2016年04月01日

Coffee Break箴言・98  他人の称賛によって人はためされる。 (箴言27章17節〜27節)




 鉄は鉄によってとがれ、
 人はその友によってとがれる。(箴言27章17節)
 いちじくの木の番人はその実を食う。
 主人の身を守る者は誉れを得る。(18節)
 顔が、水に映る顔と同じように、
 人の心は、その人に映る。(19節)

 世俗的にも、「四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任をもて」と言います。子どものときはだれでもあどけなく可愛いし、思春期は開いたばかりの花のように美しいものです。生まれつきの美醜も若いうちほど、あらわです。けれども、年と共に顔にはその人の心が刻印されてきます。それは、整形手術や化粧品で作られるものとは別物です。個人的にはチベットや中国少数民族の高齢の老人の顔を「素敵だなあ」と思います。風雪に刻まれたしわ、食事と格闘して歯がなくなった口元、白い膜がかかった瞳。でも、何とも言えない満足と達観をその姿に見た時、感動するのです。

 よみと滅びの淵は飽くことがなく、
 人の目も飽くことがない。(20節)

 この目は、「目の欲・肉の欲」と言われるときの目でしょう。この世には魅力的なものがあふれているのですが、魅力的な栄華を飽くことなく求めていたらその先には、滅びの淵があるというわけです。
 四十日四十夜の断食の後、イエス様が悪魔の試みを受けます。悪魔の3つの誘惑の最後は、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイの福音書4章8節)というものでした。
 悪魔はイエス様(神様)でも、誘惑して、淵に沈めたい者なのです。

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 るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、
 他人の称賛によって人はためされる。(21節)

 人の賞賛を受けるのは、それ自体「試み」です。人はだれでも、多くの人の上に立ったり、賞賛を浴びたりすると、自己イメージがゆがんできます。ある牧師が、教会が成長してきたころ「どんなもんだ。(おれも)できるだろう」みたいな気分になったと書いておられましたが、それは自然な感情です。努力して得た名声なら、それが報われるのですから「舞い上がっても」咎められることではないかもしれません。
 けれども、その時すでに、「試されている」のです。

 「五体不満足」の乙武さんが五人の女性と不倫をしていたとわかったことは、彼をある理想のイメージで見ていた人たちを失望させました。障害のある人も生身の人間なのだから、性欲があるのは当然という意見もあり、「なるほど、そうだった」と気が付く人もいたようです。

 乙武さんの不倫は、伴なった女性にダミーの男性まで雇っての偽装旅行でしたから、彼の経済力と無関係ではなかったでしょう。また、彼が生まれつきの四肢欠損でありながら、いわゆる健常者よりはるかに自由に有能に生きている、スーパーマンみたいなイメージは、彼自身の生き方やあり方を変えてしまった可能性は高いのです。

 さて、賞賛を浴びて研がれた結果、どうにもならなかった愚か者についてのたとえです。

 愚か者を臼に入れ、
 きねでこれを麦といっしょについても、
 その愚かさは彼から離れない。(22節)

 この厳しいことばは、「愚か者」かもしれないふつうの人たちを震え上がらせないでしょうか。日本にも愚か者に対する容赦のない警句はあります。「(バカは)死ななきゃ治らない」「焼き直すしかない」

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 つぎは生業と人生との関係です。

 あなたの羊の様子をよく知り、
 群れに心を留めておけ。(23節)
 富はいつまでも続くものではなく、
 王冠も代々に続かないからだ。(24節)

 羊の様子に注意して世話をするのは、牧畜が大きな収入源だったイスラエルの民を想定したいましめです。

 草が刈り取られ、若草が現われ、
 山々の青草も集められると、(25節)
 小羊はあなたに着物を着させ、
 やぎは畑の代価となる。(26節)

 生き物を世話する仕事は、365日休みなしです。手を抜くことも気を抜くこともできません。安息日も働かなければなりません。イエス様の誕生に立ち会った羊飼いたちが、最下層の人たちだったのは、このような「休みなし」の仕事だったためです。
 裕福な人は、牧畜を生業としても人を雇うことができましたが、現場の羊飼いたちはいのちを盾に羊を守り、育てたのです。
 いずれにしても、まじめに取り組めば、努力は報われるのです。

 やぎの乳は十分あって、
 あなたの食物、あなたの家族の食物となり、
 あなたの召使いの女たちを養う。(27節)






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2016年04月02日

Coffee Break箴言・99  貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。(箴言28章1節〜7節)



 悪者は追う者もないのに逃げる。
 しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。(箴言28章1節)
 国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。
 しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、
 それは長く安定する。(2節)


 これは、イスラエルの歴史について語っているようです。とくに、北王国イスラエルは、南王国ユダと分裂したあと、何人も王が替り、王家も変わりました。

 ヤロブアムがソロモンの子レハブアムに叛いたのは、歴史的ないきさつがありました。また、ヤロブアムには「王朝を与える」という預言者アヒヤの預言もありました。(T列王記11章29節〜35節)しかし、彼は正しい王国を立てることができなかったので、彼の王朝は二代で終わり、イッサカルの家のアヒヤの子バシャが謀反を起こして北王国を継ぎました。しかし、彼の家も二代で謀反に遭い、王家はジムリに取って代わられます。(T列王記16章9節10節)
 このようにして、北イスラエルは謀反によって何人も王が交代する中で、滅亡するのです。
 その発端は、初代ヤロブアムが、支配下の民をエルサレムの神殿に行かせない方法として、ダンとベテルに金の小牛を作って拝ませようとした「叛きの罪」によるのです。(T列王記12章28節29節)

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 寄るベのない者をしいたげる貧しい者は、
 押し流して食物を残さない豪雨のようだ。(3節)

 人の罪は、弱い者を虐げるという性質にも現れます。いじめのなどは、弱い子が標的になっています。ひとたび「いじめられる側」に入ってしまうと、同じ弱い人たちが虐げる側に加担することが多いのです。貧しいものが、さらに貧しいものを虐げるのは、学校にも家にも居場所のない不良少年たちがホームレスを襲撃して喜ぶといった悲劇にもなります。神の性質をいただいた人間性は、完全に押し流されてしまうのですね。

 おしえを捨てる者は悪者をほめる。
 おしえを守る者は彼らと争う。(4節)

 だれを褒めているかは、時々振り返る必要がある気がします。名声や功績が讃えられている人、多くの人々の承認がある人が「正しい人」とは限りません。キリスト者は、キリストの教えを守っている人を褒めたいのですが、つい世俗的な価値に流されて人を評価している時があります。自分でも要注意だと思っているのですが。

 悪人は公義を悟らない。
 主を尋ね求める者はすべての事を悟る。(5節)
 貧しくても、誠実に歩む者は、
 富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。(6節)
 おしえを守る者は分別のある子、
 放蕩者と交わる者は、
 その父に恥ずかしい思いをさせる。(7節)

 今日のように、お金さえあれば何でも自由になる時代は、富んでいる人たちが誠実に歩むのは難しい時代かもしれません。その上、貧しい者もが金持ちの自由をうらやましく思うように、世論を煽るのが資本の論理です。富んだ人の曲がった道に入り込まないためには、おしえを守る必要があります。
 箴言が書かれた時代以上に、放蕩者が多いこの時代です。分別を守るよう勧められているのは感謝なことです。







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2016年04月03日

Coffee Break箴言・100  幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。 (箴言28章8節〜14節)



 利息や高利によって財産をふやす者は、
 寄るベのない者たちに恵む者のために
 それをたくわえる。(箴言28章8節)


 今日では利息は正当な報酬のように思えるのですが、聖書の律法では、イスラエル人同士は利息を取ってはいけないと戒めています。(レビ記25章37節)
 金貸し業は、お金を動かすだけで利益が出るわけで、「手のわざ」を奨励される神の御心に反するのです。


 耳をそむけて教えを聞かない者は、
 その者の祈りさえ忌みきらわれる。(9節)

 祈りの前提に、神の教えを聞くことは当然だと思います。
 けれども、自分に当てはめてみると、教えに反するようなことのためにも祈りかねません。ただ、旅行が無事でありますようにとか、探し物が見つかりますようにとか、良い異性と巡り合いますようにといった祈りをするとき、そもそも享楽だったり、不倫だったり、賭け事だったりしていないかが大切ではないでしょうか。

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 正直な人を悪い道に迷わす者は、
 自分の掘った穴に陥る。
 しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ。(10節)

 いろんな悪の中でも、正直者を餌食にするのは最悪ですね。お年寄りを巧みにだます「振り込め詐欺」とか、少年少女を惑わす「風俗」。最近発覚した「少女誘拐」もひどいものです。「潔白な人はしあわせを継ぐ」との戒めを信じたいと思います。

 富む者は自分を知恵のある者と思い込む。
 分別のある貧しい者は、自分を調べる。(11節)

 裕福な人は、きっと知恵と努力で財産を築いてきたのだろうと、だれでも思います。まわりがそう見ることで、本人も自分の知恵を過大評価するようになるかもしれません。
 しかし、落ちぶれ貧しいときは、自分を顧みて反省します。「分別のある貧しい者」であることを、勧めていることばです。

 正しい者が喜ぶときには、大いなる光栄があり、
 悪者が起き上がるときには、人は身を隠す。(12節)

 正しい者が喜ぶ社会、正しい者を喜ばせる友情、正しい者が面目をほどこす組織は、神様からの光栄が照り注ぐのではないでしょうか。
 人を一度や二度だますことはできるかもしれませんが、やがて悪者と関わるのはやめるようになります。

 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。
 それを告白して、それを捨てる者は
 あわれみを受ける。(13節)

 この「隠す」は、神様への態度でしょう。祈る前に、そむきの罪を正直に告白しなければならないんですね。これは案外きついことですね。友人や親子でも、やはり間違ったと思う時は「告白」したほうがいいのでしょう。神から「あわれみを受ける」ことは、はかり知れない祝福です。

 幸いなことよ。
 いつも主を恐れている人は。
 しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(14節)

 箴言の思想は、最初から一貫して「主を恐れること」です。主を恐れることは知識の初めなのですから。(箴言1章7節)




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2016年04月04日

Coffee Break箴言・101  人をかたより見るのは良くない。人は一切れのパンで、そむく。(箴言28章15節〜22節、創世記8章21節)



うなる雄獅子、襲いかかる熊、
寄るベのない民を治める悪い支配者。(箴言28章15節)

 力と恐怖で民衆に圧政を行なうのは、悪い支配者だと言っています。「寄るべのない民」と形容されていますが、民は支配権力を持つ者と対置されれば、「寄るべのない者」です。ナボテのぶどう園を奸計をもって強奪したアハブ、イゼベル夫婦は典型的な例です。(T列王記21章)

英知を欠く君主は、多くの物を強奪する。
不正な利得を憎む者は、長生きをする。(16節)

 まったく「英知を欠く君主」に支配されることは、民衆にとって災厄です。王の英知とは、その地位と立場と権力は、神から預かったに過ぎないと思う謙虚さです。自分の上に神を意識しない者は「暴君」になります。
 「長生き」は単に寿命のことではなく、神からの祝福の大きさを表しています。(新実用聖書注解・いのちのことば社)

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流血の罪に苦しむ者は、墓まで逃げるが、
だれも彼をつかまえない。(17節)

 これは人から復讐されかねない罪を犯したものを、助ける者がいないという意味だそうです。「つかまえる」は、原語では「援助する」「助ける」の意味だからです。(新実用聖書注解・いのちのことば社)

 日本語でも、墓は死を意味しています。まがった生活は、悪者の生活でしょう。神に叛く生き方では自ら死を招くのは、洋の東西を問わないことです。

潔白な生活をする者は救われ、
曲がった生活をする者は墓穴に陥る。(18節)

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自分の畑を耕す者は食料に飽き足り、
むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。(19節)
忠実な人は多くの祝福を得る。
しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。(20節)

 聖書は一貫して、堅実な勤勉さを奨励しています。日々の糧は、自分の畑を耕して得るべきだと諭しています。むなしいものとは、一攫千金の夢でしょうか。投機や賭博で食糧に飽きたりる(満足する)ことはあり得ないというのです。
 ただ、神の御命令に忠実に、日々手を動かして労働する者を、神は祝福して下さるので、
一攫千金をあせる者は、神の罰を受けるのです。

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 大洪水の後、箱舟から出て来たノアが祭壇を築きました。その全焼のいけにえのかおりをかがれて、神様は仰せになりました。
「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(創世記8章21節a)

人をかたより見るのは良くない。
人は一切れのパンで、そむく。(21節)

 私たちはだれでも、人を褒めることが良いことだと思います。しかし、神の目から見れば、「人は一切れのパンでそむく」者なのだと、知っていることが「かたよりのない見方」なのでしょう。

貪欲な人は財産を得ようとあせり、
欠乏が自分に来るのを知らない。(22節)

 またしても、貪欲への警告です。財産を得るのに近道はない。あせって、投機や賭博に走り、また人を収奪すれば、やがては自分が欠乏するのです。




posted by さとうまさこ at 10:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月05日

Coffee Break箴言・102  欲の深い人は争いを引き起こす。 (箴言28章23節〜28節)



人を責める者は、
へつらいを言う者より後に、恵みを得る。(箴言28章23節)

 「巧言令色鮮(すくな)し仁」(論語)ということわざがあります。人はへつらいを言ってくれる人を喜んでしまうのです。 率直に間違いを指摘されたりしたら、まず、瞬間「ムカッ」とくるものです。結果、短いスパンで見ると、「人を責める者」より、へつらいをいうものの方が、良い目にあうのです。
 その通り。どこの世界にも取り入るのが上手で、すぐに、必要な人の「お気に入り」になる人がいます。

自分の父母の物を盗んで、
「私は罪を犯していない。」と言う者は、
滅びをもたらす者の仲間である。(24節)

 十戒は、「父と母を敬え」(出エジプト記20章12節)と言っています。親を敬うのは人が人に対して守るべき戒めの中でも、最初に置かれています。子どもは親に養い育てられ、親は子どもに可能な限りの物を与えてくれるのですが、それはあくまで親の裁量です。親の物を盗むのは神の御心に背く行為なのです。

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欲の深い人は争いを引き起こす。
しかし主に拠り頼む人は豊かになる。(25節)

 この世の争いごとのほとんどは、人間の欲望から来ています。食欲、性欲、所有欲などは、本能のように見えますが、「適度」を超えてしまうことが多いのです。権勢欲、名誉欲、支配欲は、それ自体怪物のように成長して行きます。とうぜん、度の過ぎた欲望は、他人の持ち分を奪うことになるのです。

 私たちは、子供の時から、競争社会を当たり前のことと受け入れ、「じょうずに衝突を避けて勝ち抜く」方法を教えられます。けれども、「うまくやれば」良いのでしょうか。
 人間の欲望からきた格差は、実際に、大きな格差となって、例えば、多くの国際問題の火種になっているのです。テロをする人はもちろん、テロの犠牲になる人も、「欲望の争い」に巻き込まれているのです。

 悪に対して厳しい監視や規制をしても、争い自体はなくなりません。「主により頼む」ことができれば…と願わずにはいられません。

 自分の心に頼る者は愚かな者、
 知恵をもって歩む者は救われる。(26節)
 貧しい者に施す者は不足することがない。
 しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。(27節)

 「主により頼む」とは具体的にどうすることなのか。主を恐れることは知識の初め(箴言1章7節)という戒めを、もう一度噛みしめることだと思います。
 主により頼んで、「施しのために」物を手放すことができるでしょうか。悔い改めて祈ることができるでしょうか。

 豊かな国にいる私たちは、全体的にはとても自信家で、(特に収奪の自覚もなく)しぜんに欲望を満たしているのです。主の前に、悔い改めて、真実を見なければいけないのかもしれません。

 悪者が起こると、人は身を隠し、
 彼らが滅びると、正しい人がふえる。(28節)




 

posted by さとうまさこ at 09:45| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする