2016年03月01日

Coffee Break箴言・68 だれが、「私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた。」と言うことができよう。人(箴言20章5節〜12節)



 人の心にあるはかりごとは深い水、
 英知のある人はこれを汲み出す。(箴言20章5節)

 一見、人間は物質世界を耕して、物質世界から物質を取り出すことに汲々としているように見えます。人が物質世界から何かを得ようとするのは、「土の器である自分の体」が、「物質」だからです。人は食べ物で自分を養い、衣服で体を覆い、しっかりと自分を守ってくれる「巣」(住まい)が必要です。けれども、いのちの本質は心です。英知もさまざまなはかりごとも、「こころ」から生まれます。どれほど、豊かで十分な物資に囲まれている人も、今日住む場所のないホームレスであっても、アスリートの様な強靭な肉体を持っている人も、瀕死の病人であっても、「こころ」はあり、心がすべての思いや行動の司令室です。

 最近では、この心の動きを脳の働きであるとか、ある種の電気刺激が脳内を伝達して、いろいろな思索や感情が生まれるのだと言われています。「こころ=心臓」のように考えられていた時代に対する新しい観点だというわけです。
 ただ、脳に司令室(こころ)があるとわかったところで、心の問題が解決するわけではなさそうです。むしろ、心の病は文明社会で増えているからです。精神科などという昔にはなかった診療科目、脳科学と名づけられた研究分野は花盛りで、脳や心に働くと言われる薬もたくさん開発されて確かに、一定の効果は見られるようですが。
 
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 人を動かす司令室「こころ」は、病んで、機能不全に陥るときだけ問題なのでしょうか。
 この複雑怪奇な場所をコントロールするのは、だれであっても、その持主にとって「難題」であるはずです。
 箴言は、自己コントロールができかねる人間の心を問題にしています。

 多くの人は自分の親切を吹聴する。
 しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。(6節)
 正しい人が潔白な生活をするときに、
 彼の子孫はなんと幸いなことだろう。(7節)
 さばきの座に着く王は、
 自分の目ですべての悪をふるい分ける。(8節)


 いかにも人格者らしく見える人がいます。キリスト者なら、神に取り扱っていただくことが必要なことも「知って」います。ですが、ほんとうに神に忠実な人は、なかなか見つけられないと、箴言は語っているのです。司令室を完全に神様に明け渡すことが、どれほど難しいかは、聖書を開いて、同時に自分の胸に手を当ててみるだけでわかります。
 王が、まことに神さまから委託された権能を持って人を裁くなら、その前に出ることは恐ろしいことです。

 だれが、「私は自分の心をきよめた。
 私は罪からきよめられた。」と言うことができよう。(9節)

 そう。誰も、自分で私は罪からきよめられたとは言えません。

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 異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、
 そのどちらも主に忌みきらわれる。(10節)
 幼子でさえ、何かするとき、
 その行ないが純粋なのかどうか、
 正しいのかどうかを明らかにする。(11節)

 今の時代、秤をごまかすことは難しくなりました。重さも容積も長さも規格を国家が決めています。さらに、これは古代社会から行なわれていたことですが、近年ではより厳格に正確になっていて、さらにコンピュータの導入で計算も正確ですから、商店でごまかされる心配をする人はあまりいないでしょう。

 見える秤は使い分けられなくなりましたが、「見えない秤」はどうでしょう。
 ダブルスタンダードという言葉があります。世界を判断するのに、だれでもメジャーを使い分けていて、それがあまりにも当たり前なので気が付かないくらいです。

 「子どもは保護しなければならない」という基準の元でも、自分の子どもと他人の子どもでは扱いが異なるでしょう。「自然を守らなければならない」ことはわかっていますが、愛する自然を求めて未踏の山や森や川に入って行き、自然の秩序を壊していきます。難民は保護されるべき対象ですが、自分の国に入って来るとなると、当惑することも多いのです。
 これは、もう赤ん坊の時から使い分けることを覚えるのです。確かに幼児でさえ、大人の顔色を見ます。友だちと争って負けると、「火がついたように泣いて」相手の不当を訴えます。自分自身は何食わぬ顔で、ズルをしたりするのです。

 聞く耳と、見る目とは、
 二つとも主が造られたもの。(12節)

 「聞く耳」と「見る目」は、もちろん、主が私たちに与えて下さったのです。それは、主のみこころを伺うためでもあり、同時に、主が私たちのこころ(の指令室)をどのようにご覧になっているかを、自分で見張るためでもあると語られているようです。






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2016年03月02日

Coffee Break箴言・69 金があり、多くの真珠があっても、知識のくちびるが宝の器。(箴言20章13節〜20節)




 眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。
 目を開け。そうすればパンに飽き足りる。(箴言20章13節)

 親が子供に対して一番心配するのは、結局、「食い詰めないか」ということではないでしょうか。最近の日本は豊かで社会福祉もまあまあ整っていますから、子供が「稼ぐようになるかどうか」は、あまり心配の種ではないでしょうか。それでも、一流大学へ行かせよう、技能を身に付けさせようと、親は教育費を掛けます。子どもが将来、たしかに「稼ぐ」ことができるためです。
 箴言の時代は、今のような特技や学歴は問題ではなかったのでしょうか。大部分が農業や牧畜の社会では、明日の生活を確かなものにするのは勤勉です。
 日本の民謡にもありました。「小原庄助さん。なんで身上(財産)潰した? 朝寝朝酒朝湯が大好きで、それで身上潰した。」(民謡・会津磐梯山より)

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 買う者は「悪い、悪い。」と言うが、
 買ってしまえば、それを自慢する。(14節)

 これは直接的には売買の駆け引きの心理でしょうか。人の手にある間は、ケチをつけて値切るのです。けれども、自分のものになれば自慢の種です。安く買いたたいたのに、他人には、高かったと吹聴するのです。

 金があり、多くの真珠があっても、
 知識のくちびるが宝の器。(15節)

 財産があれば、たしかに一定の「存在感」はあります。でも見え透いた自慢話など、ほんとうに知識のある人には何の意味もありません。
 お金を貸すためにも、知識が必要です。何度も出て来るように、「保証人になってはいけない」 しかし、金を貸すなら抵当を取るのが「知恵」です。相手が女なら情にほだされるかも知れないけれど、それこそ「ワナ」です。神が出生前からイスラエルの士師として決めたおられたサムソンは、女性に弱かったために身を滅ぼしたのです。(士師記13章〜16章)

 他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。
 見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ。(16節)

 同時に、手段を選ばす利益を貪ることも警告されています。
 だまし取ってはいけないのです。

 だまし取ったパンはうまい。
 しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。(17節)

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 相談して計画を整え、
 すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。(18節)


 箴言の根本は、知識と知恵を教えることです。神から来る知識が、一番価値があると始めから宣言しています。戦う時はとくに、計画と優れた指揮者が必要です。

 歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。
 くちびるを開く者とは交わるな。(19節)
 自分の父や母をのろう者、
 そのともしびは、やみが近づくと消える。(20節)

 あちこちの人に出歩いてゴシップを流すのは、もっとも「知識のないくちびる」の持ち主です。友人に選ぶと危険です。
 親の悪口を言わないまでも、心ではのろっている人は案外多いのかもしれません。成人したのちも、自分の失敗や挫折や欠点を親や生育環境のせいにする人がいます。不幸なことです。
 反面、親から得たものを余り感謝せずに受け取ります。親の財産を相続できるのは、子供にとって当然のことだからです。
 しかし、それが本当に「当然のことかどうか」、やがてわかってくるのではないでしょうか。

 初めに急に得た相続財産は、
 終わりには祝福されない。(21節)






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2016年03月03日

Coffee Break箴言・70 「「悪に報いてやろう。」と言ってはならない(箴言20章22節〜26節)



 「悪に報いてやろう。」と言ってはならない。
 主を待ち望め。主があなたを救われる。(箴言20章22節)

 聖書は復讐を禁じています。申命記に、「復讐と報いとはわたしのもの、」と神のことばがあります。これを受けてパウロも言っています。

 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りにまかせなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである」わたしが報いをする、と主が言われる。」(ローマ人への手紙12章19節)


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 異なる二種類のおもりは主に忌みきらわれる。
 欺きのはかりはよくない。(23節)

 今日では、目に見える秤で不正を行なう人は少ないのですが、「異なる二種類のおもり」は存在します。人が完全に正しくありえない限り人の判断基準はしばしば変わるのです。むしろ自覚して、主が忌嫌われるものは何かを少しでも考えるのが、人にできる最善かもしれません。

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 人の歩みは主によって定められる。
 人間はどうして自分の道を理解できようか。(24節)
 軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、
 誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。(25節)
 知恵のある王は悪者どもをふるいにかけ、
 彼らの上で車輪を引き回す。(26節)

 今でも献金は、しばしば話題になります。ネットを見ると、献金が信仰を否定する第一の理由になってると言わぬばかりのサイトさえあります。自分の命も含めて、すべてのものは神が所有しておられると、頭では理解できても、ささげ物をするのは容易でないからでしょう。

 旧約の時代の動物のいけにえも同じです。ささげ物規定にある厳格な規則を見ると、繰り返し、傷のない雄の牛、羊、こひつじ、やぎとなっています。傷のない健康な家畜です。老いて肉が固くなり、種つけにも役立たず、群れの中で邪魔になるような動物ではありません。(レビ記1章3節、10節、3章1節6節)
 牛や羊一頭をささげ物にするのは、かなり大きなささげ物だったのでしょう。お金のない人は、鳩のような鳥でもよく、穀物でさえ許されたのです。そこで、大金持ちではないけれど、無理すれば羊をささげ物にできる人の中には迷ったのでしょうか。
 あるいは、信仰心に燃えて請願を立てる時には、つい、大きなささげ物をすると誓ったりする者もいたのでしょう。
 しかし、主への誓いは、「軽々しくする」ものではないのです。イエスさまも軽々しい誓いを、戒めておられます。(マタイの福音書5章33節〜36節)

 奉仕でも献金でも精一杯の物をささげるのは良いことでしょうが、誓ったかぎりは誓いを果たせと神が命じられているのです。
 神様は、できないことに同情できない方ではありませんし、大きなささげ物が、大きな約束の実現になるわけでもありません。
 人の目を気にしたりして、また一時の感情で大きなささげ物を誓うより、神様に対して真実な者になりましょうとは、ある牧師が教えて下さったことです。







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2016年03月04日

Coffee Break箴言・71 人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。(箴言20章27〜30節)



 人間の息は主のともしび、
 腹の底まで探り出す。(箴言2027節)


 人間が生きる者となったのは、神から息を吹き込んでいただいたからです。土のちりでかたちが造られたままであれば、たんに土偶に過ぎませんが、神は最初から「いのちある存在」をお造りになるおつもりだったのです。ただの「いのち」ではありません。

 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記2章7節)

 神はもちろん、地上のすべての動物と植物をお造りになったのです。しかし、彼らに与えられたいのちと人間のいのちは、本質的に違っています。神様のいのちの息を直接いただいたのは、人間だけです。このことは、私たちが神さまに似せて象られた証拠です。このことゆえに、神様は私たちの腹の底まで見通しておられるのです。それは、神様の監視の目ではなく、私たちを見守られる神の愛の現れ、一方的な恵みです。

 恵みとまこととは王を守る。
 彼は恵みによって王位をささえる。(28節)

 よく言われるように、私たちが神の愛の対象であるのは、私たちの側に何か功績があったからではありません。一方的な神の恵みなのです。実際の社会では、富や権力や能力の差が見られ、神の恵みにも不公平があるようにさえ思えます。とくに、人々を支配する権力と権威をもった王に生まれるか、奴隷に生まれるかで、人間の価値さえ異なっているように見えたでしょう。聖書は、王の権力は神が与えたものであると明言しています。(ローマ人への手紙13章1節、伝道者の書8章2節)

 世俗的に多くの人間が欲しがる権力や権威、それが神から与えられたものであるのは、意味があることです。神から与えられたということを忘れるなら、「神から」取り上げられることもあり得ます。サウルは、少しも野心のないところから王に選ばれ、ためらいながら王の座に就いたような人でした。一時はイスラエルのために一所懸命戦いました.しかし、その中で、自分を任命してくれたサムエル(神の代弁者)を無視するようになり、結局、王座を失っていくのです。(Tサムエル記9章〜15章、19章〜24章)

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 若い男の光栄は彼らの力。
 年寄りの飾りはそのしらが。(20節)
 打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。
 腹の底まで打ちたたけ。(30節)

 これは、老人が力のある若い男に対して教育する必要を、強調しているのではないでしょうか。。箴言全体の趣旨にそったものです。白髪になった者には、その義務があるのでしょう。腕力が失われていっても、「仕事」はあるようです。






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2016年03月05日

Coffee Break箴言・72 王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。(箴言21章1節〜12節)




 王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。
 みこころのままに向きを変えられる。(箴言21章1節)

 農夫が畑の水路の向きを自由に変えられることが、たとえとして用いられている。(新実用聖書注解P879・いのちのことば社)
 神から権威と権力を委託された王は、主のみこころに沿った政治をしなければいけないと戒めています。

 人は自分の道はみな正しいと思う。
 しかし主は人の心の値うちをはかられる。(2節)

 これは、ほんとうに「その通りです」。王のような責任ある立場か否かにかかわらず、主にはかられていることを意識しないといけないと、自戒です。
 つぎは、信仰者にとって本質的なことです。実生活で正義や公義に反していて、その穴埋めに、りっぱないけにえをささげても主には喜ばれないのです。

 正義と公義を行なうことは、
 いけにえにまさって主に喜ばれる。(3節)
 高ぶる目とおごる心――
 悪者のともしびは罪である。(4節)

 高ぶる目とおごる心そのものが、罪ということでしょう。しかし、「自分に自信や確信があれば高ぶり、成果があればおごるのが、人間」嘆息です。
 
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 勤勉な人の計画は利益をもたらし、
 すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。(5節)

 お金の稼ぎ方も箴言のテーマです。神の御心に沿った収穫の仕方は、勤勉から来るのです。計画を立てて汗を流して働くことです。
 
 偽りの舌をもって財宝を得る者は、
 吹き払われる息のようで、
 死を求める者だ。(6節)
 悪者は自分の暴虐に引きずられる。
 公義を行なおうとしないからだ(7節)

 詐欺まがいのやり方で儲ける人は昔からいたのでしょう。問題は、箴言が語られた時代から二八〇〇年ほども経っていて、はるかに便利で豊かな時代になっているのに、詐欺まがいの商売がなくならないことでしょう。それどころか、電子機器の発達で、犯罪も進化しているくらいです。
 振り込め詐欺防止に、銀行や郵便局のATMにこの言葉を貼っておきたいですね。

 罪人の道はねじれている。
 しかし、きよい人の行ないはまっすぐだ。(8節)

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 争い好きな女と社交場にいるよりは、
 屋根の片隅に住むほうがよい。(9節)

 19章13節に、「妻のいさかいは、滴り続ける雨漏り」とあります。女性に対しては、行いが正しいかどうかより、どうやら「口うるささ」が問題になっているようです。
 日本などでも、昔は「女子と小人は養い難し」などと平気で言う人がいました。小人とは子どもではなく、人徳のない人のことですから、これをいっしょくたにするのは女性に対する蔑視ですね。箴言も突然女性への不満が出てくるのです。
 
 悪者のたましいは悪事にあこがれ、
 隣人をあわれもうとはしない。(10節)

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 あざける者が罰を受ける時、
 わきまえのない者が知恵を得る。(11節)

 昔は公衆の面前で刑罰を行ないました。「見せしめ」の効果を狙っていたのかもしれません。わきまえのない者でも、刑罰を見ると、罰を受けるようなことはすまいと思うでしょう。つまり「学ぶ」のです。
 ただし、もともと知恵のある人なら、それはもっと高い次元の知識になります。それは、人の善悪を見分けるような知識です。
 見る目のある知恵ある人から、「悪事をしている」と判断されるような人は、「滅びる」運命にあるのです。

 知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。(11節)
 正しい人は悪者の家を見抜く。
 悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。(12節)







posted by さとうまさこ at 09:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする