2016年05月23日

Coffee Break 雅歌6  私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。わが愛する者、(雅歌2章18節〜18節)



 わが愛する者、美しいひとよ。
 さあ、立って、出ておいで。(雅歌2章13節)
 岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。
 私に顔を見せておくれ。
 あなたの声を聞かせておくれ。
 あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。(14節)
 『私たちのために、
 ぶどう畑を荒す、狐や子狐を捕えておくれ。』
 私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(15節) 

 この呼びかけを下品なほのめかしだと思う人はいないでしょう。恋という衝動に最上級の賛美の言葉を与える人間の性質を、昔の人は「あばたもえくぼ」と言いました。スタンダールは、恋が美しいイメージを結んでいく過程を「恋の結晶作用」と定義しています。
 仮に第三者から見て多少の勘違いがあっても、もともと美は説明の出来ない主観であり、恋はそれ以上に神秘的な主観です。

 好きになった相手のことを「美しく」飾っていくのが、恋であると思います。駆け引きもなく、うそ隠しもなく、「あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」と呼びかけることができる時、そこに本当の恋があるのではないでしょうか。しかし、そのホンモノは、人生のわずかな一時期だけに存在するのです。
 一つの花が開いて散っていくまでに、美しい日はほんのわずかです。人間には、高い知能がありますから、記憶を再生し、ふたたび同じ体験をしようとします。何らの理由のために逃した青春を取り戻そうとしたり、甘美だった青春の体験をふたたびと願ったり、本や情報から、美しい恋の体験を想うのは自由です。けれども、思春期のあの「恋」はもう戻ってこないのです。
 
★★★★★

 女性が、男性の詩的な言葉に答えるのです。

 私の愛する方は私のもの。
 私はあの方のもの。
 あの方は百合の花の間で群れを飼っています。(16節)

 恋情は、独占を要求します。たがいに相手を自分だけのものと思うのです。これは、性がとても自由に語られる現代でも同じではないでしょうか。

 今日では、失恋の痛みや不倫の悲しみが語られるより、数多くの恋、多くの性的関係をエキサイティングなものとみなす情報がたくさん流れています。
 結婚式に、前に付き合っていた彼や彼女を招いて、「罪の意識」を覚えないのです。
 多くの性的関係は、性的魅力にすり替えられ、性的魅力は性的快楽にすり替えられ、快楽は何であれ、「善」であるような風潮があります。

 しかし、ほんとうにそうでしょうか。恋情は相手の独占を要求するのです。裏を返せば、痛みを伴わない関係はホンモノではなかったと言えるのではないでしょうか。
 人を傷つけなければよい。墓場まで(秘密として)もって行けばよい。と言う人もいます。結晶作用は、もともと幻想なのだから、ましてとても若い時の「ときめき」は、一生続けることはできないのだから、多くの人の心の中に「思い出の恋」が残っていることでしょう。
 とくに、今日のように親に養われる期間が長く、自立が遅い時代、「深い関係まで結んだのに結婚できなかった」から過ちとは言えないかもしれません。

 問題は、神様の目からご覧になって、どのような恋であったかではないでしょうか。
 少なくとも、実らなかった恋の数を誇るのは、何か違う、そんな気がするのです。

 私の愛する方よ。
 そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、
 あなたは帰って来て、(17節)
 険しい山々の上のかもしかや、
 若い鹿のようになってください。(18節)










posted by さとうまさこ at 10:23| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする