2016年03月16日

Coffee Break箴言・83  「酒と女」への戒め(箴言23章22節〜35節)



 22節からは、親の子どもへの語りかけになっています。
 「あなた」「わが子」と、呼び掛けているのです。しかし、語りかけているのは、「主(神)」ご自身です。

 あなたを生んだ父の言うことを聞け。
 あなたの年老いた母をさげすんではならない。(箴言23章22節)
 真理を買え。それを売ってはならない。
 知恵と訓戒と悟りも。(23節)
 正しい者の父は大いに楽しみ、
 知恵のある子を生んだ者はその子を喜ぶ。(24節)
 あなたの父と母を喜ばせ、
 あなたを産んだ母を楽しませよ。(25節)

 子どもを育てるのは、大変なことです。人間の子育ては、ほかの動物のように餌を与えて養い、巣立ちまで守るだけで良いのではありません。目標が「神様の御前に正しい人になる」ことであるなら、到達点は限りなく高いのです。神様のことを、不完全な人間である親が教えなければなりません。親子の間には、当然大きな葛藤が生まれます。父親との間には、断絶や亀裂が生まれます。母親に対しては、「さげすむ」かもしれません。
 神は仰せです。
 一時的には、いさかいや憎しみがあっても、「父と母を喜ばせなさい!」「真理を売ってはならない」。

 わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。
 あなたの目は、わたしの道を見守れ。(26節)

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 遊女は深い穴、見知らぬ女は狭い井戸だから。(27節)
 彼女は強盗のように待ち伏せて、
 人々の間に裏切り者を多くする。(28節)

 女性からの誘惑に対する戒めも、何度も出てきます。
 快楽が目的の「楽しい男女関係」はそれ自体、かぎりなく魅惑的なのです。悪魔の絶好の働き場にもなり得ます。十戒では、それゆえ、姦淫を戒め、石打の刑を定めています。(出エジプト記20章14節)もっともこの場合の姦淫は、女性に夫がいる場合です。妻のいる男性が、独り身の女性と交わるのは姦淫とは言いません。あるいは、独り身同士の性的関係は、「不品行」と言いました。

 聖書時代は、女性に仕事がない時代です。親や兄弟の後ろ盾もなければ、遊女(売春婦)になる者もいたのでしょう。遊女は当然、複数の男性を客とするのです。客には嘘をついて「うれしがらせ」を言い、その場限りの恋愛ゲーム、夫婦関係を演じることになります。
 純真な若者はそのような遊女の口に乗せられ、身を誤ることも多かったに違いないのです。
 ペリシテ人の遊女の手練手管に乗ったサムソンは、イスラエルの英雄だったのに、悲惨な死に方をしなければなりませんでした。(士師記16章1節〜31節)

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 悪魔の誘惑にはまり込んだ人は、次のような症状に見舞われます。

 わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。
 争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。
 ゆえなく傷を受ける者はだれか。
 血走った目をしている者はだれか。(29節)


 ぶどう酒を飲みふける者、
 混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。(30節)
 ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、
 なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。(31節)

 アルコール飲料も、文明とともに始まったといわれています。
 http://gigazine.net/news/20150911-history-of-booze/

 しかし、アルコール飲料も悪魔の働き場になりやすいのです。「正しい人」ノアがぶどう酒に酔った時、全裸で前後不覚に寝入っていたのです。それは、息子に「ゴシップの罪」を犯す機会を与えました。(創世記9章20節〜26節)

 あとでは、これが蛇のようにかみつき、
 まむしのように刺す。(32節)
 あなたの目は、異様な物を見、
 あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、(33節)
 海の真中で寝ている人のように、
 帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。(34節)
 「私はなぐられたが、痛くなかった。
 私はたたかれたが、知らなかった。
 いつ、私はさめるだろうか。
 もっと飲みたいものだ。」(35節)

 たしかに、「芸術」と言えるようなカクテルがあり、家一軒に匹敵するような高価なワインもあります。ワインや日本酒、ビール、ウイスキーなどの製造工程をテレビで見ることがありますが、そこには、細心の注意が払われていて、知性の集積といえるほどの工程があり、その味や香りや色を守る専門職の人がたくさんいて、なるほど、酒類も「文化」だと思わせられるのです。

 けれども、魅惑的なものは同時に危険があります。酩酊の度合いを自覚しながら飲まなければいけないのですが、それが難しいのです。
 アルコールが入った状態で運転してはいけないように、いつの日か、アルコールももっと厳しく社会的制限を受けることになることでしょうか。





 

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2016年03月17日

Coffee Break箴言・84  あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る(箴言24章5節〜9節、T列王記12章4節〜12節)



 悪い者たちをねたんではならない。
 彼らとともにいることを望んではならない。(箴言24章1節)
 彼らの心は暴虐を図り、
 彼らの唇は害毒を語るからだ。(2節)

 家は知恵によって建てられ、
 英知によって堅くされる。(3節)
 部屋は知識によって
 すべて尊い、好ましい宝物で満たされる。(4節)

 悪事で成功しているように見えるものをねたんではならない。家を建てるのは、「知恵による」と言うのです。

★★★★★

 知恵のある人は力強い。
 知識のある人は力を増す。(5節)
 あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、
 多くの助言者によって勝利を得る。(6節)

 知恵や知識のあるところには、勝利を導くすぐれた指揮もあります。
 ここは、ソロモンが王になる息子を念頭に置いたことばのようにも思えます。知恵のある多くの助言者を持つことで、勝利を得るというのです。
 じっさいには、ソロモンの王位を継いだレハブアムは、父のこのような助言に従うことができませんでした。

 ソロモンの死後、全イスラエルは、ヤロブアムを立ててレハブアムに要求を出しました。
「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」(T列王記12章4節)
 すると、彼はこの人々に、「行って、もう三日したら私のところに戻ってきなさい」と言った。そこで、民は出て行った。(5節)

 レハブアムはこの時、家来の助言を求めるために時間を取ったのです。そのこと自体は王として正しかったのです。彼は、父ソロモンに仕えていた王宮の長老たちと、自分の取り巻きの若者たちとに助言を求めました。
 長老の意見は、「あなたが、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答え、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう。」と言うものでした。それに対して、世間知らずの若者たちは王に対して間違った助言をしました。

「私の小指は父の腰より太い。私の父はお前たちに重いくびきを負わせたが、私はお前たちのくびきをもっと重くしよう。」(同10節、11節)と言いなさいといったのです。
 レハブアムは結局、知恵のない者たちの助言に従いました。
 結果、イスラエルはダビデ王朝系統の南王国と、ヤロブアム率いる北王国に分裂してしまうのです。

 愚か者には知恵はさんごのようだ。
 彼は門のところで、口を開くことができない。(7節)

 さんごは、海のないイスラエル人にとって、めったに見ることもできない高価な宝物でした。愚か者にとって、知恵はさんごのような物だとたとえられているのです。

 悪事を働こうとたくらむ者は、
 陰謀家と言われている。(8節)
 愚かなはかりごとは罪だ。
 あざける者は人に忌みきらわれる。(9節)

 悪事を働いて陰謀を巡らせることは、神様の目からご覧になって「罪」だと断言されています。そのような者は、人から忌み嫌われるのです。神様が忌嫌われるのはもちろんです。つまり、「ねたむな」と24章1節の最初の言葉を受けているのです。






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2016年03月18日

Coffee Break箴言・85  捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言24章10節〜12節)



 楽屋をお見せするようですが申し訳ないのですが、のっけから言い訳です。一度、ワードで記事を書いてコピーし、ブログに出すのです。ところが、ついさっき、何を間違ったのか、コピーしたつもりが書いた記事が全部消えてしまいました。そのあと処理も間違ったらしくて、いっさい残っていません。
 気落ちしましたが、書きなおすことにします。

 もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、
 あなたの力は弱い。(箴言24章10節)

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 捕えられて殺されようとする者を救い出し、
 虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(11節)

 かつて、少しだけ「死刑廃止運動」に関わっていたことがあります。これは、じつは非常に難しい社会運動なのです。なぜなら、日本では、今でも死刑廃止に反対する世論の方が多いのです。個人的にも、何の関係もない善良な市民に対する非道な殺人事件などを見ると、とうぜん加害者を憎む気持ちはもつのです。

 社会運動としては、例えば、「災害の被害者を助けよう」という世論に反対する人はいません。障害者や高齢者、さまざまな病気を持っている人、ひとり親家庭や親のない子供たちも、助けられるべきです。福祉は、充実する方が良いに決まっています。
 ところが、死刑になる人を助けようという意見には、かなり強い拒絶反応を示す人は多いのです。
 それゆえ、私たちはデモ行進をする前に、「完全に秩序ある行進をすること」「たとえ、道行く人からからかわれたり、挑発的行為を受けたりしても応じないこと」などを、確認しなければなりませんでした。
 そこには、弁護士や人権活動家の人たち、宗教家、国会議員などもいたので、実際には、私のような一介の市民が、誰かと論争になるようなことはありえませんでした。

 それに、「何故死刑がいけないのか」といった問は、とてもシリアスな議論が必要で、大声を上げて論争するにそぐわない問題です。

 たとえば、「殺人を否定する国家が、人を殺しても良いのか」と言う意見。
「死刑廃止は世界の趨勢である。死刑を廃止または停止している国は、死刑存置国より圧倒的に多い」

 ウィキピデア
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6

 アムネスティインターナショナル
http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/statistics.html

 たとえば、「神さまがお造りになったかけがえのない人間を『更生の見込みなし』などというのは、おかしい」
 また、どんな人間の行為も「酌量の余地がない」などとは言えない。
 たとえば、「冤罪の可能性」。これについては、「たとえ、九十九人の真犯人を逃しても、一人の冤罪者を出してはいけない」と、冤罪問題を扱っているルポライターは言うのです。

★★★★★ 

 人間は、だれでも「良いことをしたい」気持があると思います。ですが、出来るなら、良いことのために「災難や苦難」にあったり、犠牲を払ったりしたくないとも思います。
 ですから、ブームのように人が集まる社会運動がたくさんあります。同時に、日の当たらないところで苦しんでいる人、見捨てられている人も、たくさんいるのでしょう。
 私自身、人のためになにかに献身しているとは言えません。せめて、神様の声を聞きたいと思って、毎日聖書を読んでいますが、それも、どうでしょう。

 助けがそこに来ているのに沈んでしまう人も悲惨ですが、助けを呼び求めているのに、知らぬ顔をして人が通り過ぎる、そんな目に遭っている人がいるかもしれません。自分はちょっと心を配れば助けられる人を、黙殺しているかもしれないのです。
 神様に次のように言われているのはたぶん、私自身でもあるのでしょう。

 もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
 人の心を評価する方は、
 それを見抜いておられないだろうか。
 あなたのたましいを見守る方は、
 それを知らないだろうか。
 この方は
 おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(12節)

 ただ、悔い改めるしかありません。




 
posted by さとうまさこ at 10:46| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月19日

Coffee Break箴言・86  悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。(箴言24章13節〜23節)



 わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
 蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。(箴言24章13節)
 知恵もあなたのたましいにとっては、そうだと知れ。
 それを見つけると、良い終わりがあり、
 あなたの望みは断たれることがない。(14節)

 箴言そのものが、知恵を求めなさいという訓戒です。24章は、踏み込んで、知恵がどのようなものかを説明しています。

 知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。(同5節)
 愚か者には知恵はさんごのようだ。(7節)

 ここでは、知恵が蜂蜜にたとえられています。知恵は行使したり守ったりするために労苦を伴なうのではなく、「おいしい」「口に甘い」蜂蜜のように、たましいを喜ばせ養うのです。知恵を求めているかぎり、良い終わりがあり、望みが断たれることがないと言うのです。

★★★★★

 知恵をもったものは、望みが断たれることがないのですから、悪者は、「知恵ある人」に戦いを挑んでも勝ち目はないのです。

 悪者よ。正しい人の住まいをねらうな。
 彼のいこいの場所を荒らすな。(15節)
 正しい者は七たび倒れても、
 また起き上がるからだ。
 悪者はつまずいて滅びる。(16節)

 倒れても倒れても起き上がるのを、七転び八起きなどといいます。人は時に、何度転んでも起き上がるように励まされます。しかし、人の頑張りには限界があります。箴言はその頑張りが、「正しい者=知恵ある者」に必然的に与えられるものだと宣言しています。
 ただし、と条件がつくのです。

 あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。
 彼がつまずくとき、
 あなたは心から楽しんではならない。(17節)
 主がそれを見て、御心を痛め、
 彼への怒りをやめられるといけないから。(18節)

 敵が倒れると、だれでも嬉しいものではないでしょうか。まして自分の命を狙っていた相手なら、手を打って楽しみたくなるでしょう。
 しかし、自分の住まいやいのちを狙った相手であっても、溜飲を下げて喜んだりするのは間違っているようです。なぜでしょう。そもそも、勝たせて下さったのは主であり、主は、すべての人の父であられるのです。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイの福音書5章45節)

 神様は、悪者さえお造りになったのですから、彼が悪いために転んだにしても、あなた(私)があまりに彼の失敗を喜んでいると、逆に悪者への怒りをやめられるかもしれない、のです。

★★★★★

 悪を行なう者に対して腹を立てるな。
 悪者に対してねたみを起こすな。(19節)
 悪い者には良い終わりがなく、
 悪者のともしびは消えるから。(20節)

 大事なことは、隆盛な人を見ても、「腹を立てたり、ねたんだり」しないことだと戒められています。それが、悪であるゆえの成功なら、そんなものに、「良い終わりはなく」「悪者のともしびは消える」のです。

 わが子よ。主と王とを恐れよ。
 そむく者たちと交わってはならない。(21節)
 たちまち彼らに災難が起こるからだ。
 このふたりから来る滅びをだれが知りえようか。(22節)

 これらもまた、知恵ある者による。(23節a)







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2016年03月20日

Coffee Break箴言・87  さばくときに、人をかたより見るのはよくない。(箴言24章23節〜29節)



 さばくときに、人をかたより見るのはよくない。(箴言24章23節)
 悪者に向かって、「あなたは正しい。」と言う者を、
 人々はののしり、民はのろう。(24節)
 しかし、悪者を責める者は喜ばれ、
 彼らにはしあわせな祝福が与えられる。(25節)
 正しい答えをする者は、
 そのくちびるに口づけされる。(26節)

 私たちは、学校で、立法、行政、司法の三権分立と習いました。権力は最低この三つに分けて独立を与えられていないと、政治は腐敗に繋がるのでしょう。ところが、三権のうち。司法は国民には「地味」に映るのではないでしょうか。裁判所は、「不正を判定するところであり」その判定基準に法律があるのは、理屈ではわかっていますが、法廷に持ちだすような「問題」は、出来るなら起らないほうが良い、法廷で白黒付ける前に話し合いで解決したほうが良いと、どこかで思っているのです。

 とくに、大きな裁判、世論が二つに割れるような裁判は、当事者でない者には「何が真実なのか」わからないこともあります。「悪者に向かって、あなたは正しい」と判定したのではないかと思わせられるのです。「不当判決!」と原告が泣いているような場面があるわけです。

 キリスト教国では、いまでも裁判の関係者、証人などが聖書に右手を置いて宣誓するのでしょうか。神の前で、真実を話すというのが、さばきの前提になっているのです。

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 外であなたの仕事を確かなものとし、
 あなたの畑を整え、
 そのあとで、あなたは家を建てよ。(27節)
 あなたは、理由もないのに、
 あなたの隣人をそこなう証言をしてはならない。
 あなたのくちびるで惑わしてはならない。(28節)

 私たちが他人に対して偽りを言うのは、なによりも「自己の損得」に影響があるときではないでしょうか。ミステリーでは、都合の悪い自分の過去を知っている人間を殺すといった設定があります。暗い事実の前に、ゆする人間と、ゆすられる人間が対立しているのです。

 また、人間には栄えている人を妬む暗い心があります。「隣の芝生は青い」のです。イスラエルの王アハブには、領民ナボテのぶどう畑がとても素晴らしく見えました。彼に別の畑と交換してくれるよう申し入れましたが、先祖伝来の土地を大切に思うナボテは、拒絶しました。すると、アハブの妻イゼベルは夫に悪だくみを唆すのです。偽りの証人を立ててナボテを死刑に追いやり、ぶどう畑を取り上げます。(T列王記21章1節〜17節)

 王ではない者は、これほど悪らつなことはできません。しかし、罪人である人間は、だれでも人をうらやむ結果、悪を謀る可能性がないとは言えません。
 箴言のこの箇所は、「人のことをうらやんでいる間に、働きなさい」と忠告しているのでしょう。

「彼が私にしたように、私も彼にしよう。
私は彼の行ないに応じて、仕返しをしよう。」
と言ってはならない。(29節)

 神は、一貫して復讐を戒めておられます。悪い人を恨んで仕返しを考えている間に、自分の畑を耕し、家を建てる方が、たしかにポジティブです。








posted by さとうまさこ at 09:08| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする