2016年05月24日

Coffee Break 雅歌7  私は、夜、床についても、私の愛する人を捜していました。(雅歌3章1節〜5節)



 私は、夜、床についても、
 私の愛する人を捜していました。
 私が捜してもあの方は見当たりませんでした。(雅歌3章1節)
 「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、
 私の愛する人を捜して来よう。「
 私が捜しても、
 あの方は見あたりませんでした。(2節)
 町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。
 「私の愛している人を、
 あなたがたはお見かけになりませんでしたか。」(3節)
 彼らのところを通り過ぎると間もなく。
 私の愛している人を私は見つけました。
 この方をしっかりつかまえて、放さず、
 とうとう私の母の家に、
 私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。(4節)

 エルサレムの娘たち。
 私は、かもしかや野の雌鹿をさして、
 あなたがたに誓っていただきます。
 掘り起こしたり、かき立てたりしないでください。
 愛が目ざめたいと思うときまでは。(5節)

 驚くのは、この相聞歌では、女性の熱情が男性を誘惑しているかのように見えることです。
 1章1節からのことば数を数えても圧倒的に女性が多いのです。これを、女性と男性のふたりの歌手に歌わせたら、観客は、リーディングキャラクター(主役)は女性だと思うことでしょう。
 たしかに、花が開いて美しく輝き、芳香を放ち、蜂や蝶を引き寄せる時、この交歓の主役は「花」です。
 男性は、たとえソロモン王といえども、もっとも強く訴えてくる熱情に引き寄せられるのかもしれません。
 箴言には、繰り返し、父親が息子に、女の誘惑に陥る愚かさを警告しています。(箴言2章16節、5章3節、8節、6章25節、7章10節、22章14節、29章3節) 
 裏返すと、男性を躓かせる誘惑がたくさんあったということでしょう。
 
★★★★★

 聖書が雅歌を正典に組み入れているのは、性愛や恋情がまさに、神様から与えられたものだからでしょう。
アダムがひとりでいる時、神様は「人間がひとりでいるのはよくない」(創世記2章18節)と仰せになって、エバをお与えになったのです。
 しかしながら、エバがアダムのあばら骨から造られたというのは、女性にとっては、たしかにちょっと「気に触る」ことなのです。
 神様は、先に、女性を作って下さって、彼女のあばら骨から男性を造って下さっていてもよかったのではないか。かつて、フェミニズム運動がたけなわの時、聖書の天地創造の記述そのものに疑問が寄せられたのは事実です。なぜなら、たしかに長い間、男性主導の社会が続いていたのですし、多くの男性は「妻たちよ。夫に従いなさい」(新約聖書・エペソ人への手紙5章22節)の方を疑わず、妻を従わせ、「夫たちよ。自分を愛するように妻を愛しなさい」(エペソ人への手紙5章25節)に対しては、女性側が満足するほどには注意を払わなかったに違いないからです。

 確かに、「解放されてみると」女性たちの力量は目を見張るばかりです。今日では、男性だけの職業人だと言えるものなどないでしょう。
 宇宙飛行士から建設現場の作業員、プロレスラーからトライアスロンの選手まで筋肉自慢力自慢も男だけのものではなくなりました。科学者の世界にも医師の世界にも多くの優れた女性が活躍しています。
 しかし、女性に男性と同等の力量があることは、神のみわざをひっくり返すことになるでしょうか。

説明のつかないことは、たくさんあります。
 男ができないのは子どもを産むことだけかもしれませんが、女がひとりでも、子供を作ることは、できないのです。

 なにより、時期が来ると男も女も、「相手を恋い慕う」ようになることです。






posted by さとうまさこ at 10:54| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする