2016年05月19日

Coffee Break 雅歌2 私を引き寄せて下さい。私たちはあなたのあとから急いでまいります。(雅歌1章4節〜11節)



 私を引き寄せて下さい。
 私たちはあなたのあとから急いでまいります。
 王は私を奥の間に連れていかれました。
 私たちはあなたによって楽しみ喜び、
 あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、
 まごころからあなたを愛しています(雅歌1章4節) 

 エルサレムの娘たち。
 私はケダルの天幕のように、
 ソロモンの幕のように、
 黒いけれども美しい。(5節)
 私をご覧にならないでください。
 私は日に焼けて、黒いのです。
 私の母の子らが私に向かっていきりたち、
 私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は
 見張りませんでした。(6節)
 私の愛する人、どうか教えて下さい。
 どこで羊を飼い、
 昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。
 あなたの仲間の群れのかたわらで、
 私はなぜ、
 顔おおいを付けた女のようにしていなければ
 ならないのでしょう。(7節)

 出来る事なら、「雅歌」は終わりまで一気に読んでみる方が良いのではないでしょうか。それほど長い文書でもありません。
 本来、歌や詩は、絵画のようにトータルに全貌を見てこそメッセージが伝わるものです。おそらく作者は、瞬間に燃え上がった激しい炎を見て取って、言葉にしたに違いないのです。じっさいには、何日も推敲したとしても、一瞬に火のつく恋心の「不思議」を書かないではいられなかったのです。
 
 ★★★★★

 雅歌を終わりまで読んでみて、私自身、雅歌は恋歌・愛の歌だと考えます。

 たしかに、そのまま読んでエロティックな絵が描けそうな、下手な画家にかかったら、また意地悪なアーティストの手になれば下品なほのめかしになるかもしれない「性的象徴」がたくさん出てきます。

 愛の歌が下品であるなどと、どこにも決まりはありません。愛が神さまから禁止された行いであるはずがないのは、聖書読者ならだれでも知っています。セックスも同様です。セックスは、男女の愛の究極の形であるのは事実です。神様は、「人がひとりでいるのは良くない」と仰せになってアダムにエバをお与えになったのです。
 神様から与えらたゆえに、「男はその父と母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世記2章24節)とのみことばを、私たちは実行してきたのです。

 たとえば、「人はその妻エバを知った。」(創世記4章1節)は、英語TEVバージョンでは、intercourse(性交する)と訳されています。創世記16章4節でアブラハムがハガルのところへ「入った」という日本語も、intercourse が使われています。確かに、「性交する」という言葉には、何の色もついていません。それに色を付けるのは、読む人たちの気持ちです。

 愛も同様です。そこにどのような意味を込めるのかは、私たち自身なのでしょう。
 神ご自身が、「たがいに愛し合いなさい」と命じておられるのです。
 もちろん、私たちは神の愛の対象として造られたのです。

 さて、雅歌の続きです。
 
 女の中でも最も美しい人よ。
 あなたがこれを知らないのなら、
 羊の群れの足跡について行き、
 羊飼いの住まいのかたわらで、
 あなたの子やぎを飼いなさい。(8節)

 わが愛する者よ。私はあなたを
 パロの戦車の雌馬になぞらえよう。(9節)
 あなたの頬には飾り輪がつき、
 首には宝石をちりばめた
 首飾りがつけてあって、美しい。(10節)
 私たちは銀をちりばめた金の飾り輪を
 あなたのために作ろう。(11節)








posted by さとうまさこ at 10:50| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする