2016年05月12日

伝道者の書23 死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。(伝道者の書10章1節〜15節)




 死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。(伝道者の書10章1節)

 これは、説明なしに納得できる言葉です。ハエは小さな昆虫にすぎませんが、スープの中に落ちていたらだれでもそのスープを捨てます。まして香油が臭くなっては売りものになりません。同じようにわずかな愚かさで、せっかくの知恵や栄誉も台なしになるというのです。
 
 知恵ある者の心は右に向き、愚かな者の心は左に向く。(2節)

 〈右〉は力とか幸運を意味し、〈左〉は不幸とか災害を意味する。(新実用聖書注解・いのちのことば社P910)

 愚か者が道を行くとき、思慮に欠けている。自分が愚かであることを、みなに知らせる。(3節)

 この「道」は人生を意味しているそうですが、「はい」とうなずくしかありません。ただ、逃れる方法はあります。聖書では知恵は神を恐れることから来るのです。反対に、愚かさは、神を恐れないところからもたらされるのです。人間が考える「頭の良さ」のことではないと思えば、愚かな選択は避けることができると考えられます。

 支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静は大きな罪を犯さないようにするから。(4節)

 対立や衝突があるとき、だれでも「いたたまれなく」なります。対等な人間関係でも、緊張が頂点に達しているような時に、「席を蹴って」出て行くのは、ますます人を怒らせます。まして、相手が王である場合は、許しがあるまでその場にいなければならないというのです。実際の対立以上に王を怒らせないためです。

 しかし、ソロモンは、王(権力者)に絶対的正義があるとは言っていません。権力者が犯す過ちは、悪の中でも最悪なのです。それは、彼をその位置に据えられた神を冒涜することだからです。

 私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである。(5節)
 愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に着けられている。(6節)
 私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。(7節)

 こんなことは、珍しいことではありませんね。高い地位にあり、権力があるはずの人の愚かさは、テレビニュースなどでもしょっちゅう見る時代です。東京都知事が公費を私的に流用した疑惑を問われて、きちんとした釈明ができません。大会社の最高位にある人が、自社製品の不正が明るみに出て記者会見する時も、おろおろと言い訳しています。「責任者」である意味がよくわからないようです。
 そのような出来事が明るみに出なければ、彼はどこへ行っても敬意をもって処遇され、さぞ立派に見えた人だったでしょうに、と思わされます。

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 穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。(8節)
 石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。(9節)
 もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。(10節)
 もし蛇がまじないにかからずにかみつくなら、それは蛇使いに何の益にもならない。(11節)

 たしかに、穴を掘るリスク、石垣をくずすときの不測の事態に備えるのは、知恵です。その意味では、人はだれでもずいぶんたくさんの知恵を蓄えて来たのです。それが、文明と呼ばれるものではないでしょうか。
 斧のようは刃物を扱うこと、蛇や猛獣を扱うことにも知恵が必要です。

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 知恵ある者が口にすることばは優しく、愚かな者のくちびるはその身を滅ぼす。(12)
 彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、みじめな狂気。(13節)
 愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることをだれが告げることができよう。(14節)

 しかし、知恵が本当に必要なのは、言葉を出すときかもしれません。知恵ある者の言葉は「優しい」のです。それに対して、愚か者は、言葉で身を滅ぼすと戒められています。

 愚かな者の労苦は、おのれを疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。(15節)

 たしかに、おしゃべりの後、疲労感と自己嫌悪に陥るときがありますね。




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2016年05月13日

伝道者の書24 わざわいなことよ。あなたの王が子どもであって、あなたの首長たちが朝から食事をする国は。(伝道者の書10章16節〜20節)



 聖書は一貫して社会の上下関係や支配関係を認めて、人々が権威にしたがうことを勧めています。支配の構造も権力も神様が与えて下さったとものであると、考えれば当然です。同時に、王が倒れるのも国が亡びるのも、神様がそうされたと、解釈できる個所はたくさんあります。ソドムとゴモラの滅亡(創世記19章24節25節)。隆盛であったアッシリヤやバビロンの滅亡、イスラエルの中でも北イスラエルは、つねに王が殺されて別の王朝が立ちました。預言者を通じて、家来に、陰謀を起こし王を倒すことさえ、神様は命じておられます。

 神様から権威と地位をいただいた者は、責任も果たさなければなりません。私たちの歴史において、結局のところ、権力者の交代で時代が変わっているのは、罪人である人間は、権力や権威にふさわしくありえないからでしょう。

 わざわいなことよ。あなたの王が子どもであって、あなたの首長たちが朝から食事をする国は。(伝道者の書10章16節)
 幸いなことよ。あなたの王が貴族の出であって、あなたの首長たちが、酔うためではなく、力をつけるために、定まった時に、食事をする国は。(17節)

 たしかに、子供(成熟しきれない者)が、上に立っていれば災難です。支配者が朝から宴会をしていては国は乱れます。

 「貴族の出」の意味は、高い地位にふさわしい教育と訓練を受ける機会があったということでしょう。今日でも、一般的に学歴が人を測る基準になっているのは、学びは、人をふさわしく整えると信じられているからではないでしょうか。たんに、専門知識があるとか、多くの外国語を話せる、礼儀を心得ていると言ったテクニカルな面だけなら、なにもいわゆる高学歴である必要はないかもしれません。

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 なまけていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする。(18節)
 食事をするのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。(19節)

 地位が上でも下でも、大切なのは、「勤勉」であるというのが聖書の命じるところです。楽園では、アダムもエバものんびりと園の管理をしていればよかったのです。けれども、楽園の外は、「顔に汗を流して糧を得なければならない」(創世記3章19節)世界なのです。
 苦しんで得た糧には、けれども、報いがあります。おいしいものを食べる時、自然に笑顔になります。少しのお酒も楽しいものです。お金で多くのものが買えるのも事実です。

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 王をのろおうと、ひそかに思ってはならない。寝室でも富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を持ち運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。(20節)

 日本でも「壁に耳あり、障子に目あり」と言います。誰が聞いているかもしれないから、不要に陰口や批判をしてはならないと戒められています。けれども、ここで伝道者が戒めているのは、壁の向こうや障子の陰で立ち聞きしている人間のことではありません。人間も含めて、もっと大きな力、目に見えない存在のことです。
 私たちは、因果がかならずしもはっきりしない出来事に囲まれています。身に余る祝福に巡り合うこともあり、身に覚えのない難癖を受けることもあるのです。
 伝道者が終始私たちに語っていることは、「神を恐れよ」だと、覚えるのです。(伝道者の書12章13節)






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2016年05月14日

伝道者の書25 あなたのパンを水の上に投げよ。(伝道者の書11章1節)



あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。(伝道者の書11章1節)

 
 これは意味を深く詮索しないで、ただこのまま飲み込んで、栄養になりそうなことばです。とても印象的で、一度聞いたら忘れられない。それは、このことばが、そのまま絵となって記憶されるからかもしれません。
 大きな(または小さな)流れがあって、そのたもとで旅人が弁当を食べている。あるいは家族でピクニックをしている。小鳥や魚の姿を見れば、人はパンを一切れ投げてみようと思わないでしょうか。有り余っているからではなく、足りなくても、少しを、自然の中の何かに返したい気がするのです。すぐに鳥が来て咥えて飛び去ってくれればいいですが、流れに乗ってパンは遠ざかり、やがて消えてしまうこともあります。そんなとき、私などは、何か「無駄をした」と思いそうです。
 ところが、後日、ほんとうにひもじいときに、思いがけず、目の前にパンが流れてくるかもしれないのです。
 
 これは、あまりにも幼稚な絵解きかも知れません。でも、私たちが、目に見える損得関係や貸借関係だけで生きていないのは事実です。自分に与えられた多くの物が、自分で「稼いだ」物ではないと気づかされます。また、自分が支出するお金や労力、気遣いが、どこへ消えたかわからないこともたくさんあります。寄付や献金だけでなく、何げなく行った善行、親切、努力は、一見その量は計れません。ケチであくどい、自分の楽しみしか追及しない人の方がずっと報いられているように見えることもあります。
 それでも、「そう見えるだけで」、思いがけないときに、「かつて、自分が投げたパンを見出す」と信じられるのは、うれしいことです。

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 「あなたのパンを水の上に投げよ・・・」は、元々は、投資を勧めた格言だという解説があります。貿易で儲けるためには、多くの商品を仕入れて船で運ばなければなりません。それを売り、その金で別のものを仕入れ、戻って来てまた売り、儲けるのです。古来、貿易は儲かったのでしょう。世界中の大国は貿易を奨励していました。しかし、船で遠くに商品を運ぶのは大変なリスクです。後に利益を見出すという希望で、投資するのです。

 また,漁師はたくさんの魚を取るために、撒き餌をします。「エビで鯛を釣る」わけです。これも投資です。

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 しかし、私たち信仰者には、みことばを、このような投資の勧めと見るのは、何かそぐわない感じがします。
 それで、伝道の種蒔きを示唆していると考えるのです。新約聖書では「種蒔きのたとえ」として語られています。(マタイの福音書13章3節〜9節) 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇126篇5節)も、伝道の勧めとして解説されることがあります。

 これについて、興味深いお証しが榎本保郎牧師の「旧約聖書一日一章」(主婦の友社)というエッセイ集に載っています。

 師が同志社大学神学部の学生だった時、牧師のお伴で葵祭に賑わう京都の町に出て、路傍伝道をしたというのです。しかし、伝道の声に足を止める人もまったくいなくて、子供たちが、「アーメン・ソーメン・ヒヤソーメン」とからかうだけだった。榎本師は悔しくて、子供を睨みつけて帰って来たとか。教会に帰り着くと、牧師が「感謝の祈りをしましょう」と言ったので、また腹が立った。
 ところが、二十年ほどして、牧師になっている師のもとに、神学部の新卒生が派遣されてきた。そのとき、二十年前にこんなことがあったと話した。すると、その新卒生は、「その時、アーメン、ソーメン、ヒヤソーメンといったのは僕です」と言ったという。
 榎本師は、この体験を、「あなたのパンを水の上に投げよ」の実例として上げておられるのです。

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 しかし、捨てがたい解説がありましたので、ご紹介します。以前にもご紹介した銘形牧師のサイトから。引用させていただきます。興味のある方は直接サイトをご覧になって、解説全部をご覧ください。

牧師の書斎

##伝道者の書11章1節の「あなたのパンを水の上に投げよ」という命令も、神のご計画とみこころ、御旨、目的に実現させることにかかわる事柄です。「投げよ」に代わる適訳が見つかりませんが、一応「向けよ」としておきます。11章1節は、まさに私たちの永遠の必要(糧、パン)を、水の上に羽ばたいている神の霊に向かってより頼めという命令だとすれば、「ずっと後の日になってあなたはそれ(糧・必要)を見い出す」ようになるという約束なのです。しかもそれは、神のご計画のカイロス(神の最善の時)において、神の絶妙なタイミングによって実現すると信じます。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%92%E6%B0%B4%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AB%E6%8A%95%E3%81%92%E3%82%88








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2016年05月15日

伝道者の書26 人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。(伝道者の書11章2節〜10節)



 あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。
 地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。(伝道者の書11章2節)

 これも文字どおりに解釈できます。自分が受けた物は、他の人にも分けよと命じられているのです。一節の「水の上に投げよ」に較べれば確実な投資と考えられるかもしれません。あるいは、これは「不正な管理人のたとえ」を意味しているのでしょうか。(ルカの福音書16章1節〜12節)
 もしものために、自分の富を分けておくなんて、とても世俗的な感じがしますが、世を生きる知恵は世にいる限り必要だということでしょうか。
 
 雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。
 木が南風や北風で倒されると、
 その木は倒れた場所にそのままにある。(3節)

 これは、世の中に起きる事の道理を説明しています。風水害を防ぐために事前に防備をするのは当然です。また、災害が起ったら後片づけも当然です。一人ではできないことで、人と協力しなければならないのですから、お金や富も公共の物のように考えるよう示唆しているのです。

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 風を警戒している人は種を蒔かない。
 雲を見ている者は刈り入れをしない。(4節)
 あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは いっさいを行なわれる神のみわざを知らない。(5節)

 人間はつい、知識優先、理屈優先になります。怠けることや、不正を行う場合にも理由をつけたいのです。「雨になりそうだから農作業を止めよう」なんて具合です。けれども、自然現象こそ人間の知識を超えています。
 今では、たしかに赤ん坊が受胎して生まれてくるまでのメカニズムは解明されています。子宮の中の赤ん坊を見ることもできます。DNA鑑定のおかげで、父親を正確に特定することもできます。子どもを作る時期も、計画に従ったのかもしれません。それでも、その赤ん坊がどういう資質や外見をもって生まれて来るかは、神様の主権が決めるのです。
 同様に、私たちの人生も、すべてを私たちが決めることはできないというのです。

 朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。(6節)

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 光は快い。太陽を見ることは目のために良い。(7節)
 人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。(8節)

 私たちにわかることは、「快、不快」「喜び、悲しみ」くらいかもしれません。結局楽しいことを選んで、太陽のある道を選んで歩いていくしかないのかもしれません。予測、計画、期待は外されるとでも言うのでしょうか。そう思えば、人生はむなしいですね。

 若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。(9節)

 楽しみや快楽を喜べる時代は、限りがあります。老いて来ると、思う存分飲み食いをしたくでもその能力がなくなります。だから、楽しいことができる間に楽しめと言われているのです。ただし、楽しみの多くは、あとから請求書が来るものです。食べ過ぎも酒も女性も、過ぎると、肉体的な病気を引き起こします。妻以外に子どもを作ったために、余計な苦労を背負い込む人もいます。とうぜん、若いときにあった資産は減っているのです。
 さらに、そうだとしても、「若いうちに楽しめ」なのです。痛みや悲しみを我慢する必要はないのです。どの道、「若さも青春も空しい」のだからと言う伝道者の言葉は、やはり虚無的ですね。

 だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。(10節)







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2016年05月16日

伝道者の書27 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(伝道者の書12章1節〜7節)



 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。(伝道者の書12章1節)

 これを、若い人だけに言うのは酷ですね。最近では、若い時代はずーと伸びています。日本では還暦を迎えて、「さあ。もう一度」と、ロックバンドを結成したり、フルマラソンに挑戦したり、学校に行きなおしたり、起業したり、はたまたもう一度若い奥さんを迎えて家庭を作り直す人など、青春時代が、「若い日」だけとは限らなくなっています。
 
 国が安定していて、年金や社会保障が充実した国、医療制度や衣食住の環境も良いので、人は、今の時代七十歳くらいまで老年であることを自覚させられないのです。けれども、時代小説などを読むと、江戸時代までは四十五歳くらいが引退年齢。そのころまでにしっかりした跡継ぎが育っていることになっていて事業や地位を継がせるのです。老眼が入り、歯が抜け始めるころです。箱根の関所の博物館で、関所の改め帳を見たことがあるのですが、毛筆なのにとても細かい字で書かれていて、これでは老眼が入ってきた役人は書くことが出来なかったろうと思ったものです。
 女性のための化粧品も、私の若い頃は、「二十四歳はお肌の曲がり角」と宣伝していました。ところが、最近では、七十歳八十歳に「若さ」を売ろうとしています。

 だから、一節の言葉は、こう言いかえられるかもしれません――みことばを言いかえるなんて不謹慎と思われる方は、どうぞお叱り下さい。
 
 あなたが若さを楽しむとき、あなたの創造者を覚えよ!。

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 太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。(2節)

 これは、イスラエルの冬の情景だそうです。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 若さがみなぎっている人には、冬もたいして気になりません。わざわざ冬山に上ったり、スキー場やスケート場に行って、自分の身体能力に挑戦します。
 けれども、ほんのひと昔前は、二月八月と言ったのです。葬式が多い時期です。寒さと暑さのストレスに弱いお年寄りが、もっとも多く亡くなる季節だったのです。
 
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 その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。(3節)
 通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。(4節)
 彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。
 アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。(5節)

 人はやがて死にます。どのような若さも、若く見える生命力も、やがては衰え死ぬのが定めです。それはわかっていても、葬列は悲しいものです。親や子や親しい者の死を嘆かない人などいるでしょうか。
 「永遠の家」は、墓場でしょう。

 こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。(6節)
 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(7節)

 不思議ですね。「ちりに帰る」と言う表現は、仏教の葬儀でもよく聞きました。私たちは消えてなくなるのではないことは、ある意味で誰もが知っていたのでしょう。体がなくなったら、それでも何か残るはずだという思想は、どこからやってきたのかわかりませんが、霊が「そのあたりをいつまでも彷徨っている」と考えるより、「神の元に帰る」方が理屈が通りますね。「いのちを下さったのが神である」というのは、聖書の原則です。







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