2016年03月11日

Coffee Break箴言・78  あざける者を追い出せ。そうすれば、争いも出て行く(箴言22章10節〜16節、箴言1章1節〜4節)



 あざける者を追い出せ。
 そうすれば、争いも出て行く。
 けんかも、悪口もやむ。(箴言22章10節)
 心のきよさを愛し、優しく話をする者は、
 王がその友となる。(11節)

 人間は罪の世界に堕ちた存在ですから、どうしても問題を起こします。人間社会には争いがあるのです。聖書を読んでいると、男女一対しかいなかったエデンの園から夫婦喧嘩があり、兄弟二人しかいないときに、カインは弟アベルを殺してしまいます。アブラハムの家にも「もめごと」がありましたし、イサクの二人の息子も敵対してしまいました。モーセに率いられていたイスラエルの民の荒野の40年ももめごと続きでした。

 争いの中には、避けられないものがあるようにも見えます。小は家族の中から、企業や国家間の問題まで、毎日のように私たちは「争い」見聞きしています。いったい、どうすればいいのでしょう。
 箴言は、じつにあっさり命じるのです。「あざける者を追い出せ」
 あざける者とは「口汚くののしる者」(新実用聖書注解・P881)だとか。静かで紳士的な人が多い日本人社会でも、たしかに争いが起るときは、「口汚くののしる者」がいますね。

 集団で、ある人がいなくなったら雰囲気が変わったという場合は、誰かが「争う人」だったのです。
 腹が立っても穏やかにやさしく話をする人は「王が味方になる」というのは、神さがが味方をして下さるということでしょう。
 
 主の目は知識を見守り、
 裏切り者のことばをくつがえす。(12節)

 「主の目の前に正しくあろう」とする以外に、どうやら裏切り者に勝つ方法はなさそうです。

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 なまけ者は言う。
 「獅子が外にいる。私はちまたで殺される。」と。(13節)

 どのようなことにも悲観論をぶつ人がいます。慎重なら意味があるのですが、なまけ者は、自分が出て行きたくないために「獅子が外にいる」と言うのです。
 教会に行ったりしたら、たちまち洗脳されて抜けられなくなると思い込んでいる人がいます。「聖書はすばらしい書物ですよ」と無料配布の聖書をもらっても、一ページも見ないで捨ててしまう人もいます。「小さな紙の活字の中に、獅子がいる!」と恐れているのです。

 他国の女の口車は深い穴のようだ。
 主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。(14節)

 他国の女の意味は、異教徒の女、言葉も価値観も違う外国人でしょう。今日のようなグローバル社会には合わないことばのようにも聞こえますが、ぎゃくに今日では、同じ国籍で、隣にいるのに「得体のしれない女」は、箴言の時代よりはるかに多いかもしれません。さらに深い穴で待ち構えているのは「女」だけではありません。男女のあいだは、魅惑的でスリリングです。サタンが、穴を備え、仮面をかぶって近づいてくる場所でもあるのです。

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 愚かさは子どもの心につながれている。
 懲らしめの杖がこれを断ち切る。(16節)

 聖書の価値観の厳しさを思わされることの一つに、子供への冷徹な目です。日本人は子どもを「無邪気な」「罪のない」などと形容しますが、聖書では「愚かさに繋がれている」存在なのです。
 懲らしめの杖が必要なのは、そのためです。「無邪気である」ことは「正しい人であること」ではないのは、アダムとエバを思い起こすだけで明らかです。
 彼らは「成人」でしたが、「生まれたばかりの子どものように無垢」だったのです。だからこそ、簡単に悪魔に誘惑されてしまいました。
 子どもは、「正しい大人」に教育しなければなりませんし、箴言は、そのために何が必要かを、語る書物です。
 箴言の最初を振りかえってみましょう。

 これは、知恵と訓戒を学び、
 悟りのことばを理解するためであり、
 正義と公儀と公正と、
 思慮ある訓戒を体得するためであり、
 わきまえのない者に分別を与え、
 若い者に知識と思慮を得させるためである。(箴言1章1節〜4節)







posted by さとうまさこ at 09:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする