2016年03月23日

Coffee Break箴言・89  事を隠すのは神の誉れ、事を探るのは王の誉れ(箴言25章1節〜7節)



 次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである。(箴言25章1節)

 わざわざ、このような書き出しがあるのは、箴言全体がソロモンの時代に成立したものと考えられているからでしょう。
 この部分はソロモンより約200年後のヒゼキヤ(BC715‐686年)の時代に、彼の書記たちが編集して書き写したものであろう。(新実用聖書注解・いのちのことば社P885)

 事を隠すのは神の誉れ。(2節a)

 たしかに神のなさることすべてを、知ることはできませんね。神が天地万物をすべて創造され、すべてを所有され、すべてを支配しておられると認めるのですが、どのことばも、人間の理解に余る内容を含んでいます。
 ときおり、「聖書はめちゃくちゃである。理解できない」と腹を立てているご意見を、ネットなどで見ますが、当然ですね。人間の限られた能力では、神のわざなど、一生かけても理解できないのではないでしょうか。

 事を探るのは王の誉れ。(2節b)
 天が高く、地が深いように、
 王の心は測り知れない。(3節)

 神が所有しておられる世界を、私たち人間は探りつつ生きていると思います。しかし、同じの人間でも、この世の権力と富を所有している王は、当然多くを探ることができます。ソロモンのように世の栄華を独り占めした人は、まさに、「測り知れない」計画や夢があったことでしょう。

★★★★★

 銀から、かなかすを除け。
 そうすれば、練られて良い器ができる。(4節)
 王の前から悪者を除け。
 そうすれば、
 その王座は義によって堅く据えられる。(5節)

 いまは、「人間は平等である、だれにも機会がある」と言って通用しますが、人間の歴史の中では、権力のある者とない者の力と立場の差を弁えるのが、「常識」でした。
 ここで、王は銀にたとえられています。銀は貴い器だったのです。そのりっぱさを輝かせるためには、充分に銀を精錬する必要があったのです。
 同様に、王が光り輝くためには。王を取り巻く人たちの中から「悪人を取り除く」必要があるのです。

★★★★★

 王の前で横柄ぶってはならない。
 偉い人のいる所に立っていてはならない。(6節)
 高貴な人の前で下に下げられるよりは、
 「ここに上って来なさい。」
 と言われるほうがよいからだ。(7節a)

 これは、一見世俗的な知恵のようにも見えます。「分相応に振る舞う」必要です。たぶん、今日、案外、「切れる人」「うつになる人」が多いのは、自分の思いと社会の中で求められる人間像との格差に戸惑い、疲れるからでしょう。
 なんといっても、人間はだれでも、「平等、対等」だと尊重されるのが建前の時代です。大切にされ、ある程度は同じ望みを抱いて成長するのに、世の中に出たら当然、社会は不平等で不公平で、最終的には「力関係」で決まってしまいます。王ではないけれど「立場が上の人」の前では、下座に座るべきだと「下げられたり」するのです。

 新約聖書では、この箇所が、たとえ話として、イエス様の口から語られています。(ルカの福音書14章8節〜11節)
 婚礼の席で上座に座って、主人から下座に替わるように言われるより、最初から末席に座りなさい。そうすれば、主人が来て、「どうぞもっと上席にお進みください」と勧めてくれて、面目をほどこすことができるというのです。
 さらに、イエス様はつけ加えます。

 「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(同11節)」




posted by さとうまさこ at 10:06| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする