2016年05月02日

伝道者の書13、私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。(伝道者の書6章7節〜12節)

 

 人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。(伝道者の書6章7節)

 たしかに人は「食うために労苦する」のです。これは創世記に、アダムが罪を犯して楽園を追放されるとき神が、「あなたは顔に汗を流して食を得なければならない」と宣告されたことが、実現しているのです。罪の結果です。それにしても、「その食欲は決して満たされない」とは、厳しい。確かに、どんなにお腹いっぱい食べても、それで終わりはない。何時間か経てばまた食べなければならないのですから、生きているかぎり、食欲は満たされることはないとも言えます。

 知恵ある者は、愚かな者より何がまさっていよう。人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。(8節) 

 伝道者の書の前の箴言では、「知恵は人間が求めるべき物」との視点で語られています。ところが、その知恵を得ても、愚か者より何がまさっていようと言うのです。このような結論になってしまうのは、伝道者が「死」を見つめているからでしょうか。

 目が見るところは、心があこがれることにまさる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(9節)

 ふつうは「現実に見えるもの」は、空想よりは確かだとされます。手の中の一羽は、空を飛ぶ二羽に勝るのです。でも、このような現実主義もまたむなしいと言うのです。

 とはいえ、やっぱり「現実の重み」はバカにできません。力関係は、実際の実力で決まり、力のない人間は自分より強いものと争うことはできないと断言します。

 今あるものは、何であるか、すでにその名がつけられ、また彼がどんな人であるかも知られている。彼は彼よりも力のある者と争うことはできない。(10節)

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 多く語れば、それだけむなしさを増す。それは、人にとって何の益になるだろう。(11節)

 伝道者は、一つの考えを表から、裏から吟味します。現実的な力があっても空しいと思い、同時に、それでもやっぱり、力の強い者は弱い者に「勝つ」と認めるのです。あれこれ考えていると、結局、何が正しいのかわからなくなることは、よくあります。

 だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを。(12節)

 それでも、伝道者は無意味な言葉の堂々巡りをして時間を空費しているのではなさそうです。「何が人のために善であるかを、人に告げることはできない」という考えは、知恵の中でも深い知恵ではないでしょうか。
つまずきや不幸な出来事で倒れた人に、「無傷の成功だけが善」だという考え方は救いにはなりません。
 どのような人生も同じようにむなしいのだといった達観した姿勢が、むしろ、人を慰めるのときもあるのですから。 







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2016年05月03日

伝道者の書14、良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。(伝道者の書7章1節〜9節)

 

  良い名声は良い香油にまさり、
  死の日は生まれる日にまさる。(伝道者の書7章1節)
  祝宴の家に行くよりは、
  喪中の家に行くほうがよい。
  そこには、すべての人の終わりがあり、
  生きている者が
  それを心に留めるようになるからだ。(2節)

 ちょっと皮肉っぽい逆説が続きます。
 香油はお金を出せば買えますが、名声はお金では買えません。とくにここでは、死者に振りかけられる香油について触れているのでしょう。どれほど高価な香油で包まれた遺体も、彼が生前に築いた名声がなければ価値がないのです。
 ふつうは死は忌むべきもので、新しいいのちの誕生は喜ばしいものです。しかし、死は、人生とは何かを考えさせられる絶好の機会ですから、心と足が重くなる喪中の家にこそ行くべきだと言うのです。

  悲しみは笑いにまさる。
  顔の曇りによって心は良くなる。(3節)

 言葉の流れで、喪中の家つまり、悲しみの家に行くのは、笑うより勝るというのです。顔を曇らせるのは知恵を得ることなのでしょう。

  知恵ある者の心は喪中の家に向き、
  愚かな者の心は楽しみの家に向く。(4節)
  知恵ある者の叱責を聞くのは、
  愚かな者の歌を聞くのにまさる。(5節)

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  愚かな者の笑いは、
  なべの下のいばらがはじける音に似ている。
  これもまた、むなしい。(6節)

 少しニュアンスが変わります。どの道愚かな者が笑うのは空疎であると形容されています。同時に、知恵ある者も、しいたげや賄賂で心を滅ぼされるのです。

  しいたげは知恵ある者を愚かにし、
  まいないは心を滅ぼす。(7節)

 そうしてまた、繰り返されるのです。終わりは初めにまさるとは、死と誕生を対比しています。たしかに、ことわざも言います。「終わり良ければすべてよし」「棺を覆って価値が定まる」

  事の終わりは、その初めにまさり、
  忍耐は、うぬぼれにまさる。(8節)

 時にはうぬぼれなければやっていけないのが人間でしょうが、自我を殺して忍耐をするべきなのでしょうか。苛立つ時にも、忍耐をするべきでしょうか。

  軽々しく心をいらだててはならない。
  いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。(9節)

 すぐに苛立つのは愚か者だとすれば、愚か者でない人など、めったにいないようにも思えるのですが。







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2016年05月04日

伝道者の書15、知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。(伝道者の書7章10節〜12節、箴言1章7節)



 知恵という言葉はあまり使われなくなりました。私達が、いま、ふつう「学び」と考えているものは、知識です。学校やカルチャーセンター、いろんな講座などで学べるのは、知識なのです。マニュアル化した教科書があって、カリキュラムを立てて講義ができ、後でテストをして採点ができるようなもの、それが知識です。一方知恵は、知識を含んだもっと大きな物の見方、考え方、直感を伴なうような選択力ともいうべきものではないでしょうか。

 主を恐れることは知識の初めである。
 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(箴言1章7節)

 ここにある、知恵と訓戒は、主から来るものであるのは推測できます。口で直接訓戒をするのは父親かもしれませんが、父親は、昔のイスラエルの家庭では神の代理として子供を教育したので、そのような権威のある父を恐れて聞き従うかぎり、知識も意味のあるものとなると、考えられたのです。

 確かに、学位を取ることも、エリートを作る良い大学に行ける知識を学ぶことも大切です。けれども、知識は、神の目からご覧になって「正しい」使われ方をして、初めて意味があるのです。

 難しい科学知識があってサリンを製造したオ●ム信者のように、それを地下鉄に撒いて大量殺人を行なった人たちには、知恵がなかったわけです。
 エリート大学に行ってるような学生が、ただ「殺して見たかった」と言うだけの動機で人を殺すことなども、(彼・彼女)が長く学んできた知識の無意味さを思い知らされるのです。

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 「どうして、昔のほうが今より良かったのか。」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。(伝道者の書7章10節)

 たとえば、歴史知識を深めることは、なかなか面白いのです。海外旅行の見聞でも同じです。英語を習って日本語との違いを見るとか、たまには、旅行に出て、日常と非日常を較べてみるとかも楽しいことです。

 それでも、較べた結果、「昔の方が今より良かった」というのは、知恵のないことだというのです。昔の時間がもはや過ぎたものだから、そんな比較は意味がない、後ろ向きであるというのは真実です。
 それ以上に、たぶん、決して両方を完全に「味わって」いるのでも、「知って」いるのでもないからでしょう。神様の目からご覧になったら、私たちが体験している出来事は、全世界のほんの一部で、比べることなどできないのではないでしょうか。

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 資産を伴う知恵は良い。
 日を見る人に益となる。(11節)
 知恵の陰にいるのは、
 金銭の陰にいるようだ。
 知識の益は、
 知恵がその持ち主を生かすことにある。(12節)

 同様に、本来、良い物である資産も知恵を伴なわなければ意味がないと伝道者は言います。確かに、お金は、増やすにも、貯めるにも、使うにも、知恵が要ります。お金があってもなくても、知恵がなければお金の奴隷になります。何も持たない人でも、ほんとうの知恵があれば「金銭の陰にいるようなものだ」という言葉は傾聴に値します。
 知恵は、じつに、その持ち主を生かすと言うのです。







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2016年05月05日

伝道者の書16、あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。(伝道者の書7章13節〜18節)



  神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。(伝道者の書7章13節)
 順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。(14節)


 伝道者の視点は、知恵を下さる神に戻って行きます。
 ここに言われている二点、神が曲げたものを人はまっすぐには出来ないこと。順境の日に喜び、逆境には反省するというのが、神を知る者の「知恵」なのでしょう。
 人は、神をこのような全能で主権をお持ちの方だと認めない限り、悪あがきをすることになります。
 地震や不条理な犯罪が起きると、神を否定する人たちは鬼の首でも取ったように言います。「どこに神がいるのか」
 しかし、聖書の神は、この世界の統べての場所に遍在しておられ、この地上そのものを現出しておられ、私もあなたも神の作品であり、ろくろの上にある土の器であると思えば、そんな生意気なことは言えませんね。

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 じっさいこの世は、不条理に満ちています。
 楽園を追放された時に、人類は悪魔もろとも、不条理の世界に入ったのですから仕方がありません。

  私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。(15節)、

 私自身、長い間、このような聖書の神に「物申したい」人間でした。
 いえ、救われた後でも、あるみことばには、爪を立てたいような気分になりました。
 たとえば、天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章45節)

 あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。(16節)

 これは、「あなたは(自分こそ)正しい」と思い込みやすい人間性への戒めかもしれません。良い人は「自分は正しい」「自分は知恵がある」と思うように方向づけられて成長してきたわけです。
 逆も言えます。
 
 悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに,なぜ死のうとするのか。(17節)

「悪くて何が悪い」と開き直る声もあります。「生きるってことは、なまやさしいことではないんだ。みんな他人やほかの物の犠牲で生きているんだ」。
 もとより、そのような「悪」は神の厭われるところで、彼は滅びの中にいるのです。みずから死のうとするようなものなのです。
 私たちは、善悪を含め、神の目を恐れながら微妙なバランスを生きなければならないのかもしれません。絶対に正しいなどという生き方はあり得ないのだから、と伝道者は見ているのです。

 一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。(18節)






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2016年05月06日

伝道者の書17 知恵は町の10人の権力者よりも知恵者を力づける。(伝道者の書7章19節〜29節)



 知恵は町の10人の権力者よりも知恵者を力づける。(伝道者の書7章19節)
 この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。(20節)
 人の語る言葉にいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないためだ。(21節)
 あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。(22節)

 自己啓発の本はよく売れるそうです。コンサルタント業も花盛りです。カウンセリングという言葉も、どこにでも見られます。
 情報がこれだけ広く拡散され、簡単に手に入る時代ですが、やはり人は、自分の行く道に迷っているのでしょう。知識は正しい情報に裏付けられるべきでしょうが、実際には、それは言葉のアヤでしかありません。正確な情報、正しい情報が、まず手に入っているかを吟味しなければなりません。新聞やネットの情報、業界紙、学会誌、広報、口コミが正確だという保証はありません。けれども、私たちは、そのようなところから情報を得るしかないのです。

 正確な情報を得ても、例えば天気予報のように――特定の人の利害と偏見に基づかないものであっても――雨の予報にどう対応するかは、人によって異なります。子供の頃よくありました。遠足の日の朝になっても決行か中止か決まらず、一応、弁当とおやつをリュックに詰めて学校に出かけたものです。子どもは、おやつがあるし弁当も特別メニューだったりしますから、それでも嬉しいのです。しかし、学校側はそうは行きません。ピクニック先で、雨に濡れて風邪をひく子供がいたら大変です。弱くてすぐに泣き出す子や、迷子になる子が出る可能性もあります。

 そんな時、どう決断するかが知恵なのでしょう。一応マニュアルはあるのでしょうが、先生たちが苦慮する苦心する場面です。

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 たかが遠足の話です。ですが、先生たちの間でも賛否が分かれたりするとき、校長先生はいかに決断を下すべきなのでしょう。
 聖書の言葉は、高邁(こうまい)すぎてすぐに役に立たないという人がいます。ところが、このようなときにも、伝道者の書7章19節以下は、とても意味のある言葉です。
 責任者は、まず神の前にへりくだって祈るのです。全能の神が示された答えを聞き取り、それを選び取った後は、口論を終わらせ、リーダーになり、実行するのです。人の言葉に心を揺らされてはならないのです。人は、わずかなことでも他人との意見の違いを呪いますし、それは、「あなたもそうでしょう」と伝道者は言っています。

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 私はこれらのいっさいを知恵によって試み、そして言った。「私は知恵あるものになりたい」と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。(23節)
 今あることは、遠くて非常に深い。だれがそれを見極めることができるだろう。(24節)
 私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、捜し求めた。愚かな者の悪業と狂った者の愚かさを学びとろうとした。(25節)

 「これらいっさい」の意味は、伝道者の書の最初から、著者がテーマにしている「知恵」のことでしょう。彼は、神に向かって知恵を乞いながら、やはり自分で「知恵と道理」を探り出し、捜し求めずにはいられないのです。しかし、彼はそれを、「愚かな者の悪業と狂った者の愚かさ」と言っています。

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 私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女はわなであり、その心は網、その手はかせである。神に喜ばれる者は女からのがれるが、罪を犯す者は女に捕えられる。(26節)
 見よ。「私は道理を見いだそうとして、一つ一つに当たり、見いだしたことは次のとおりである。」と伝道者は言う。(27節)

 伝道者は、女性との関係で、「これこそ真実」と思うことも多かったのでしょう。男女関係は美しい想像をかき立てる世界、人の目を開かせると思えるような景観がある世界です。
 千人の妃とそばめを手にしていたソロモンは、官能の神秘も極めたに違いありません。
その結果、それで、言うのです。

 私はなおも捜し求めているが、見いださない。私は千人のうちに、ひとりの男を見いだしたが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見いださなかった。(28節)

 これでは、女性たちは立つ瀬がないと思いますが、ソロモンの結論です。

 私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。(29節)

 本来、「妻も友も、神が与えて下さっている」(創世記2章21節〜23節)のに、たしかに人間は、そこにいちいち理屈をつけるのですね。その瞬間「正しくなくなる」のも事実ですね。妙な理屈にそそのかされて、アダムとエバが知恵の実を食べたように。(創世記3章)









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