。

 箴言では、曲がったことを言う者は愚か者だと断定しています。
 誠実な者が貧しい可能性があるように、愚か者が「成功者」「金持ち」かもしれないのです。
 結果ではなく、心の在り方を戒めているのでしょう。

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 熱心だけで知識のないのはよくない。
 急ぎ足の者はつまずく。(2節)

 これは、心の状態をまた違う切り口から開いています。確かに、どんな場面でも熱心な人がいます。女性なら、みんなで食事を作ろうというような場面で、先頭に立って甲斐甲斐しく働く人です。目標に向かって「早く」「がんばって」と熱くなって、その場を引っ張って行こうとします。やがて、とつぜん失敗に気が付いて、慌てふためき、「まあ、こういうやり方もありよ。ねえ。発見、発見」などと開き直ったりします。
 だれもその時、クレームを付けなくても、結果的に出来上がった料理がまずくなくても、これは失敗です。急ぐのであれば、なお、初めにしっかり段取りを覚え、レシピや手順を記憶しておかなければなりません。

 さらに大切なのは、つまづいたときの対処です。自分自身で反省し、他の人には謝罪の態度を出すのはなかなか難しいのです。神様に対して、謝るのはもっと難しいかもしれません。
 自分の性格や容貌を親のせいにし、その親の元に生を受けさせた神(主)に噛みつくのは、案外簡単なのです。
 神様は、たちどころに反論したりなさらないので、言い放題になる人もいます。

 人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。
 しかもその心は主に向かって激しく怒る。(3節)

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 財産は多くの友を増し加え、
 寄るベのない者は、その友からも引き離される。(4節)
 偽りの証人は罰を免れない。
 まやかしを吹聴する者も、のがれられない。(5節)
 高貴な人の好意を求める者は多く、
 だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。(6節)
 貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。
 彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。
 彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。(7節)

 世の中を生きる時に、「神」の知識と同時に、神ならざる「人間」についても知っていなければいけないのでしょう。
 箴言は、金持ちであることや高貴な地位の利点を、率直に認めています。
 神は「貧しいけれども誠実な人」を評価しておられるのですが、やはり、貧しさはいろいろな形で人を「打つ」のです。
 それでも、貧しさを「拗(す)ねる」のは間違っています。それは、「主に向かって激しく怒ること」だと、戒められています。








posted by さとうまさこ at 09:43| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする