2016年03月22日

Coffee Break箴言・88  外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたの家を建てよ(箴言24章30節〜34節)



 24章は、「悪い者たちをねたんではならない(箴言24章1節)」ということばで始まります。
 「悪事を働こうとたくらむ者は、陰謀家と言われている。愚かなはかりごとは罪だ。あざける者は人に忌み嫌われる(同8節9節)と受けています。
 「悪者よ。正しい人の住まいをねらうな。――悪い者はつまずいて滅びる。(
15節16節)」「悪を行なう者にたいして腹を立てるな。悪者に対して妬みを起こすな。(19節)」
「外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたの家を建てよ」。
さらに、「『彼がしたように、私も彼にしよう。私は彼の行いに応じて、仕返しをしよう』」と言ってはならない。」(29節)と、訓戒が続くのです。

 神様からの知恵(箴言)は教えています。人を妬んだり復讐を考えたりしている間に、「自分の持ち場で働きなさい」。

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 労働が、支配者からの圧力だと考えられた時代があったと思います。「奴隷労働」「搾取」などという言葉があるのです。げんに支配階級や金持ちは、人を雇うことで、多くの面倒な労働から解放されてきたのです。畑にクワを入れたこともない人が、収益だけ取り上げ、食器を洗ったこともない者が一番上等のごちそうを食べている。機織りも縫い物もしない者が、豪奢で美しい着物をまとっている――。
 そのような社会の構図は、人に格差を作り、また格差があるかのごとく思わせ、労働する側である人間の誇りを奪い、ねたんだり、嘘をついたりしてさえ「盗もうとする人間の罪」を増長させてきたかもしれません。

 私たちは、富の格差が人をゆがめたと思いたいのですが、聖書を見ると、「嫉妬」は、富の偏在の前に既に存在しています。カインがアベルを殺したのは、嫉妬でした。悪事を働こうとする「陰謀家」はエデンの園にもいたのです。言葉巧みにエバを唆して、禁断の知恵の実を食べさせた悪魔です。さいわい、それは、神が御造りになった人間ではありませんでしたが。

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 労働が苦しいもの、喜ばしくないものという「刷り込み」は、「楽園追放の記憶」と関係していると思われます。
 簡単に悪魔に誘惑されてしまったアダムとエバに対し、神は、宣告しておられます。
「――あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。――。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにあなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3章17節〜19節)
 けれども、同時に、神はノアを祝福して言われたのです。「生きて動いているものはみな、あなたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(創世記9章3節)

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 私は、なまけ者の畑と、
 思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。(箴言24章30節)
 すると、いばらが一面に生え、
 いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれていた。(31節)
 私はこれを見て、心に留め、
 これを見て、戒めを受けた。(32節)

 聖書を見れば、この世界のすべては神様の所有物です。神様がお造りになり、所有し、支配しておられるのです。しかも、神様はそれらを、「すべて与えた」と言って下さったのです。人に、神様並の知恵があれば、いただいたものを適切に管理し、公平に分配し、誰ひとり、飢えたり、苦しんだりすることなく、享受できるはずなのでしょう。けれども、パラダイスのような「平和と公平と喜び」を、邪魔する者がいるのは事実です。
 嫉妬や陰謀に加えて、怠慢もその一つであると、聖書は語っているように思います。

 しばらく眠り、しばらくまどろみ、
 しばらく手をこまねいて、また休む。(33節)
 だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
 あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(34節)

 楽をしたい、手をこまねいて休みたいと思う時、すでに悪魔が働いているのかもしれません。








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2016年03月23日

Coffee Break箴言・89  事を隠すのは神の誉れ、事を探るのは王の誉れ(箴言25章1節〜7節)



 次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである。(箴言25章1節)

 わざわざ、このような書き出しがあるのは、箴言全体がソロモンの時代に成立したものと考えられているからでしょう。
 この部分はソロモンより約200年後のヒゼキヤ(BC715‐686年)の時代に、彼の書記たちが編集して書き写したものであろう。(新実用聖書注解・いのちのことば社P885)

 事を隠すのは神の誉れ。(2節a)

 たしかに神のなさることすべてを、知ることはできませんね。神が天地万物をすべて創造され、すべてを所有され、すべてを支配しておられると認めるのですが、どのことばも、人間の理解に余る内容を含んでいます。
 ときおり、「聖書はめちゃくちゃである。理解できない」と腹を立てているご意見を、ネットなどで見ますが、当然ですね。人間の限られた能力では、神のわざなど、一生かけても理解できないのではないでしょうか。

 事を探るのは王の誉れ。(2節b)
 天が高く、地が深いように、
 王の心は測り知れない。(3節)

 神が所有しておられる世界を、私たち人間は探りつつ生きていると思います。しかし、同じの人間でも、この世の権力と富を所有している王は、当然多くを探ることができます。ソロモンのように世の栄華を独り占めした人は、まさに、「測り知れない」計画や夢があったことでしょう。

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 銀から、かなかすを除け。
 そうすれば、練られて良い器ができる。(4節)
 王の前から悪者を除け。
 そうすれば、
 その王座は義によって堅く据えられる。(5節)

 いまは、「人間は平等である、だれにも機会がある」と言って通用しますが、人間の歴史の中では、権力のある者とない者の力と立場の差を弁えるのが、「常識」でした。
 ここで、王は銀にたとえられています。銀は貴い器だったのです。そのりっぱさを輝かせるためには、充分に銀を精錬する必要があったのです。
 同様に、王が光り輝くためには。王を取り巻く人たちの中から「悪人を取り除く」必要があるのです。

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 王の前で横柄ぶってはならない。
 偉い人のいる所に立っていてはならない。(6節)
 高貴な人の前で下に下げられるよりは、
 「ここに上って来なさい。」
 と言われるほうがよいからだ。(7節a)

 これは、一見世俗的な知恵のようにも見えます。「分相応に振る舞う」必要です。たぶん、今日、案外、「切れる人」「うつになる人」が多いのは、自分の思いと社会の中で求められる人間像との格差に戸惑い、疲れるからでしょう。
 なんといっても、人間はだれでも、「平等、対等」だと尊重されるのが建前の時代です。大切にされ、ある程度は同じ望みを抱いて成長するのに、世の中に出たら当然、社会は不平等で不公平で、最終的には「力関係」で決まってしまいます。王ではないけれど「立場が上の人」の前では、下座に座るべきだと「下げられたり」するのです。

 新約聖書では、この箇所が、たとえ話として、イエス様の口から語られています。(ルカの福音書14章8節〜11節)
 婚礼の席で上座に座って、主人から下座に替わるように言われるより、最初から末席に座りなさい。そうすれば、主人が来て、「どうぞもっと上席にお進みください」と勧めてくれて、面目をほどこすことができるというのです。
 さらに、イエス様はつけ加えます。

 「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(同11節)」




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2016年03月24日

Coffee Break箴言・90  忠実な使者(箴言25章7節〜13節、創世記24章1節〜67節)



 あなたがその目で見たことを、(箴言25章7節b)
 軽々しく訴えて出るな。そうでないと、
 あとになって、あなたの隣人があなたに
 恥ずかしい思いをさせたとき、
 あなたはどうしようとするのか。(8節)

 十戒の九番目の戒めは、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」です。
 精密な科学捜査も監視カメラもない時代、死刑に値するような犯罪立証の決め手は「証言」でした。二人または三人の証言がなければなりませんでした。(申命記17章6節)
 犯罪事件でなくても、目撃したことを軽々しく人に告げるのは要注意です。誤解されるようなうわさ話を流されたために、一人の人の人生を狂わせるかもしれないのです。箴言では、何度も、舌や口を制するように戒めています。
 人に恥をかかされたり、貶められたりした記憶は決して消えません。あなたはいつか、その報復を受けるはずです。
 
 あなたは隣人と争っても、
 他人の秘密を漏らしてはならない。(9節)
 そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、
 あなたの評判は取り返しのつかないほど悪くなる。(10節)

 とくに、争いごとは要注意です。腹立ちまぎれに、自分が知っているけんか相手の秘密を漏らしてしまうことがないようにと、訓戒しています。
 どんな人も他人の秘密の一つや二つは、打ち明けられたことがあるでしょう。耳から聞いたことを飲み込んで二度と洩らさないことは、たとえ相手が敵になっても守るべきことではないでしょうか。

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 時宜にかなって語られることばは、
 銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。(11節)
 知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、
 金の耳輪、黄金の飾りのようだ。(12節)

 さとうもそれなりに年を重ねて来たので、「時宜にかなった言葉」を発したいと願い、また「知恵のある叱責」にも憧れますが、このような言葉は、「神から来る」とため息をつくしかありません。

 忠実な使者はこれを遣わす者にとって、
 夏の暑い日の冷たい雪のようだ。
 彼は主人の心を生き返らせる。(13節)

 聖書において「忠実な使者」として記憶に残るのは、イサクの妻を探しに出かけたアブラハムのしもべでしょう。(創世記24章1節〜67節)
 カナンにいる娘たちからイサクの嫁を迎えてはならないというのが、アブラハムへの神のご命令でした。そこでアブラハムは故郷アラム・ナハライムのナホルの町へ、アブラハム家の最年長でもっとも信頼しているしもべを派遣するのです。それは大変責任のある任務でした。十頭ものらくだに「主人のあらゆる貴重な品々をもって」出かけるのです。

 今の時代のように電話やメールのような通信手段があるわけでなく、道中は危険に満ちていました。何人もの護衛や従者を統率する指導力も必要です。ハランはユーフラテスの川辺にあり、カナンのヘブロンから五百キロにも及ぶ旅でした。神への祈りと強い使命感なしには果たせない「仕事」です。
 ナホルの町の外にある井戸でリベカを見つけたしもべは、ただちにリベカの家族に会い、家族を説得してリベカを連れ帰ることに成功するのです。家族に祝福されながら、故郷を後にするリベカ、リベカがネゲブの野で、迎えに出て来たイサクと出会う場面は、とても感動的です。(同62節〜67節)
 
 イサクとリベカの結婚は、アブラハムの召命に始まる「選びの民イスラエル」の血脈のために、どうしても必要な結節点でした。ここから彼らの二人の息子・エサウとヤコブの物語、ヤコブの結婚と12人の息子の誕生=「イスラエル12部族の発祥」と神の御計画が実現して行くのです。
 


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2016年03月25日

Coffee Break箴言・91  喜ぶ者といっしょに喜び。泣く者といっしょに泣きなさい。(箴言25章14節〜20節、マタイの福音書4章4節、ローマ人への手紙12章15節)



 箴言25章は、とりわけ、身近な処世術につながるような訓戒が並びます。
 世に自己啓発本というものは多く、あとからあとから出てきますが、あれこれ読むより箴言一冊の方が良いのではないかと思うくらいです。
 しょせん、独創的な言葉など、めったに出てくるわけでなさそうです。人間には限界があるのでしょう。
 イエスは悪魔に対して言われました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイの福音書4章4節)
 
 贈りもしない贈り物を自慢する者は、
 雨を降らせない雲や風のようだ。(箴言25章14節)

 会社や仕事場、家族、友人への貢献を、ことあるごとに「宣伝する」人がいます。よく聞いていると、すでに行った出来事とこれから行うであろう出来事を混ぜてあらぬ自慢をしているときがあります。でも、聞かされる側は案外冷静に、彼(彼女)の行為を値踏みしているのです。「雨を降らせない雲や風のようだ」とは、皮肉がきいたたとえです。

 忍耐強く説けば、首領も納得する。
 柔らかな舌は骨を砕く(15節)

 首領の骨をも砕くような「柔らかな舌」を持ちたいものだと思います。それには、「巧言令色」ではなくて、「忍耐強さ」が必要なんですね。

 蜜を見つけたら、十分、食べよ。
 しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。(16節)

 おいしい食事や楽しい娯楽、幸せな交わりがあるのは、祝福です。そのような時間は、誰でも思う存分味わいたいものです。でも、箴言は「食べ過ぎて吐き出すことがないように」と言うのです。「過ぎたるは及ばざるがごとし」でしょうか。
 それは、友達づきあいでも同じだと、つぎのような訓戒が続きます。

 隣人の家に、足しげく通うな。
 彼があなたに飽きて、
 あなたを憎むことがないようにせよ。(17節)

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 隣人に対し、偽りの証言をする人は、
 こん棒、剣、また鋭い矢のようだ(18節)
 苦難の日に、裏切り者に拠り頼むことは、
 悪い歯や、なえた足を頼みとするようなものだ。(19節)

 ここでも、隣人に対する「偽りの証言」がいましめられています。人間関係は「信頼」で成り立っていますが、その真価が試されるとき、真実であり続けることができるでしょうか。
 かつてのソビエト連邦の独裁者スターリンは、二千万人を粛正したと伝えられています。模範的な労働者やりっぱな指導者であった人たちが、大量に殺されたのです。その大部分は偽証や密告によるものでした。偽証をしないと自分が危ないというような状況下でも、偽りの証言をしないと言い切れないのが罪ある人間ですね。

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 心配している人の前で歌を歌うのは、
 寒い日に着物を脱ぐようであり、
 ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。(20節)

 これは、人への「共感力」の問題です。「人の不幸は蜜の味」と言われます。それが、人間の至らなさ・弱さかもしれませんが、それゆえ、このような訓戒を自覚していなければならないのでしょう。
 神への真実な態度、また正しい社交性は、「喜ぶ者といっしょに喜び。泣く者といっしょに泣きなさい」(新約聖書・ローマ人への手紙12章15節)だと、パウロも語っています。







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2016年03月26日

Coffee Break箴言・92  主があなたに報いてくださる。(箴言25章21節22節、マタイの福音書5章44節45節、ヨブ記4章17節)



 もしあなたを憎む者が飢えているなら、
 パンを食べさせ、
 渇いているなら、水を飲ませよ。(21節)
 あなたはこうして彼の頭に
 燃える炭火を積むことになり、
 主があなたに報いてくださる。(22節)

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 ある食事の席で、ある姉妹(教会の仲間)が言いました。「どうして、新聞は間違った報道をするのですか」。彼女が持ちだしたのは、基地問題か安保法案のようなもので、マスコミの論調が彼女から見れば偏見に見えていた? そこには、教会の牧師やゲストでお招きした先生、年配の信徒などが並んでいましたから、めったにできない質問を持ちだす良い機会だと思ったのでしょう。
 しかし、具体的な政治問題にことよせて、彼女が発した言葉は「中立の立場に立った報道をしないマスコミ」というものでした。「どうして、A新聞とS新聞で意見が違うのですか。どうして、真実を言わないのですか。マスコミは中立公正でなければいけないでしょう」

 私たちは、しばしば、正義を「人」に求めます。とりわけ、マスコミや学者や学校の教師、牧師・神父・僧侶などの聖職者に対して、「正しい意見」を出してもらって、世の中をリードしてもらいたいと願うのです。ですから、「指針であるはずの人(オピニオンリーダー)」が自分の期待にそぐわないとき、「偏向している」と烙印を押します。
 基地に反対の人は、基地を擁護するような意見は我慢なりません。原発問題も同じです。もともと、「中立」など存在しない問題なのです。実際の政治や世の中の問題は、白か黒かではなくグレイで妥協しなければならないことが、圧倒的に多いでしょう。軍備がある限り、基地を100パーセントなくすことはできません。エネルギーを電気に依存しているかぎり、出来るだけ効率よく多くの電力を造る原発は「魔法の解決策」だったはずです。いつの日か、原発に代わる発電方法が発見され、原発は一掃できるかもしれませんが、少なくとも今日明日ではありません。貧富の差の是正や自然保護、完全な平和なども同じです。理想状態を追及することと、理想とは別です。まして、追及しているのは、偏見と自己愛に捕らわれた「個々の人間」です。

 まだ若いとき、初々しいときには、なぜか「正義」や「中立」があると思うのです。それ自体は間違っていないでしょうが、自分は「正義の側に立っている」あるいは「正義の意見を支持したい」「自分は正義だ」と思い込んでいることには気が付かないのです。

 人は神の前に正しくありえようか。
 人はその造り主の前にきよくありえようか。(ヨブ記4章17節)

 これは、いきなり大きな苦難に陥ったヨブに対し、ヨブの友人テマン人エリファスが言った言葉です。神の前に、人がどういう存在であるかは、聖書を貫く「救いのご計画」の前提です。
 どんなに正しく見える人も罪があって、自分で自分を救うことなどできないのです。

 イエス・キリストは仰せです。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイの福音書5章44節) 
 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(45節)

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 いきなり新約聖書に触れて、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われては、戸惑うのが当たり前ではないでしょうか。「敵なんか愛せるはずはない」「自分を迫害する者は消えてしまえ」と、一度も思ったことのない人は、果たしているのでしょうか。
 積極的に殺意を持つかどうかはべつですが、学校や職場で苦手な人がいなくなった時、ほっとした覚えはないでしょうか。いなくなる理由が相手の病気だったり、死だったり、左遷だったりすると手を打って喜ぶかもしれません。

 それでも、神が敵のために祈りなさいと言われるのは、天の父は「良い人にも悪い人にも、正しい人にも正しくない人にも」太陽を上らせ、雨を降らせてくださるという事実です。もし、神が厳格に正しい人だけを選んで「太陽を上らせ、雨を降らせようとされたら」、誰ひとりその恵みにあずかる人はいない、とイエス様は仰せなのではないでしょうか。

 「憎む敵が飢えているとき、パンを食べさせ、渇いているなら水を飲ませよ」と命じられているのは、相手がその善意に対して、「自分の行いを反省してくれる」からではありませんね。
 この命令のすごさは、「あなたはこうして彼の頭に 燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。(22節)」と教えていることです。

 じっさい、主は報いて下さったのですね。御子イエスさまを地上に送って来られて、私たちの罪を贖って、永遠の命につなげて下さったのですから。

 明日は、イースターです。

  

posted by さとうまさこ at 11:39| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする