2016年05月22日

Coffee Break 雅歌5  わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。(雅歌2章7節〜15節)



 女性からの呼びかけに対して、男性が答えます。

 エルサレムの娘たち。
 私はかもしかや野の雌鹿をさして、
 あなたがたに誓っていただきます。
 掘り起こしたりかき立てたりしないでください。
 愛が目ざめたいと思うときまでは。(箴言2章7節)

 激しい恋を経験した人なら、だれでも自分の中で燃え上がる熱情をもてあます気持ちが理解できるのではないでしょうか。相手のことがいつも脳裏を去来し、「いても立っても」いられないのです。「掘り起こしたりかき立てたりしないでください」と言うのは、すでに「掘り起こされ、かき立てられている」ことへの反語ですね。

 女性も同じ気持ちです。

 愛する方の声。
 ご覧、あの方が来られます。
 山々をとび越え、丘々の上をはねて。
 私の愛する方は、
 かもしかや若い鹿のようです。

 若い時に、ある日突然恋をするというのは、考えてみたら不思議です。今日では、結婚している人もシルバー世代も恋をするのが当然のような風潮があります。けれども、若い時、思春期に、経験する「何故ともなく人を恋い慕う」衝動は、その時期かぎりのものではないでしょうか。誰に教えられるわけでもないのに、人は恋をするのです。
 どれほどたくさんの情報が流され、セックスや婚活についての詳しい案内を手にすることができても、恋を与えることはできません。

 ご覧、あの方は私たちの壁のうしろに、
 じっと立ち、窓からのぞき、
 格子越しにうかがっています。(9節)

 このような経験、感覚は、すでに恋のプログラムの中に埋め込まれているのです。
 人生のある時期、四六時中、相手のことが浮かんできて何も手に着かないというのは、それがすでに、埋め込まれた情動だからです。花が開き、香しい香りを漂わせると、そよ風が花粉を運び、蜂や蝶が花の蜜を吸いにやってくるように、神様は人には人を「恋い慕う」プログラムをあたえてくださったのではないでしょうか。
 
★★★★★

 私の愛する方は、
 私に語りかけて言われます。
 「わが愛する者、美しいひとよ。
 さあ、立って、出ておいで。(10節)
 ほら、冬は過ぎ去り、
 大雨も通り過ぎて行った。(11節)
 地には花が咲き乱れ、
 歌の季節がやってきた。
 山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。(12節)
 いちじくの木は実をならせ、
 ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。

 格子戸から覗いていた男性が、呼び掛けています。
 
 わが愛する者、美しいひとよ。
 さあ、立って、出ておいで。(13節)
 岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。
 私に顔を見せておくれ。
 あなたの声を聞かせておくれ。
 あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。(14節)
 『私たちのために、
 ぶどう畑を荒す、狐や子狐を捕えておくれ。』
 私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(15節)

 このように賛美されたとき、女性は抗(あらが)えるでしょうか。暴力的なはずかしめには、殺されても抵抗する娘も、愛する男性の心からの呼びかけには、出て行って、顔を見せて、声を聞かせたいと思うのです。それは、神様が、私たち人間に下さったプログラムだからではないでしょうか。






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2016年05月23日

Coffee Break 雅歌6  私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。わが愛する者、(雅歌2章18節〜18節)



 わが愛する者、美しいひとよ。
 さあ、立って、出ておいで。(雅歌2章13節)
 岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。
 私に顔を見せておくれ。
 あなたの声を聞かせておくれ。
 あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。(14節)
 『私たちのために、
 ぶどう畑を荒す、狐や子狐を捕えておくれ。』
 私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(15節) 

 この呼びかけを下品なほのめかしだと思う人はいないでしょう。恋という衝動に最上級の賛美の言葉を与える人間の性質を、昔の人は「あばたもえくぼ」と言いました。スタンダールは、恋が美しいイメージを結んでいく過程を「恋の結晶作用」と定義しています。
 仮に第三者から見て多少の勘違いがあっても、もともと美は説明の出来ない主観であり、恋はそれ以上に神秘的な主観です。

 好きになった相手のことを「美しく」飾っていくのが、恋であると思います。駆け引きもなく、うそ隠しもなく、「あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」と呼びかけることができる時、そこに本当の恋があるのではないでしょうか。しかし、そのホンモノは、人生のわずかな一時期だけに存在するのです。
 一つの花が開いて散っていくまでに、美しい日はほんのわずかです。人間には、高い知能がありますから、記憶を再生し、ふたたび同じ体験をしようとします。何らの理由のために逃した青春を取り戻そうとしたり、甘美だった青春の体験をふたたびと願ったり、本や情報から、美しい恋の体験を想うのは自由です。けれども、思春期のあの「恋」はもう戻ってこないのです。
 
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 女性が、男性の詩的な言葉に答えるのです。

 私の愛する方は私のもの。
 私はあの方のもの。
 あの方は百合の花の間で群れを飼っています。(16節)

 恋情は、独占を要求します。たがいに相手を自分だけのものと思うのです。これは、性がとても自由に語られる現代でも同じではないでしょうか。

 今日では、失恋の痛みや不倫の悲しみが語られるより、数多くの恋、多くの性的関係をエキサイティングなものとみなす情報がたくさん流れています。
 結婚式に、前に付き合っていた彼や彼女を招いて、「罪の意識」を覚えないのです。
 多くの性的関係は、性的魅力にすり替えられ、性的魅力は性的快楽にすり替えられ、快楽は何であれ、「善」であるような風潮があります。

 しかし、ほんとうにそうでしょうか。恋情は相手の独占を要求するのです。裏を返せば、痛みを伴わない関係はホンモノではなかったと言えるのではないでしょうか。
 人を傷つけなければよい。墓場まで(秘密として)もって行けばよい。と言う人もいます。結晶作用は、もともと幻想なのだから、ましてとても若い時の「ときめき」は、一生続けることはできないのだから、多くの人の心の中に「思い出の恋」が残っていることでしょう。
 とくに、今日のように親に養われる期間が長く、自立が遅い時代、「深い関係まで結んだのに結婚できなかった」から過ちとは言えないかもしれません。

 問題は、神様の目からご覧になって、どのような恋であったかではないでしょうか。
 少なくとも、実らなかった恋の数を誇るのは、何か違う、そんな気がするのです。

 私の愛する方よ。
 そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、
 あなたは帰って来て、(17節)
 険しい山々の上のかもしかや、
 若い鹿のようになってください。(18節)










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2016年05月24日

Coffee Break 雅歌7  私は、夜、床についても、私の愛する人を捜していました。(雅歌3章1節〜5節)



 私は、夜、床についても、
 私の愛する人を捜していました。
 私が捜してもあの方は見当たりませんでした。(雅歌3章1節)
 「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、
 私の愛する人を捜して来よう。「
 私が捜しても、
 あの方は見あたりませんでした。(2節)
 町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。
 「私の愛している人を、
 あなたがたはお見かけになりませんでしたか。」(3節)
 彼らのところを通り過ぎると間もなく。
 私の愛している人を私は見つけました。
 この方をしっかりつかまえて、放さず、
 とうとう私の母の家に、
 私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。(4節)

 エルサレムの娘たち。
 私は、かもしかや野の雌鹿をさして、
 あなたがたに誓っていただきます。
 掘り起こしたり、かき立てたりしないでください。
 愛が目ざめたいと思うときまでは。(5節)

 驚くのは、この相聞歌では、女性の熱情が男性を誘惑しているかのように見えることです。
 1章1節からのことば数を数えても圧倒的に女性が多いのです。これを、女性と男性のふたりの歌手に歌わせたら、観客は、リーディングキャラクター(主役)は女性だと思うことでしょう。
 たしかに、花が開いて美しく輝き、芳香を放ち、蜂や蝶を引き寄せる時、この交歓の主役は「花」です。
 男性は、たとえソロモン王といえども、もっとも強く訴えてくる熱情に引き寄せられるのかもしれません。
 箴言には、繰り返し、父親が息子に、女の誘惑に陥る愚かさを警告しています。(箴言2章16節、5章3節、8節、6章25節、7章10節、22章14節、29章3節) 
 裏返すと、男性を躓かせる誘惑がたくさんあったということでしょう。
 
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 聖書が雅歌を正典に組み入れているのは、性愛や恋情がまさに、神様から与えられたものだからでしょう。
アダムがひとりでいる時、神様は「人間がひとりでいるのはよくない」(創世記2章18節)と仰せになって、エバをお与えになったのです。
 しかしながら、エバがアダムのあばら骨から造られたというのは、女性にとっては、たしかにちょっと「気に触る」ことなのです。
 神様は、先に、女性を作って下さって、彼女のあばら骨から男性を造って下さっていてもよかったのではないか。かつて、フェミニズム運動がたけなわの時、聖書の天地創造の記述そのものに疑問が寄せられたのは事実です。なぜなら、たしかに長い間、男性主導の社会が続いていたのですし、多くの男性は「妻たちよ。夫に従いなさい」(新約聖書・エペソ人への手紙5章22節)の方を疑わず、妻を従わせ、「夫たちよ。自分を愛するように妻を愛しなさい」(エペソ人への手紙5章25節)に対しては、女性側が満足するほどには注意を払わなかったに違いないからです。

 確かに、「解放されてみると」女性たちの力量は目を見張るばかりです。今日では、男性だけの職業人だと言えるものなどないでしょう。
 宇宙飛行士から建設現場の作業員、プロレスラーからトライアスロンの選手まで筋肉自慢力自慢も男だけのものではなくなりました。科学者の世界にも医師の世界にも多くの優れた女性が活躍しています。
 しかし、女性に男性と同等の力量があることは、神のみわざをひっくり返すことになるでしょうか。

説明のつかないことは、たくさんあります。
 男ができないのは子どもを産むことだけかもしれませんが、女がひとりでも、子供を作ることは、できないのです。

 なにより、時期が来ると男も女も、「相手を恋い慕う」ようになることです。






posted by さとうまさこ at 10:54| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月25日

Coffee Break 雅歌8  恋人をほめたたえる(雅歌3章6節〜4章7節)



 没薬や乳香、
 貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、
 煙の柱のように荒野から上って来るひとはだれ。(雅歌3章6節)
 見なさい。あれはソロモンの乗るみこし。
 その回りには、イスラエルの勇士、
 六十人の勇士がいる。(7節)
 彼らはみな剣を帯びている練達の戦士たち。
 夜襲に備えて、おのおの腰に剣を帯びている。(8節)
 ソロモン王は、レバノンの木で、
 自分のためにみこしを作った。
 その支柱は銀、背は金、
 その座席は紫色の布で作った。(9節)
 その内側はエルサレムの娘たちによって
 美しく切りばめ細工がされている。(10節)
シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。
ご自分の婚礼の日、心の喜びの日のために、
母上からかぶらせてもらった冠をかぶっている。(11節)

 この箇所の語り手は、当事者の男性、女性以外の第三者と考えられます。

 3章4節で、二人は寝室に入ったはずです。二人が結ばれ合う時になって、まるで別の場面を指し示すような歌が歌われるのです。
 これは、ソロモン王の行列のようにも見えます。豪華な輿に乗り、美しいばかりか、腕の立つ剣士たち六十人に警護された高貴な人。この意味は注解書でもさまざまな解釈を紹介しているだけです。(新実用聖書注解・いのちのことば社p930)

 この詩が「ソロモンの雅歌」であることを考えれば、この愛の場面が、一般的な「恋物語」ではないことを、読者に知らせるために挿入されたのかもしれません。
 私の考えでは、恋情はすべての人の心に、あらかじめ埋め込まれたものですから、貴賎、上下、教養、職業などの差はなく、ある時期、人の心に芽生えて来るものです。王侯貴族でなければ、恋ができないとなると、人類はとっくに滅びているでしょう。
 
 ただ、第三者には、地位のある男性に見初められる女性は、格段に美しく祝福されているように見えたことでしょう。そのような状況を彷彿させるために、加えられた場面かも知れません。

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 ああ、わが愛する者。
 あなたはなんと美しいことよ。
 なんと美しいことよ。
 あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。
 あなたの髪は、ギルアデの山から下りて来る
 やぎの群れのよう、(雅歌4章1節)
 あなたの歯は、洗い場から上って来て
 毛を刈り取られる雌羊の群れのようだ。
 それはみな、ふたごを生み、
 ふたごを産まないものは一頭もいない。(2節)
 あなたのくちびるは、紅の糸。
 あなたの口は愛らしい。
 あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、
 ざくろの片割れのようだ。(3節)
 あなたの首は兵器庫のために建てられた
 ダビデのやぐらのようだ。
 その上には千の盾が掛けられていて、
 みな勇士の丸い小盾だ。(4節)
 あなたの二つの乳房は、
 ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、
 二頭の小鹿のようだ。(5節)
 そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、
 私は没薬の山、乳香の谷に行こう。(6節)
 わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、
 あなたには何の汚れもない。(7節)

 日本には「歯が浮くような」という比喩があります。見え透いたお世辞を揶揄する時に使います。ひと昔前までは、ラブレターというものは、「歯の浮くような言葉」を連ねると考えられていました。
 「苺のような唇」「天使のような瞳」「風にそよぐ緑の黒髪」などと、書き連ねて告白されると、どんな女性でも多少は心が揺さぶられるのです。しかし、当事者でない者が観察すると、多くは「歯の浮くような」気恥ずかしい言葉の羅列だったりするのです。

 とくに、日本の伝統では、容姿をことさら性愛の対象として、公けにする感覚はなかったと思います。伝統的な衣服のせいや儒教の影響もあるかもしれませんが、「あなたの二つの乳房は・・・」なんてことを書いた文章は、ポルノのような気がするのです。

 そんなわけで、雅歌の表現は、私たちにはいささか生々しく、まして、これを読むのが「主のしもべ」たちですから、はじめはたじろぐのではないでしょうか。





 

posted by さとうまさこ at 10:47| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月26日

Coffee Break 雅歌9   あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、(雅歌4章8節〜16節)



 花嫁よ。私といっしょにレバノンから、
 私といっしょにレバノンから来なさい。
 アマナの頂から、
 セニル、すなわちヘルモンの頂から、
 獅子のほら穴、ひょうの山から降りて来なさい。(雅歌4章8節)
 私の妹、花嫁よ。
 あなたは私の心を奪った。
 あなたのただ一度のまなざしと、
 あなたの首飾りのただ一つの宝石で、
 私の心を奪ってしまった。(9節)
 私の妹、花嫁よ。
 あなたの愛は、なんと麗しいことよ。
 あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、
 あなたの香油のかおりは、
 すべての香料にもまさっている。(10節)
 花嫁よ。あなたのくちびるは蜂蜜をしたたらせ、
 あなたの舌の裏には蜜と乳がある。
 あなたの着物のかおりは、
レバノンのかおりのようだ。(11節)
私の妹、花嫁は、
閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。(12節)
あなたの産みだすものは、
最上の実をみのらすざくろの園、
ヘンナ樹にナルド、
ナルド、サフラン、菖蒲、
肉桂に、乳香の取れるすべての木、
没薬、アロエに、香料の最上のものすべて、
庭の泉、湧水の井戸、
レバノンからの流れ。(15節)

北風よ。起きよ。南風よ。吹け。
私の庭に吹き、その香りを漂わせておくれ。
私の愛する方が庭に入り、
その最上の実を食べることができるように。(16節)

 修辞の上ではほとんど難しいところはなく、ただ、最上の賛辞が続いているのです。「歯が浮くような」喩えであっても、「あばたもえくぼ」であっても、それは、花婿の目には真実だということでしょう。愛というのは、最上の好意なのですから、どんなものでも、愛の光を当てられたら、美しく輝くのです。
妹という言葉が出てきますが、愛人を妹というのは、日本の万葉集などでも同じですね。同じ血を分けた肉親に対する情がオーバーラップされた表現です。

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 カメラの発明、テレビの出現、ネットの普及でビジュアルなものが容易に作ることができて拡散されていきます。これが、ある意味、「美しい」女性像を貧弱なものにしてしまったのではないでしょうか。
 私たちは「美女」「イケメン」などという言葉に、あるパターンの姿を思い浮かべるようになってしまいました。
 顔の肌は「磨き上げられたよう」に滑らかで、目鼻立ちは見本どおりくっきりとしていて、身長体重、シルエットにもある型があって、そのせいで、多くの人たちが型に入ってきたのです。美容整形や化粧や衣装は、すべてその方の方向に沿っています。

 神は今でも、「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Tサムエル記16章6節)と仰せになっていることでしょうが、やっぱり、「人に見てもらう」ほうが大切になってしまう。
 それがいけないのではないと思いますが、自分の言葉で、「桜の花のように」とか、「ひっそりたたずむタンポポのように」とか、男性(女性)が、自分の頭の中で想い人の美しさを組み立て直す「想像力」があるかどうかです。
 二人だけの特別な関係が開いていくためには、人は詩人にならなければならない、これはいつの時代でも、通じるのではないでしょうか。
 



 
 

posted by さとうまさこ at 10:52| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする