2016年05月17日

伝道者の書28 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(伝道者の書12章1節〜5節)



 空の空。伝道者は言う。すべては空。(伝道者の書12章8節)

 死を思えば、この世の楽しみも労苦もすべてが空しくなります。伝道者の書は、この言葉で始まっているのです。ここで、伝道者は初めの思いに戻っています。

  空の空、伝道者は言う。
  空の空、すべては空。
  日の下で、どんなに労苦しても、
  それが人に何の益になろう。(伝道者の書1章2節3節)

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 伝道者は知恵ある者であったが、そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探求し、多くの箴言をまとめた。(9節)
 伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。(10節)
 知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。(11節)

 突き棒とは、羊を突いて前に進ませる棒である。(新実用聖書注解)
 羊飼いが突き棒で羊を正しい方向に導いている姿が見えてきます。羊飼いは当然、ここでは、神を意味するのです。
 書物は、ただ、ランダムに言葉を並べたものではないのは誰もが知っています。およそ、書物は、編集されて出来上がるものです。編集をするのは、読者が正しくまた、容易にその書物の中に入って行くためです。

 わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。(12節)

 「わが子よ」と言う呼びかけは、当時教師が弟子に向かって言う言葉だったそうです。(同注解書)
 ここで、伝道者は、彼から学びたいと集まっている者たちに言うのです。「知識を求めてもきりがない」「学びも過ぎると疲れるだけである」と。

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 今日では、「熱中」が勧められています。「前向きに努力すること」が良い人生を作るというのです。ただ牛馬のようにがむしゃらに働くことではなく、「かしこい」ことも求められています。多くの情報を取り、多くの人と知り合い、そこから益になることを見出すことが人生を充実させることだと勧められています。

 知識も人間関係も簡単に手に入るように見える時代です。インターネットは、知識の貯蔵の仕方や、人とのつながり方も変えてしまいました。
 ひと昔前まで、本棚に本を蓄えるのは、ひと仕事でした。本は、お金がかかるだけでなく、かさばるし、汚れるし埃も溜まるし、寝る場所を塞ぐ、だからこそ、学生などはわざと本を貯めてその間で眠ることに憧れたりもしたのです。
 情報は、ラジオ、テレビ、新聞、本、あるいは直接、現場に行くか、専門家にあって教えてもらうしかなかったのです。それが、いとも簡単に、キーを叩くだけで手に入る時代です。玉石混合ですが、捜せば見つかるのです。

 それでなお、伝道者の言葉の意味が重くなっています。どんなに求めても識には終わりがなく、疲れるだけだと。

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 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである(13節)
 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(14節)

 どんなに学んでも、死を免れることはできません。突然の災難も、わが子の姿形も選ぶことはできません。自分の両親も国籍も選んだものではありません。夫や妻や仕事は選べますが、自分の予想と実際はまるで異なります。
 知識を積めば可能になるのは、人生のほんのわずかな部分に過ぎません。それさえ、不確実なのです。結局、隠れたことが多いのです。大きな神がすべてを采配しておられると認めないわけにはいきません。

 万巻の書も、「神を恐れよ。神の命令を守れ」に収束されるというのが、伝道者の英知であるように思えます、




         

 聖書通読エッセイCoffee Break、2000回通過の感謝!

 2010年8月に、創世記の最初から読み始めた聖書通読エッセイは、今朝の投稿で、2000回になりました。
 ちょうど切りよく、伝道者の書が終わるところです。

 やむを得ず書けない日がありましたが、ほとんど休むことなく続けてくることが出来たのは、まさに神さまのあわれみでした。大きな病気もせず、どうしても手を取られるような出来事もなく、乏しい知識と届かない理解力の小さな者でしたが、聖書の森を渉猟する喜びに満たされた日々でした
 つたない文章を読み続けて下さった読者の方々にお礼を申し上げます。貴重なご教示ご示唆を下さり、励まして下さった牧師、同じ信仰の兄弟姉妹に何度も助けられました。
 ありがとうございます。

 ちょうど、この日のみことばが、「神を恐れよ」であることも、とても意味深く思えます。

 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである(伝道者の書12章13節)
 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(14節)

 今後とも、ご訪問いただけると嬉しいです。お叱りやご教示もよろしくお願い申し上げます。

                                      
   さとうまさこ







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2016年05月18日

Coffee Break 雅歌1 (雅歌1章1節〜7節)



 雅歌については、「歌の中の歌」といった解説が適切なようです。解説書もそのように記していますし、牧師方の説明にもかならず盛り込まれています。
 私には原語の意味など吟味しようもないのですが、「歌の中の歌」なんて、最上級の褒め言葉です。ことばを重ねるのは、歌だけではなく、卑俗な酒やごちそうや、女や男や、果ては犬猫にまで当てはめてほめ言葉としてつかえる修辞法です。
 とはいえ、「女の中の女」とか「男の中の男」と、最近はあまり言わなくなりましたが。評価から外されていく人たちへの配慮でしょうか。

 ただしぜんに読めば、これは「恋歌」です。それも、かなりセクシャルな感性に訴えて来る恋歌なのです。そのためでしょうか。やはり、どの解説にも、これは男女の愛に仮託した主(神、イエス・キリスト)と私たちとの関係だと、注意を促しています。そうでなければ、聖書に組み入れられるはずがないと考えるのです。

★★★★★

       ソロモンによる(雅歌1章1節)
 あの方が私に
 口づけしてくださったらよいのに。
 あなたの愛はぶどう酒よりも快く、(2節)
 あなたの香油のかおりはかぐわしく、
 あなたの名はそそがれる香油のよう。
 それで、おとめらはあなたを愛しています。(3節)

 日本人はまず、人前で口づけしません。不倫の話しでさえテレビカメラに向かって堂々と告白する時代であり、「セックスレス」などということばも、まるで「停電」と同じレベルで扱われています。なのに、「口づけ」は、禁句なのです。茶化して「チューする」などと使うので、ますます、「口づけ」は品の落ちる行為になっています。

 ですから、雅歌の冒頭から「口づけして下さったらよいのに」なんて出て来ると、モラル的に真面目な聖書読者は、おおむね焦ってしまうのではないでしょうか。人並みに年を食って、もう世俗の圏外にいるさとうも、多少は焦りを覚えます。
 「愛はぶどう酒よりも快く・・・」から「あなたを愛しています」まで、なんだか、気恥ずかしくて「読んでられない」という気になって来るのです。
 やはり、婉曲表現で恋心を歌う方が、読む者も楽であるのが、日本人ではないでしょうか。たとえば、次の有名な一首のように。

   君がため 春の野にいでて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ(小倉百人一首より)

 さて、それでも、これから雅歌を読んでみます。ぜひ、お付き合いくださいませ。

 3節の続きです。

 私を引き寄せて下さい。
 私たちはあなたのあとから急いでまいります。
 王は私を奥の間に連れていかれました。
 私たちはあなたによって楽しみ喜び、
 あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、
 まごころからあなたを愛しています(4節) 

 エルサレムの娘たち。
 私はケダルの天幕のように、
 ソロモンの幕のように、
 黒いけれども美しい。(5節)
 私をご覧にならないでください。
 私は日に焼けて、黒いのです。
 私の母の子らが私に向かっていきりたち、
 私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は
 見張りませんでした。(6節)
 私の愛する人、どうか教えて下さい。
 どこで羊を飼い、
 昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。
 あなたの仲間の群れのかたわらで、
 私はなぜ、
 顔おおいを付けた女のようにしていなければ
 ならないのでしょう。(7節)







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2016年05月19日

Coffee Break 雅歌2 私を引き寄せて下さい。私たちはあなたのあとから急いでまいります。(雅歌1章4節〜11節)



 私を引き寄せて下さい。
 私たちはあなたのあとから急いでまいります。
 王は私を奥の間に連れていかれました。
 私たちはあなたによって楽しみ喜び、
 あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、
 まごころからあなたを愛しています(雅歌1章4節) 

 エルサレムの娘たち。
 私はケダルの天幕のように、
 ソロモンの幕のように、
 黒いけれども美しい。(5節)
 私をご覧にならないでください。
 私は日に焼けて、黒いのです。
 私の母の子らが私に向かっていきりたち、
 私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は
 見張りませんでした。(6節)
 私の愛する人、どうか教えて下さい。
 どこで羊を飼い、
 昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。
 あなたの仲間の群れのかたわらで、
 私はなぜ、
 顔おおいを付けた女のようにしていなければ
 ならないのでしょう。(7節)

 出来る事なら、「雅歌」は終わりまで一気に読んでみる方が良いのではないでしょうか。それほど長い文書でもありません。
 本来、歌や詩は、絵画のようにトータルに全貌を見てこそメッセージが伝わるものです。おそらく作者は、瞬間に燃え上がった激しい炎を見て取って、言葉にしたに違いないのです。じっさいには、何日も推敲したとしても、一瞬に火のつく恋心の「不思議」を書かないではいられなかったのです。
 
 ★★★★★

 雅歌を終わりまで読んでみて、私自身、雅歌は恋歌・愛の歌だと考えます。

 たしかに、そのまま読んでエロティックな絵が描けそうな、下手な画家にかかったら、また意地悪なアーティストの手になれば下品なほのめかしになるかもしれない「性的象徴」がたくさん出てきます。

 愛の歌が下品であるなどと、どこにも決まりはありません。愛が神さまから禁止された行いであるはずがないのは、聖書読者ならだれでも知っています。セックスも同様です。セックスは、男女の愛の究極の形であるのは事実です。神様は、「人がひとりでいるのは良くない」と仰せになってアダムにエバをお与えになったのです。
 神様から与えらたゆえに、「男はその父と母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世記2章24節)とのみことばを、私たちは実行してきたのです。

 たとえば、「人はその妻エバを知った。」(創世記4章1節)は、英語TEVバージョンでは、intercourse(性交する)と訳されています。創世記16章4節でアブラハムがハガルのところへ「入った」という日本語も、intercourse が使われています。確かに、「性交する」という言葉には、何の色もついていません。それに色を付けるのは、読む人たちの気持ちです。

 愛も同様です。そこにどのような意味を込めるのかは、私たち自身なのでしょう。
 神ご自身が、「たがいに愛し合いなさい」と命じておられるのです。
 もちろん、私たちは神の愛の対象として造られたのです。

 さて、雅歌の続きです。
 
 女の中でも最も美しい人よ。
 あなたがこれを知らないのなら、
 羊の群れの足跡について行き、
 羊飼いの住まいのかたわらで、
 あなたの子やぎを飼いなさい。(8節)

 わが愛する者よ。私はあなたを
 パロの戦車の雌馬になぞらえよう。(9節)
 あなたの頬には飾り輪がつき、
 首には宝石をちりばめた
 首飾りがつけてあって、美しい。(10節)
 私たちは銀をちりばめた金の飾り輪を
 あなたのために作ろう。(11節)








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2016年05月20日

Coffee Break 雅歌3  王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。(雅歌1章12節〜15節)



 が、「良い」「悪い」の性質をもっているのはないと思います。愛は、生きる上でなくてはならないだけです。
 とは、言い換えれば自分以外の「存在」とのかかわりです。誰かと誰かが関わるときには、濃淡があっても「愛」を伴なうのです。生まれた時に母親を失くした赤ん坊が育つためには、誰かが保育しなければなりません。保育や授乳にはどんなに義務的であっても「愛の行為」が含まれています。「空気や水や食物は生存に必要だが、愛はがなくても生きていける」と言う人がいます。しかし、それはは嘘ですね。

 「水や食物」と「愛」との違いは、愛は、相互作用だということです。食物は、食べる側が「求めている」だけですが、愛は「与える側」と「与えられる側」の双方が求めているもの。また、双方が「与え合っている」ものではないでしょうか。
 乳児の世話、それも他人の子どもの世話をするのを、義務や仕事と思う人はいるでしょう。お年寄りの世話や重い障害者の世話も同じです。手ばかりかかり、何一つ自分で出来ない相手であっても、そこに相手から返ってくる愛を感じ取ることが出来なければ、それは、無機質で義務的な「おつとめ」になってしまいます。
 多くの管につながれてやっと生命を維持しているような人であっても、体温があります。心臓が動いています。切れば赤い血が流れる存在です。命のあるものに触れているだけで、「暖かく」なって来る「装置」が、私たち人間には、先天的に組み込まれているのだと思います。

★★★★★ 

 王がうたげの座に着いておられる間、
 私のナルドはかおりを放ちました。(雅歌1章12節)
 私の愛する方は、私にとっては、
 この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。(13節)
 私の愛する方は、私にとっては、
 エン・ゲディのぶどう畑にある
 ヘンナ樹の花ぶさのようです。(14節)

 この箇所は、文脈的には、1章4節「王は私を奥の間に連れていかれました」を受けているのでしょう。王を恋い慕う乙女、もとより王が愛した女性が王との関係をいよいよ深めていく場面です。情熱をそそる道具立ての中で、同時にくつろいだ愛の空間をみることができます。それは、次に性的な行為が予定されている場面です。あるいは、すでに、それは始まっているのかもしれません。
 いずれにしても、ソロモン王のような華麗な境遇にあった人の、愛の儀式は、今の時代とはまるで異なるでしょう。
 二人は、ことばを尽くして愛を確かめあうのです。
 
 女性が「私を引き寄せて下さい」(4節a)と言えば、「女の中でもっとも美しい人たち」(8節a)と男性が答えます。
 12節では、女性は、はっきりと男性を誘惑しています。
「私のナルドは香りを放ちました。」(12節b)
「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです」(13節)
 この場面が、激しくエロチックであるのは事実でしょう。しかし、下品でしょうか。
 テレビのバラエティ番組などで、「谷間」などという言葉を使って、ことさら、笑いの種にするとき、エロチックは、下品なものとなってしまいます。

 しかし、愛――求めあう気持――の発露だけを歌っているこの歌は下品ではありません。
 おそらく、テレビでゲラゲラ笑って「谷間」を冗談にする人の脳裏には、「愛の対象」がないのでしょうね。
 雅歌を、どのように見るかは、愛をどのように見るかに掛かっているのではないでしょうか。






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2016年05月21日

Coffee Break 雅歌4  私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。(雅歌1章12節〜2章6節)



 王がうたげの座に着いておられる間、
 私のナルドはかおりを放ちました。(雅歌1章12節)
 私の愛する方は、私にとっては、
 この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。(13節)
 私の愛する方は、私にとっては、
 エン・ゲディのぶどう畑にある
 ヘンナ樹の花ぶさのようです。(14節)

 ああ、わが愛する者。
 あなたはなんと美しいことよ。
 なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。(15節)

 私の愛する方。
 あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。
 私たちの長いいすは青々としています。
 私たちの家の梁は杉の木、
 そのたるきは糸杉です。(16節)

 余計な解説なしに、雅歌が恋人同士の「相聞歌」であるのがわかります。ことばが翻訳語であり、もとが古代のイスラエルが背景になっている歌ですから、譬えや比喩は、どこか、しっくりこないかもしれません。ありふれたことばなら、「エキゾチック」、また、今はあまり使いませんが「バター臭い」。
 それでも、恋人同士が互いに相手を想い、恋い慕う熱情が伝わってくるのです。

 私はシャロンのサフラン、
 谷のゆりの花。(2章1節)

 女性が自分をイスラエルの肥沃な平原シャロン(新実用聖書注解P924)に咲くサフランや、谷間のゆりの花にたとえています。
 女性の美しさが見えるような比喩ですね。読者が男性なら、胸が高鳴るのではないでしょうか。
 事実、彼女の恋人は答えるのです。

 わが愛する者が娘たちの間にいるのは、
 いばらの中のゆりの花のようだ。(2節)

★★★★★

 私の愛する方が
 若者たちの間におられるのは、
 林の木の中のリンゴの木のようです。
 私はその陰にすわりたいと切に望みました。
 その実は私の口に甘いのです。(3節)

 女性が「いばらの中のゆり」なら、男性は、女性の目に、「林の木の中のリンゴの木」のようと、たとえられています。そして女性は、その男性の横にすわりたいと、率直に訴えるのです。
 それは実現したのでしょうか。
 
 あの方は私を酒宴の席に伴われました。
 私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。(4節)
 干しぶどうの菓子で私を力づけ、
 りんごで私を元気づけて下さい。
 私は愛に病んでいるのです。(5節)

 じっさいに二人が、どこにいるのかはわかりません。酒宴の席は、寝室でしょうか。あるいは、恋の夢の中のことでしょうか。いずれにしても、「女性は、愛に病んでいる」――「恋の病」であると告白してます。
 恋の炎は、いったん燃え上がると、だれも止めることはできません。愛が渇望するのは強い一体感です。

 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、
 右の手が私を抱いて下さるとよいのに。(6節)

 今日、「抱いてください」という表現が、下品で卑猥なひびきを帯びてしまったのは、テレビなどで大勢の人々に向かって使われるからでしょう。
 けれども、ほんとうに愛する人たちの間だけで使われるなら、これは厳粛で美しいことばなのではないでしょうか。






posted by さとうまさこ at 10:43| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする