2016年05月20日

Coffee Break 雅歌3  王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。(雅歌1章12節〜15節)



 が、「良い」「悪い」の性質をもっているのはないと思います。愛は、生きる上でなくてはならないだけです。
 とは、言い換えれば自分以外の「存在」とのかかわりです。誰かと誰かが関わるときには、濃淡があっても「愛」を伴なうのです。生まれた時に母親を失くした赤ん坊が育つためには、誰かが保育しなければなりません。保育や授乳にはどんなに義務的であっても「愛の行為」が含まれています。「空気や水や食物は生存に必要だが、愛はがなくても生きていける」と言う人がいます。しかし、それはは嘘ですね。

 「水や食物」と「愛」との違いは、愛は、相互作用だということです。食物は、食べる側が「求めている」だけですが、愛は「与える側」と「与えられる側」の双方が求めているもの。また、双方が「与え合っている」ものではないでしょうか。
 乳児の世話、それも他人の子どもの世話をするのを、義務や仕事と思う人はいるでしょう。お年寄りの世話や重い障害者の世話も同じです。手ばかりかかり、何一つ自分で出来ない相手であっても、そこに相手から返ってくる愛を感じ取ることが出来なければ、それは、無機質で義務的な「おつとめ」になってしまいます。
 多くの管につながれてやっと生命を維持しているような人であっても、体温があります。心臓が動いています。切れば赤い血が流れる存在です。命のあるものに触れているだけで、「暖かく」なって来る「装置」が、私たち人間には、先天的に組み込まれているのだと思います。

★★★★★ 

 王がうたげの座に着いておられる間、
 私のナルドはかおりを放ちました。(雅歌1章12節)
 私の愛する方は、私にとっては、
 この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。(13節)
 私の愛する方は、私にとっては、
 エン・ゲディのぶどう畑にある
 ヘンナ樹の花ぶさのようです。(14節)

 この箇所は、文脈的には、1章4節「王は私を奥の間に連れていかれました」を受けているのでしょう。王を恋い慕う乙女、もとより王が愛した女性が王との関係をいよいよ深めていく場面です。情熱をそそる道具立ての中で、同時にくつろいだ愛の空間をみることができます。それは、次に性的な行為が予定されている場面です。あるいは、すでに、それは始まっているのかもしれません。
 いずれにしても、ソロモン王のような華麗な境遇にあった人の、愛の儀式は、今の時代とはまるで異なるでしょう。
 二人は、ことばを尽くして愛を確かめあうのです。
 
 女性が「私を引き寄せて下さい」(4節a)と言えば、「女の中でもっとも美しい人たち」(8節a)と男性が答えます。
 12節では、女性は、はっきりと男性を誘惑しています。
「私のナルドは香りを放ちました。」(12節b)
「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです」(13節)
 この場面が、激しくエロチックであるのは事実でしょう。しかし、下品でしょうか。
 テレビのバラエティ番組などで、「谷間」などという言葉を使って、ことさら、笑いの種にするとき、エロチックは、下品なものとなってしまいます。

 しかし、愛――求めあう気持――の発露だけを歌っているこの歌は下品ではありません。
 おそらく、テレビでゲラゲラ笑って「谷間」を冗談にする人の脳裏には、「愛の対象」がないのでしょうね。
 雅歌を、どのように見るかは、愛をどのように見るかに掛かっているのではないでしょうか。






posted by さとうまさこ at 10:58| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする