2016年05月09日

伝道者の書20 人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。(伝道者の書8章節〜17節)



 悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(伝道者の書8章11節)

 これは、自分にも覚えがあります。赤信号でも「車が来ていないのだから、さっさと渡ればいい」とか、通ってはいけない中央分離帯を横切って近道したりしても、すぐに交通事故に遭うわけではありません。違反チケットを切られるわけでもありません。最近は絶対やらないのですが、それは運動神経に自信がなくなったからという理由の方が勝っています。

 人の目はごまかせても、神様をごまかすことはできません。聖書には、神様は私たちのすべてをごらんになっている。私たちは、かならず悪い行いを刈り取る日があると、書かれています。

 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ人への手紙6章7節)

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 罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。(12節)
 悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。(13節)
 しかし、むなしいことが地上で行なわれている。悪者の行ないに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行ないに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい。(14節)
 私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。(15節)

 伝道者の心は惑っています。悪者にはふさわしい刈り取りがあると信じながらも、それがすぐに見えないので、心は堂々巡りをしているのです。
 その結果、「楽しむほかない」と結論を出すのです。

 快楽のすべてが悪いことだとは言えないと思います。人には快いことを求める本能があり、おいしい食べ物、おいしい水、すてきな恋愛関係、性的満足などに従ってしまう性質ゆえに、自分だけでなく子孫を繋いで生きのびているとも言えます。
 ソロモンのような恵まれた境遇の人なら、欲しいだけの快楽におぼれることもできたでしょう。

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 しかし、人間には、生物的な快楽以上の喜びを求める本能があります。「神様から承認されたい」という欲求です。
 
 私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行なわれる人の仕事を見ようとしたとき、(16節)

 伝道者は惑いながらも、やはり知恵(神からの知恵)を求めているのです。その結果、次のように結論を出すのです。

 すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。(17節)






posted by さとうまさこ at 09:41| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする