2016年05月10日

伝道者の書21 生きている犬は死んだ獅子にまさる。(伝道者の書9章1節〜10節)



 というのは、私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめたからである。彼らの前にあるすべてのものが愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない。(伝道者の書9章1節)
 すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。(2節)

 このような論の展開は、神を信じない人の共感も得られる箇所です。結局、みんな死んでしまう。どんな生き方を選ぼうと、最後は全員、死んでしまうと思うからです。
 ある人が私に言いました。「(キリスト教を)を信じたら死なない?」。
 これは、今ある世だけを見ている人にとっては、伝道の言葉への強力な一撃なのです。「死なないと保証してくれるなら信じてもよい」と言いたいのです。しかし、「死者の復活」や「永遠のいのち」を信じない人に、「死なない」と言ってもわからないのです。

 同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行なわれるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。(3節)

 ソロモンは、知識と知恵に満ちていた王ですが、それでも「永遠のいのち」は、信じていなかったのでしょうか。死んだらすべてが終わるという結論は、あまりにも平凡です。創世記を含めたモーセ五書を読んでいなかったのでしょうか。

 私たちの中に悪が満ちているのは、「死んだら同じ」と思っているからだとソロモンは言っているようです。神を信じない人の中には、それは合理的な考え方であるようです。「どうせ死んじまうんだ。だったら生きているうちに楽しもう」なんて考えは、今でもよく聞きます。

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 すべて生きている者に連なっている者には希望がある。生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。(4節)
 生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。(5節)

 ソロモンが、これほど即物的なのは、彼が豊かであったからかもしれません。彼はある意味で全世界を手に入れ、彼が欲しいと思うすべてを所有することができました。目に美しいもの、耳に楽しいこと、柔らかい絹の着物や五感をふるわせる香油、ありとあらゆる快楽、知的快楽から肉的快楽までが取り揃えられていました。それは、生きていてこそ得られる報いでした。
 ソロモンは二十年をかけて、神殿と自分の家を建てました。(U歴代誌8章1節)
 それは、かつてどのイスラエル人も経験したことがないような大事業でした。ソロモンの栄誉はこの上もないものでした。
 ソロモンは、神の前では、へりくだって祈りました。「神はこのようなところにお入れすることはできません。」と。(T列王記8章27節)

 彼は、神が人びとを祝福して下さることを知っていました。父ダビデが成し遂げられなかった献堂を果たした自分に対する大きな祝福も味わいました。
 それでも、永遠のいのちには、気が付かなかったのかもしれません。

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 彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行なわれるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。(6節)
  さあ、喜んであなたのパンを食べ、
  愉快にあなたのぶどう酒を飲め。
  神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる。(7節)
  いつもあなたは白い着物を着、
  頭には油を絶やしてはならない。(8節)
 日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。(9節)
 あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。(10節)

 ソロモンが亡くなってから、イスラエルが南北に分裂し、多くの預言者が現れました。救い主についての預言が繰り返されるようになりました。







posted by さとうまさこ at 10:52| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする