2016年03月06日

Coffee Break箴言・73 王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。(箴言21章13節〜17節)



 箴言で、繰り返し強調されているのは、正義と公儀を行なうことです。正義と公儀の具体例については、聖書が随所に示しています。たとえば、十戒とそれに伴う細則に見られる社会的弱者へいの配慮です。

寄るベのない者の叫びに耳を閉じる者は、
自分が呼ぶときに答えられない。(箴言21章13節)

 新約聖書には有名な善いサマリヤ人のたとえがあります。(ルカの福音書10章30節〜37節)

 旅の途中に強盗に会い、瀕死の状態で倒れている旅人を、たまたま行き会ったサマリヤ人が助け、自分のお金で宿まで連れて行き、介護し、さらに宿の人にお金を渡して後を頼んで旅を続けます。彼の前に、見てみぬふりをして通り過ぎた祭司やレビ人がいたのです。半ば異教徒であるサマリヤ人の方が神の目に正しいことをしていると、イエスが当時の宗教者を皮肉った話です。


 また、イエスのことばにも次のようにあります。
 
 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でっも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは決して救いに漏れることはありません。(マタイの福音書10章42節)

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ひそかな贈り物は怒りをなだめ、
ふところのわいろは激しい憤りをなだめる。(14節)

 聖書の戒めは賄賂を禁じていると思うのですが、箴言では、贈り物の効用も説いているようです。たしかに、世渡りは杓子定規に正義を主張するばかりでは、うまくいかないからでしょうか。たしかに、賄賂の見返りを初めから計算しているような贈り物は、悪です。しかし、贈り物には、好意を得るため、つながりを保つため、喜んでもらうためなど様々なレベルがあるのは事実です。

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公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、
不法を行なう者には滅びである。(15節)
悟りの道から迷い出る者は、
死者の霊たちの集会の中で休む。(16節)

銀行でも会社でも、教会であっても、会計監査がありますが、これは当然ですね。正しく行なわれているかチェックすることもまた、公儀を行なうことです。どんなに立派な人格者でもチェックが入らないと堕落します。時折、ベテランの銀行員の使い込みだとか、営業マンの会社のお金の流用などが明るみに出ますが、不法を行なっている者はチェックによって滅びるのです。
 正義と公儀を生きるのは、悟りです。結局、その方がいのちにつながるのです。

 快楽を愛する者は貧しい人となり、
 ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。(17節)

 快楽は、勤勉と両立しません。また健全な生活とも両立しません。ぶどう酒や油はぜいたくの象徴として挙げられています。(新実用聖書注解・いのちのことば社)







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2016年03月07日

Coffee Break箴言・74 悪者のいけにえは忌みきらわれる。悪意をもってささげるときは、なおさらのこと。(箴言21章18節〜27節)



 悪者が正しい人のための身代金となり、
 裏切り者が直ぐな人の身代わりとなる。(箴言21章18節)

 口語訳では、この箇所は次のように訳されています。

 悪しきものは正しい者のあがないとなり、
 不真実な者は正しい人に代る。(口語訳聖書・日本聖書協会による)

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 争い好きで、うるさい女といるよりは、
 荒野に住むほうがまだましだ。(19節)

 男の中にも争い好きでうるさい人間はいると思うのですが、これは妻のことでしょうか。夫婦は「一体となる」のですから、それだけにその人格は人生に影響しますね。これは、悪い妻をもった男の悲鳴のように聞こえます。

 知恵のある者の住まいには、
 好ましい財宝と油がある。
 しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。(20節)
 正義と誠実を追い求める者は、
 いのちと正義と誉れとを得る。(21節)
 知恵のある者は勇士たちの町に攻め上って、
 その頼みとするとりでを倒す。(22節)

 「勝者が戦いに勝って戦利品を取り」「財宝と油がある家は知恵のある者の住まい」「いのちや誉れがあるのは正義と誠実を追い求めた者」、
 このような因果関係には抵抗を覚える方もいると思います。
 箴言は、善因善果の世界です。これは、天地万物をお造りになり、人を楽園に置かれ、罪を犯した後は楽園から追放し、人が悪に傾くときには、容赦なく滅ぼされようとされる「[厳しい]聖書の神」のイメージと少し異なっています。箴言は、「人が人の幸福を願って」書かれた物なので、神の大きさや深さ、つまり世界観が少し狭いのではないでしょうか。
 しかし、逆に、安全に、誠実に生きたい人には多くの示唆が与えられています。

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 自分の口と舌とを守る者は、
 自分自身を守って苦しみに会わない。(23節)
 高ぶった横柄な者――その名は「あざける者」、
 彼はいばって、横柄なふるまいをする。(24節)
 なまけ者の欲望はその身を殺す。
 その手が働くことを拒むからだ。(25節)
 この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。
 しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。(26節)

 自分の唇(舌)をコントロールすること、謙遜であること、働き者であることは、繰り返し勧められている美徳です。神の御心に沿った生き方をし豊かになる人は、人に惜しみなく与えることもできます。
 また、ささげ物を奮発することもできます。

 悪者のいけにえは忌みきらわれる。
 悪意をもってささげるときは、なおさらのこと。(27節)

 けれども、悪者といわれるような生活態度で得た富、さらに、ささげ物の目的に「悪意がある」場合、主はそのような人も、ささげ物も忌み嫌われるのです。






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2016年03月08日

Coffee Break箴言・75 馬は戦いの日のために備えられる。 しかし救いは主による。(箴言21章28節〜31節)



 まやかしの証人は滅びる。
 しかし、よく聞く者はいつまでも語る。(箴言21章28節)
 悪者はあつかましく、
 正しい者は自分の道をわきまえる。(29節)
 主の前では、
 どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。(30節)

 主の憎まれるものが、繰り返し示されています。「まやかしの証人」「あつかましい悪者」が、どこか別の場所にいるのではなく、まあまあ健全な市民だと思っている自分の中にもいることを知らせることが、「箴言」の意図ではないでしょうか。
 神様の知恵や英知に太刀打ちすることなどできないとわかっていても、自分でいろいろはかりごとを巡らせるのが、人間ですね。

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「王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。『二度とこの道を帰ってはならない。』と主はあなたがたに言われた。(申命記17章16節) 
 
 これは申命記にある戒めです。エジプトで奴隷であったイスラエルにとって、エジプトはやはり、まばゆいばかりの先進国、軍事大国だったようです。荒野の四十年の間にも、先行きに不安を覚えてエジプトに戻ろうとした人たちがいました。(民数記14章1節〜4節)
 物が豊かで暮らし向きが良い国は、今日でも人々の憧れであり、目標です。しかし、豊かな場所が軍備によって守られているのは、現代も昔も同じです。
 
 馬は、旧約聖書の中では軍備を象徴していることばです。古代の世界的帝国は、すべて馬によって成立したといっても過言ではなかったのです。エジプトから馬を買ってはならないと戒めがあるのは、エジプトが馬を持って繁栄していたことを意味するのでしょう。アッシリヤもバビロンも、アケネメス朝ペルシャもギリシャやローマ帝国も馬によって弱小国を征服し、版図を広げていきました。14世紀、朝鮮半島から東欧までのを蹂躙し、短い時間に大帝国を築いたモンゴルは、馬を自在に操る遊牧民でした。
 馬は、航空機や車が完全に実用化される前の第一次世界大戦までは、有力な軍用兵器だったのです。
 しかし、そのような「完璧な軍備に守られた国家」「軍拡競争」が、人々を救ってきたのでしょうか。

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 馬は戦いの日のために備えられる。
 しかし救いは主による。(31節)
 
 ソロモンは、イスラエルの王でしたから、人が備える軍備より、主の守りの方がはるかに頼りになることを「知っていた」と思います。それでも彼は多くの馬を買い、軍備を整えました。

 ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼らの元に集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王の元にも置いた。(T列王記10章26節)

 王として世俗の国家をも治めなければならない時、軍備は仕方がないのでしょうか。
 それでも、ソロモンは、真に人間を救うのは「主」その方であることを、子供たちに、伝えたかったのです。神によって立てられた「神聖政治国家・イスラエル」を神様からゆだねられている王として、当然ですね。







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2016年03月09日

Coffee Break箴言・76  謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れと命である。(箴言22章1節〜5節)



 名声は多くの富よりも望ましい。
 愛顧は銀や金にまさる。(箴言22章1節)


 名声や評判、信用が社会の中で富を生むことは誰でも知っています。名声の結果、多くの人にご贔屓(愛顧)をいただけるようになったら、つまり、今風に言えばファンがたくさんできれば、「売れっ子」になります。売れっ子になることがどれほどの富につながるかは、企業にとっても、歌手や芸術家にとっても「宣伝」に躍起になることからもわかります。

 富む者と貧しい者とは互いに出会う。
 これらすべてを造られたのは主である。(2節)

 富む人が「貧しい人からはるかに隔てられて」存在しているのでないのは事実ですね。たとえば、居住地とか出かけるリゾート地とか、レストランとかホテルのランクは違うかもしれませんが、それでも、富む人は貧しい人のすぐ横にいるはずです。でなければ、快適で豊かな生活はあり得ません。
 貧しい人は富む人が経営する企業で働いていたり、富む人が流すお金を得たりして暮しているのです。もし、いっさいの富が回って来なければ、貧しい人も生活できません。

 日本のことわざにもあります。
 かごに乗る人、かつぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人。

 富の格差を感じさせられるとき、妬ましい気持ちや忸怩たる思い、社会批判が浮かぶかもしれませんが、聖書は、私たちの心理的葛藤に立ち入りません。ただ、どちらも、「神が造られた」と言うのです。

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 利口な者はわざわいを見て、これを避け、
 わきまえのない者は、進んで行って罰を受ける。(3節)

 反面教師という言葉があります。誰かが間違いを犯してわざわいに遭う時、それを教訓とできるかどうかは人生を左右するかもしれません。私たちの中には、自分は特別だと思いたい気持ちがありますから、人のわざわいを見て避けるのではなく、自分はもっとうまくやれると挑戦したりします。
 しかし、「わざわいそのものも、神によって備えられたもの」という、謙遜な気持ちが大切だと思います。

 挑戦してはいけないのではなく、悪魔にそそのかされて挑戦することを戒めているのだと思います。
つぎの言葉も、この原則に繋がっています。

 謙遜と、主を恐れることの報いは、
 富と誉れと命である。(4節)
 曲がった者の道にはいばらとわながある。
 たましいを守る者はこれらから遠ざかる。(5節)

 大地震などが起った時、どのように対処するか検討し、対策を向上させるのは大切だと思います。人間の英知で出来ることは、可能な限り努力して実現させなければいけないのでしょう。けれども、「神がいるなら、なぜこんな悲劇が起こるのか」と、神に噛みつくのは間違っています。それなら同時に、神がいるから起ったすべての出来事――子供が生まれたとか、また新しい年を迎えられたとか、すばらしい朝に喜んでいるとか。食事がおいしいといったことすべてにも、神を思わなければ公平とは言えません。

 神のお造りになったこの地上で、神のお造りになった自分のいのちを楽しく享受しながら、自分自身は遭わなかった災害に批判を加えて神を侮辱するのは、みずから息の根を止めているようなものではないでしょうか。
 私たちにとって、たましいを守ることが何より大切ですが、聖書は、たましいが神の息からいただいたと記しています。(創世記2章7節)







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2016年03月10日

Coffee Break箴言・77  若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22章6節〜9節)



 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。
 そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22章6節)

 三つ子の魂百までというのは、おそらく真実ではないでしょうか。地上生活における性格上のさまざまな癖は、幼いときにすでに基礎が出来上がっているような気がします。それは生まれた場所が不遇だったことと、必ずしも一致しないでしょう。問題は、大人が子供をどのように教育するかにかかっています。
 「将来行く道にふさわしく」教育するのです。とくにソロモンの時代は階級や立場もはっきりしていたでしょうから、若いうちにふさわしい態度や技術を教えるのです。身の程を教えられなければなりません。
「そこから離れない」の「そこ」は、神の民の自覚でしょうか。「主を恐れること」ことを教えるのが、基本です。

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 富む者は貧しい者を支配する。
 借りる者は貸す者のしもべとなる。(7節)
 不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。
 彼の怒りの杖はすたれる。(8節)

 箴言は、人間の貧富の差や、上下の差、力関係についてじつに容赦のないところを記しています。
 今日の私たちが住んでいるのは、民主主義や公平平等が当然の建前の世界です。ですから、権力の悪や差別、貧富の実態などは訂正されるべきだという論調で、世界を見ます。それは良いことなのですが、そのことによって、厳しい現実がかえってオブラートに包まれている可能性を見なければならないのではないでしょうか。

 ブラック企業が告発されていますが、形を変えて現れています。過労死するほどの労働も同じです。働いて賃金を得て暮すしかない者は、「富む者」に支配されるのです。お金を貸す側の銀行や金融業者がどれほど強いかは、社会問題や社会現象の報道に現れています。

 ただ、私たち神に信頼する者には、それでも、希望があります。神が報復して下さるはずだからです。
 「怒りの杖」で貧しい者弱い者を追いたてるような者は、結局自分が蒔いた災いを刈り取るというのです。

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 善意の人は祝福を受ける。
 自分のパンを寄るベのない者に与えるから。(9節)

 余っているパンは寄るべのない者に与えよというのが、神様の御命令ですね。
 飢饉を見通して備蓄したヤコブの息子ヨセフは、大きく祝福されています.祝福の結果として宰相にまで上り詰めました。そうして、大勢の飢饉の被災者に穀物を売ることができたのです。
 さらに、その権力のおかげで、イスラエル一族がエジプトに移住することができ、そこでじっくり数を増やして、イスラエル民族が形成されたのです。
これとは対照的な貯蔵の例がルカの福音書に記されています。
 金持ちが豊作の年に大きな蔵を建てて、すべての財産とともに仕舞込み、うそぶくのです。
 「これで安心だ。たましいよ。安心して食べて、飲んで、楽しめ」
 神様はこの金持ちに言われるのです。
 「愚か者。お前のたましいは、今夜お前から取り去られる」(ルカの福音書12章19節20節)

 知恵ある備蓄と貪欲な者の貯蔵との違いに、注意しなければと思わされます。






posted by さとうまさこ at 10:49| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする