2016年05月27日

Coffee Break 雅歌10 私が愛に病んでいる、と言ってください。(雅歌5章1節〜8節)



 私の妹、花嫁よ。
 私は、私の庭に入り、
 没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ
 ぶどう酒と乳を飲む。

 友よ。食べよ。
 飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。(雅歌5章1節)

「キリスト教の中心は愛である」と言われています。天地万物とそこにあるすべては、神様の愛の対象として造られたのは、聖書の前提です。また、救い主イエスが十字架に架って死なれたこと、まさに私たちを救うために罪の代価となってくださったのも、キリスト者ならだれでも諒解していることです。そのようなイエスの贖いに対して、神様は、すべてを元に戻して下さる――とのしるしを見せて下さったのです。それが、キリストの復活です。じっさい、復活は、じつに神様の愛の実現です。

 でも、この愛は、とても崇高です。それで、キリスト教について学び始めると、アガペー、フィレオ、エロスなどと愛の種類を分けて示されることがあります。これは、平等ではなくて、当然順位があって、アガペーが一番貴いようです。
 人は、キリストのように「他人の罪の身代わりに死ぬ」ことはなかなかできません。仮にできたとしても、それで、相手を真っ白にして復活させることは不可能です。だからこそ、神でなければできないみわざを感謝して受け取ることができますし、そのような力ある神を恐れ讃美するのだと思います。

 だからと言って、人間的な愛であるフィレオやエロスが価値のないものであるはずがありません。
エロスも本来神が与えて下さったものであって、人がある年齢になったら、異性を恋い慕うのはごく当然です。

 エロスはとても人間的なものですから、雅歌の熱情的な表現にはだれもが、たじたじするかもしれません。
恋歌やロマンス小説の恋のわざの描写に触発されて、赤面したり体が熱くなったりする人がいても、それは仕方がないことです。

 情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイの福音書5章28節)

 このみ言葉が念頭にあるキリスト者ですが、「雅歌」を正視して読むように、与えられているのです。

★★★★★

 恋人の呼びかけの後は、またしても、花嫁の応答です。

 私は眠っていましたが、心はさめていました。
 戸を叩いている愛する方の声。
 「わが妹、わが愛する者よ。
 戸をあけておくれ。
 私の鳩よ。汚れのないものよ。
 私の頭は露にぬれ、
 髪の毛も夜のしずくでぬれている。(2節)
 私は着物を脱いでしまった。
 どうしてまた、着られましょう。
 足も洗ってしまった。どうしてまた汚せましょう。(3節)
 私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。
 私の心はあの方のために立ち騒ぎました。(4節)
 私は起きて私の愛する方のために戸を開けました。
 私の手から没薬が、私の指から没薬の駅が、
 かんぬきの取っ手の上にしたたりました。
 私が、愛する方のために戸を開けました。
 愛する方は、背を向けて去って行きました。
 あの方のことばで、私は気を失いました。
 私が捜しても、
 あの方は見当たりませんでした。
 私が呼んでも、答えはありませんでした。(6節)
 町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。
 彼らは私を打ち、傷つけました。
 城壁を守る者たちも、
 私の被り物をはぎ取りました。(7節)
 エルサレムの娘たち,誓って下さい。
 あなたがたが私の愛する方を見つけたら、
 あの方に何と言ってくださるでしょう。
 私が愛に病んでいる、と言ってください。(8節)

 こうして見ると、愛に病んでいる、つまり、「恋の病」は、肯定されるべきものですね。
 私たちは本来、「病むほど」に恋い慕った人と結ばれるべきなのでしょう。
 しかし、それはもちろん、「相思相愛」でなければなりません。
 相手が、熱情により自然に心を開くまで、根気強く訴えかける愛でなければならないと思います。

 返答のない女性に付きまとって、あげくの果てに「殺す」ストーカー事件は、もとより、神が与えてくださったエロスとは無縁のものではないでしょうか。






posted by さとうまさこ at 11:52| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする