2016年05月07日

伝道者の書18 だれが知恵ある者にふさわしいだろう。(伝道者の書8章1節〜5節)




 だれが知恵ある者にふさわしいだろう。
 だれが事物の意義を知りえよう。
 人の知恵は、その人の顔を輝かし、
 その顔の固さを和らげる。(伝道者の書8章1節)

 この問いは、反語ですね。こんなふうに問われたら、答えはもう明快です。知恵あるものにふさわしい人間などいないのです。事物の意義を知る人間もいないのです。そんな人間が集まって社会を形成し生きていくのです。まさに、人生は不条理です。

 知恵あるものにふさわしい人間はいないとしても、それでも、知恵を求めることは人間として本能のようなものではないでしょうか。伝道者は神を信じる人ですから、神を信じ、恐れることを前提に論を展開しているはずです。神を恐れることによって私たちは、知恵への一歩を踏み出すのです。
 知恵を見出したと思えることは、どのような凡人にも罪びとにもあるわけです。本物の知恵は、人の顔を輝かす。こわばっていた心をなごませるのは経験的にもうなずけます。

 この箇所の「だれ」について、空知太キリスト栄光教会の銘形先生は、はっきりとイエス・キリスト(イエシュア)であると答えています。
 その箇所を、そのまま引用、紹介させていただきます。

##イェシュアは当時の人々(ユダヤ人)に「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)と語っています。ここでの「聖書」とは旧約の聖文書(諸書)といわれる「ケトゥーヴィーム」(כְּתוּבִים)のこと(「ケスビーム」と表記される事があります)であり、ヨブ記や詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌などを含んでいます。ですから、私たちがそれらを読むときには、それらがどのようにイェシュアついて証言しているのかを、よくよく注意して読む必要があります。

牧師の書斎
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 私は言う。王の命令を守れ。神の誓約があるから。(2節)
 王の前からあわてて退出するな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを何でもするから。(3節)
 王のことばには権威がある。だれが彼に、「あなたは何をするのですか。」と言えようか。(4節)
 命令を守る者はわざわいを知らない。
 知恵ある者の心は時とさばきを知っている。(5節)

 前節からつなげて読むと、王の命令を守らなければならない理由は、あきらかです。
 人間はだれも知恵があるとは言えないのです。一般的にも「神ならぬ身」という言葉があります。神でない者には多くの限界を制約があるのです。
 王もまた人間に過ぎませんが、それでも、王の命令を守らなければいけないのは、王は神が任命しておられるとの前提があるからです。神からの権能を授けられてことを行い、人をさばくことができるのです。
 ですから、王の命令を守ることは、たんなる処世の術を超えているのです。
 王の背後に「知恵ある者」が付いている、もしそう言う前提がなければ、王もそのような自覚がなければ、たしかに政治やさばきは立ち行かないでしょう。

 ただ、これは「理念としては」絶対的真理ですが、聖書にも、神の御心に反したイスラエルの王はたくさん登場します。(→列王記)
 神に叛いく王が罰せられて、悲惨な末路になっていることが、逆に、王の権威の重さを語っていると思います。







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2016年05月08日

伝道者の書19 すべての営みには時とさばきがある。(伝道者の書8章6節〜11節)



 すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいが多いからだ。(伝道者の書8章6節)
 何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。(7節)

 このような言葉を読むと、あらためて、私達は恐れに捕らわれて生きているのだと、思い知らされます。虚無的でなく、生産的に実際的に前向きに楽観的に生きるのは楽なのですが、虚無的悲観的であるのが幻想だとは言えません。だれもが、「運命のいたずら」を体験するのです。とつぜんの災害や、予定を狂わせる出来事に備えながら生きているのに、そのような人の知恵を一瞬で押しつぶす「時」があるのです。

 先の地震のような大きな災害は、私たちの平和や無事を握っているのは、私たち自身ではないと、気づかされます。保険を掛けて、家も耐震住宅にして,防災グッズで備えておくことは、もちろん意味があります。しかし、地震を恐れていては、完全な耐震構造の家の中から一歩も動くことができません。
 
 風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。(8節)

 天災は人の限界を思い知らせる出来事です。でも、天災がなくても、私たちは自分の限界を思い知らされています。それは「死をまぬがれない」ことです。これは悪人も同じです。悪は自分が生きのびるためにどのような無法も行うのですが、結局のところ、そのような行動でも「自分を救う」ことはできないのです。

 私はこのすべてを見て、日の下で行なわれるいっさいのわざ、人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた。(9節)
 そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行ないの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。(10節)

 「伝道者」はソロモンだと言われていますから、王なのです。支配者である王は、世の中を俯瞰(ふかん)するように見る訓練ができています。彼は人と人の間で起きる摩擦、とりわけ、支配できる側が、支配される側にわざわいを与える出来事を目にすることが多かったでしょう。王への訴えには、不当な目に遭った人からの告訴であることが多くて、知恵者のソロモンでも、苦慮する事例はたくさんあったと思われます。
 王は出来る限り正しい判決で悪者に罰を与えます。ところが、わざわいに苦しめられたあと、正しい人も町から去って、けっきょく忘れ去られるようなことが起ります。

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 悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(11節)

 たしかに、一時間物のテレビドラマ(たとえば、水戸黄門)に出てくるようなすっきりした悪因悪果の解決を、世の中に見ることはめったにありません。死刑に値するような思い罪を犯した人ほど判決までに時間がかかっています。
 もっとうまくやる方法があると、うそぶく者も後を絶ちません。
 神のなさること(ご計画)は、なかなか私たち人間の短い人生では理解できないことが多いのです。
 自分を「永遠から永遠のスパン」において、見ないといけないのかもしれません。







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2016年05月09日

伝道者の書20 人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。(伝道者の書8章節〜17節)



 悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(伝道者の書8章11節)

 これは、自分にも覚えがあります。赤信号でも「車が来ていないのだから、さっさと渡ればいい」とか、通ってはいけない中央分離帯を横切って近道したりしても、すぐに交通事故に遭うわけではありません。違反チケットを切られるわけでもありません。最近は絶対やらないのですが、それは運動神経に自信がなくなったからという理由の方が勝っています。

 人の目はごまかせても、神様をごまかすことはできません。聖書には、神様は私たちのすべてをごらんになっている。私たちは、かならず悪い行いを刈り取る日があると、書かれています。

 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ人への手紙6章7節)

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 罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。(12節)
 悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。(13節)
 しかし、むなしいことが地上で行なわれている。悪者の行ないに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行ないに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい。(14節)
 私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。(15節)

 伝道者の心は惑っています。悪者にはふさわしい刈り取りがあると信じながらも、それがすぐに見えないので、心は堂々巡りをしているのです。
 その結果、「楽しむほかない」と結論を出すのです。

 快楽のすべてが悪いことだとは言えないと思います。人には快いことを求める本能があり、おいしい食べ物、おいしい水、すてきな恋愛関係、性的満足などに従ってしまう性質ゆえに、自分だけでなく子孫を繋いで生きのびているとも言えます。
 ソロモンのような恵まれた境遇の人なら、欲しいだけの快楽におぼれることもできたでしょう。

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 しかし、人間には、生物的な快楽以上の喜びを求める本能があります。「神様から承認されたい」という欲求です。
 
 私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行なわれる人の仕事を見ようとしたとき、(16節)

 伝道者は惑いながらも、やはり知恵(神からの知恵)を求めているのです。その結果、次のように結論を出すのです。

 すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。(17節)






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2016年05月10日

伝道者の書21 生きている犬は死んだ獅子にまさる。(伝道者の書9章1節〜10節)



 というのは、私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめたからである。彼らの前にあるすべてのものが愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない。(伝道者の書9章1節)
 すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。(2節)

 このような論の展開は、神を信じない人の共感も得られる箇所です。結局、みんな死んでしまう。どんな生き方を選ぼうと、最後は全員、死んでしまうと思うからです。
 ある人が私に言いました。「(キリスト教を)を信じたら死なない?」。
 これは、今ある世だけを見ている人にとっては、伝道の言葉への強力な一撃なのです。「死なないと保証してくれるなら信じてもよい」と言いたいのです。しかし、「死者の復活」や「永遠のいのち」を信じない人に、「死なない」と言ってもわからないのです。

 同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行なわれるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。(3節)

 ソロモンは、知識と知恵に満ちていた王ですが、それでも「永遠のいのち」は、信じていなかったのでしょうか。死んだらすべてが終わるという結論は、あまりにも平凡です。創世記を含めたモーセ五書を読んでいなかったのでしょうか。

 私たちの中に悪が満ちているのは、「死んだら同じ」と思っているからだとソロモンは言っているようです。神を信じない人の中には、それは合理的な考え方であるようです。「どうせ死んじまうんだ。だったら生きているうちに楽しもう」なんて考えは、今でもよく聞きます。

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 すべて生きている者に連なっている者には希望がある。生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。(4節)
 生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。(5節)

 ソロモンが、これほど即物的なのは、彼が豊かであったからかもしれません。彼はある意味で全世界を手に入れ、彼が欲しいと思うすべてを所有することができました。目に美しいもの、耳に楽しいこと、柔らかい絹の着物や五感をふるわせる香油、ありとあらゆる快楽、知的快楽から肉的快楽までが取り揃えられていました。それは、生きていてこそ得られる報いでした。
 ソロモンは二十年をかけて、神殿と自分の家を建てました。(U歴代誌8章1節)
 それは、かつてどのイスラエル人も経験したことがないような大事業でした。ソロモンの栄誉はこの上もないものでした。
 ソロモンは、神の前では、へりくだって祈りました。「神はこのようなところにお入れすることはできません。」と。(T列王記8章27節)

 彼は、神が人びとを祝福して下さることを知っていました。父ダビデが成し遂げられなかった献堂を果たした自分に対する大きな祝福も味わいました。
 それでも、永遠のいのちには、気が付かなかったのかもしれません。

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 彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行なわれるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。(6節)
  さあ、喜んであなたのパンを食べ、
  愉快にあなたのぶどう酒を飲め。
  神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる。(7節)
  いつもあなたは白い着物を着、
  頭には油を絶やしてはならない。(8節)
 日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。(9節)
 あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。(10節)

 ソロモンが亡くなってから、イスラエルが南北に分裂し、多くの預言者が現れました。救い主についての預言が繰り返されるようになりました。







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2016年05月11日

伝道者の書22 競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、(伝道者の書9章9節〜18節)



 日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。(伝道者の書9章9節)
 あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。(10節)

 ソロモンがまだ、永遠のいのちや死後の世界を知らなかったとしても、彼を責めることはできないと思います。彼も神から選ばれ、祝福された王でしたから、主は彼に現れておられます。(T列王記3章5節、同11章9節〜14節)
 かつて、神から「あなたに何を与えよう。願え」(T列王記3章5節)と言われたイスラエルの指導者は、いたでしょうか。

 多くの有力な王子がいた中で、ソロモンに王冠が授けられたのは、世的には彼の母バテ・シェバの政略が大きかったでしょう。(T列王記1章2章)けれども、どれほどたくらんでも、神が彼の側におられなければ、王権は彼の手に来なかったでしょう。
 主のひとかたならぬ愛顧を受けて、ソロモンはイスラエルの全盛時代の王として、生きることができました。権力、勢力、領土、富貴、女性など、目に見えるものだけでなく、知恵の王としての名声もかつてないものでした。

 日本史のなかでは、たとえば藤原道長を比肩させることができるでしょうか。「望月の欠けたることもなしと思えば」と詠んだ道長の物語は、そもそも、世俗の歴史観で書かれていますが、ソロモンもすべてが思い通りになるような隆盛の中で、ふと、同じような思いにとらわれることもあったのではないでしょうか。
 多くの外国人の妻をめとり、さらに彼女たちの拝む神のために、「エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた」(T列王記11章7節)のです。
 ダビデ王なら絶対にしそうもないこのような行いをしたとき、すでに、彼は、イスラエルの王は神のしもべである事実を忘れていたのかもしれません。

 神を恐れていない彼の目は、当然、虚無的になったでしょう。

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 私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。(11節)
 しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、わなにかかった鳥のように、人の子らもまた、わざわいの時が突然彼らを襲うと、それにかかってしまう。(12節)

 神を見ない人にとって、この世の不公平や災難は、神に噛みつきたくなるような出来事です。多くの人は、自分の人生をまじめに計算して努力しています。しかし、思いがけない出来事で予定が外れるのです。オリンピックでメダルを取る人はたしかにいますが、同じように素質をもち夢をもち、努力をしたおびただしい人が、斃(たお)れたのだというのも事実です。道の途中に多くの網や罠が仕掛けれていて、それらにかからないほうが難しいのです。

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 私はまた、日の下で知恵についてこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。(13節)
わずかな人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた。(14節)
 ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。(15節)
 私は言う。「知恵は力にまさる。しかし貧しい者の知恵はさげすまれ、彼の言うことも聞かれない。」(16節)

 この部分は、「一将功成(いっしょうこうな)って万骨枯る」という言葉を思い出させます。一人の将軍が功績を表すとき、その下で働いた多くの部下がいたはずです。知恵があり度胸があり、なによりも忠誠心のために命を惜しまなかった「小さな者たち」がいたのです。
 しかし、功績は大将のものとなるのです。

  知恵ある者の静かなことばは、
  愚かな者の間の支配者の叫びよりは、
  よく聞かれる。(17節)
  知恵は武器にまさり、
  ひとりの罪人は多くの良いことを打ちこわす。(19節)

 ソロモンは、そのような無名の知恵者を認めます。それでこそ、「知恵の王」ソロモンの面目でしょう。





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