2016年03月04日

Coffee Break箴言・71 人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。(箴言20章27〜30節)



 人間の息は主のともしび、
 腹の底まで探り出す。(箴言2027節)


 人間が生きる者となったのは、神から息を吹き込んでいただいたからです。土のちりでかたちが造られたままであれば、たんに土偶に過ぎませんが、神は最初から「いのちある存在」をお造りになるおつもりだったのです。ただの「いのち」ではありません。

 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記2章7節)

 神はもちろん、地上のすべての動物と植物をお造りになったのです。しかし、彼らに与えられたいのちと人間のいのちは、本質的に違っています。神様のいのちの息を直接いただいたのは、人間だけです。このことは、私たちが神さまに似せて象られた証拠です。このことゆえに、神様は私たちの腹の底まで見通しておられるのです。それは、神様の監視の目ではなく、私たちを見守られる神の愛の現れ、一方的な恵みです。

 恵みとまこととは王を守る。
 彼は恵みによって王位をささえる。(28節)

 よく言われるように、私たちが神の愛の対象であるのは、私たちの側に何か功績があったからではありません。一方的な神の恵みなのです。実際の社会では、富や権力や能力の差が見られ、神の恵みにも不公平があるようにさえ思えます。とくに、人々を支配する権力と権威をもった王に生まれるか、奴隷に生まれるかで、人間の価値さえ異なっているように見えたでしょう。聖書は、王の権力は神が与えたものであると明言しています。(ローマ人への手紙13章1節、伝道者の書8章2節)

 世俗的に多くの人間が欲しがる権力や権威、それが神から与えられたものであるのは、意味があることです。神から与えられたということを忘れるなら、「神から」取り上げられることもあり得ます。サウルは、少しも野心のないところから王に選ばれ、ためらいながら王の座に就いたような人でした。一時はイスラエルのために一所懸命戦いました.しかし、その中で、自分を任命してくれたサムエル(神の代弁者)を無視するようになり、結局、王座を失っていくのです。(Tサムエル記9章〜15章、19章〜24章)

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 若い男の光栄は彼らの力。
 年寄りの飾りはそのしらが。(20節)
 打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。
 腹の底まで打ちたたけ。(30節)

 これは、老人が力のある若い男に対して教育する必要を、強調しているのではないでしょうか。。箴言全体の趣旨にそったものです。白髪になった者には、その義務があるのでしょう。腕力が失われていっても、「仕事」はあるようです。






posted by さとうまさこ at 09:49| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする