2016年06月01日

Coffee Break 雅歌15 自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来る人はだれでしょう。(雅歌6章11節〜8章5節) 



 ああ、慰めに満ちた愛よ。
 あなたはなんと美しく、快いことよ。(雅歌7章6節)
 あなたの背たけはなつめやしの木のよう、
 あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。(7節)
 私は言った。
 「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。
 あなたの乳房はぶどうのふさのように、
 あなたの息はりんごのかおりのようであれ。(8節)
 あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。
 私の愛に対して、なめらかに流れる。
 眠っている者のくちびるを流れる。」(9節)

 雅歌7章は冒頭から9節まで、男性のことばです。昨日も少し触れましたが、男性が女性を見ていて、その美しさを「視覚的」な言葉で賛美しているのです。それは、どんな名画にも及ばないほど刺激的です。愛の行為というものを想起させられる詩になっています。

 男性が、このように女性の肉体を「見る性」であることはどうやら確実なようです。
 今日でも、あらゆる女性が化粧やファッションに心を砕き、「外見」を演出しようとするのは、それを男性が評価するからでしょう。また、女性が若返りやしわ取り美容整形にお金を払うのも、やはり彼女の値打ちが、外見で測られると思うからではないでしょうか。
 若い女性のグラビア本は、同じ男性の同種の本よりはるかに多いに違いありません。
 けれども、外見を見る男に「恋や愛」つまり、相手を思う心がないのであれば、それは、ほんとうの意味でエロスでもセクシーでもないのではないでしょうか。

 本来、神様は、私たち男女を「愛し合う」性として造って下さったのです。愛し合うきっかけとして、「恋」があり、愛し合う「ご褒美として」性の喜びがある、雅歌は、そう教えてくれているように思います。

 雅歌の花婿のことばが赤面するほどまぶしく、美しいのは、神の御心にかなった愛のプロセスだからだと思われます。

 私は、私の愛する方のもの。
 あの方は私を恋い慕う。(10節)
 さあ、私の愛する方よ。野に出て言って、
 ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。(11節)
 私たちは朝早くからぶどう畑に行き、
 ぶどうの木が芽を出したか、
 花が咲いたか、
 ざくろの花が咲いたかどうかを見て、
 そこで私の愛をあなたにささげましょう。(12節)
 恋なすびは、かおりを放ち、
 私たちの門のそばには、
 新しいのも、古いのも、
 すべて、最上の物があります。
 私の愛する方よ。
 これはあなたのためにたくわえたものです。(13節)

 ★★★★★

 ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った
 私の兄弟のようであったなら、
 私が外であなたに出あい、
 あなたに口づけしても、
 だれも私をさげすまないでしょうに。(雅歌8章1節)

 8章1節からは、ふたたび、花嫁のことばです。花嫁は、人の目を気にしています。愛の場面で、人の目を気にする女性の性質も古今東西変わらないもののようです。

 私はあなたを導き、
 私を育てた私の母の家にお連れして、
 香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁を
 あなたに飲ませてあげましょう。(2節)
 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、
 右の手が私を抱いて下さるとよいのに。(3節)
 エルサレムの娘たち。
 私はあなたに誓っていただきます。
 掘り起こしたり、かき立てたりしないでください。
 愛が目ざめたいと思うときまでは。(4節)

 女性は男性の肉体について何一つ描写していませんが、それがまた、女性の愛の激しさを感じさせます。
次のイメージは、美しいですね。二人の男女が荒野を歩いている、女性が男性に寄りかかっている・・・。じっさいには、二人は荒野にいるのではないでしょうが、まるで周りに何もないかのようにお互い寄り添っている姿に、ため息が出ます。

 自分の愛する者に寄りかかって、
 荒野から上って来る人はだれでしょう。

 私はりんごの木の下で
 あなたの目をさまさせた。
 そこはあなたの母があなたのために
 産みの苦しみをした所。(5節)


    聖書は新改訳聖書を使わせていただいています。





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2016年06月02日

Coffee Break 雅歌16 愛は死のように強く(雅歌8章6節) 



 私を封印のようにあなたの心臓の上に、
 封印のようにあなたの腕に付けてください。(雅歌8章6節a)

〈封印〉は円筒状のものや指輪状のもので、自分の所有物であることを示すために土器などに押す、印象のようなものであった。それはよくひもを通して首から下げられた。(新実用聖書注解・いのちのことば社P937)

 つまり、封印というのは、ハンコのように大切なもので、同時にアクセサリーのように身につけられていた物でした。
 女性は、男性に、封印のように大切に思われ、同時につねに男性のそばにいたいと、言うのです。切実でわかりやすいたとえですね。

★★★★★

 愛は死のように強く、
 ねたみはよみのように激しいからです。
 その炎は火の炎、すさまじい炎です。(6節)

 モーパッサンは、「死よりも強し」というタイトルの小説を書いています。高校時代の読書感想文のためにこれを読んだのですが、じつは、とても難しかった記憶だけがあります。また、訳者の後書きに、「死よりも強し」は、聖書から取られた言葉だと書いていたように記憶しています。しかし、それが、雅歌のこの箇所なのかどうかわかりません。
 今から振り返ってわかるのは、高校生は恋愛御法度だったような時代の女子には、恋愛の本質なんかわかるわけもなかったことです。

 この言葉のあとの2行と併せ読むと、愛は、ねたみと背中合わせなのです。それもただのねたみではありません。よみに下るほどの妬み、つまり、死をも恐れないものなのです。
 「その炎は火の炎、すさまじい炎」です。これに照らし合わせると、「はたして、こんにちの世の中に、ほんとうの愛などあるのか」と、ならないでしょうか。

 ネットやPCの普及で、個人的な出会いは数限りなくあるような気がします。
 昔は別世界に住んでいた役者や遊女(売春婦)が、テレビやネットを通して、すぐ隣にいるような錯覚を与えられます。テレビの中で投げキスをしたタレントを見て、自分にキスをしてくれたのだと感じさせる、それは「仕掛け」に過ぎないのですが、このような仕掛けが基準になって、実際に隣にいる女子や男子を見ると、「死よりも強し」と叫びたいほどに、恋い焦がれるのは難しいかもしれません。

 ときおり、ストーカー事件があって、不幸にも「愛する」女性を殺す人がいます。
 けれども、彼が「殺す」のは相手だけであり、自分ではありません。恋がそもそも自分の身を焦がすほどの「現実」でない証拠でしょう。

 小さな贈り物で気を引くような恋は、恋ではないと、雅歌は教えてくれます。
 まさに、全財産を掛ける〈封印〉と引き換えにできる時だけがほんものの愛。でも、そう言われると確かに、困ってしまうのも事実ですが。








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2016年06月03日

Coffee Break 雅歌17 愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。(雅歌8章6節〜10節)



 愛は死のように強く、
 ねたみはよみのように激しいからです。
 その炎は火の炎、すさまじい炎です。(雅歌8章6節)

 8章6節については、ねたみも重要なキーワードです。妬みと言えば、神ご自身の自己紹介、「わたしはねたむ神」(出エジプト記20章5節)を思い出して下さい。これは、熱情の神とも訳されることばです。
 何ごとをも、スマートに運びたいのが人間です。とくに、今日では、どんな問題でもきれいに解決できるといった錯覚があります。恋愛も、実らない愛にいつまでもこだわって身を滅ぼすなんて、ばかげていると思われるのです。じょうずに立ち回り、なるべく傷つかず、傷つけず、ちょっと刺激的だった体験に収めなければなりません。恋愛からあらゆる「傷」を取り去ろうとするなら、激しいねたみはあってはならないものです。

 でも、神様でさえ、「ねたむほど」愛して下さるのです。神様のように深く人を愛せないとしても、ねたみを取り除いて愛するのは、そもそも不可能だと知らなければなりません。
妬みを覚えるほどの情熱的な愛こそ、ホンモノの愛なのですから。

★★★★★

 大水もその愛を消すことはできません。
 洪水も押し流すことができません。
 もし、人が愛を得ようとして、
 自分の財産をことごとく与えても、
 ただのさげすみしか得られません。(7節)

 大水や洪水のような激しい力にたとえられる愛、そのようなものが、ホンモノの愛である根拠は、ひとえに、神にあるのでしょう。

 そして愛を下さるのが神さまであるなら、たしかに、財産と引き換えなどにできるわけもないのです。どんなにすごい財産でも、愛の大きさには匹敵しないからです。

★★★★★


 私たちの妹は若く、乳房もない。
 私たちの妹に縁談のある日には、
 彼女のために何をして上げよう。(8節)
 もし彼女が城壁だったら、
 その上に銀の胸壁を建てよう。
 彼女が戸であったら、
 杉の板で囲もう。(9節)

 「私たちの妹」とは、花嫁の付き添いに来た花嫁の妹です。まだ、少女といえる女性なのでしょう。若い処女は、花婿を始め、男性たちの気を揉ませます。いわゆる、「へんな虫」がつかないよう、だれもが彼女を守ろうと思うのです。

 しかし、それは杞憂というものかもしれません。彼女は、自分にやぐらを築いて周囲に平和を与えているからです。

 私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。
 それで、私はあの方の目には
 平安をもたらす者のようになりました。(10節)







 

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2016年06月04日

Coffee Break 雅歌18 私の愛する方よ。急いでください。(雅歌8章11節〜14節)



 熱情的な相聞歌は、終わりに近づきました。

 ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があった。
 彼はぶどう畑を、守るものに任せ、
 おのおのその収穫によって
 銀千枚を納めることになっていた。(雅歌8章11節)
 私が持っているぶどう畑が私の前にある。
 ソロモンよ。あなたは銀千枚、
 その実を守る者には銀二百枚。(12節)

 ソロモンのぶどう畑と「私の」ぶどう畑が、比べるように並んでいるのは何を意味しているのか、「思わせぶり」です。註解書の解説もよくわからない、などといったら顰蹙(ひんしゅく)でしょうか。額面通り財産の比較などではなさそうです。甘いぶどう酒のもととなるぶどう畑、それを男女の甘い情念にたとえるのは自然なことかなと思います。
 ソロモンの広大なぶどう畑のそれぞれの管理人とは、ソロモンのたくさんの妃やそばめを象徴しているのでしょうか。

 多くの妻がいるような男性との結婚は、今日の私たちには考えられないことですが、もちろん、聖書の神の認めておられるところではありません。
 しかし、初めは、アダムとエバで一対であった男女比は、罪の世界ではバランスが崩れ、さらに人の性質のため、富の偏在のため、結婚制度も神の御心から離れてしまっていたのは、事実です。イスラエルだけの事ではなく、古今東西、世界の多くの国々で、権力や富のある人が複数の女性を独り占めする制度がまかり通っていました。

 「死のように強い愛」や、「よみのように激しいねたみ」は、それが、一夫多妻のなかでどのように折り合いをつけられていたのか、想像するしかありません。
 少なくとも、純粋に花婿を想う処女の花嫁と、すでに多くの女性を手元においている花婿では,温度差があったはずだと、21世紀を生きる私は思うのです。

 伝道者の書のつぎの言葉が思い出されます。

 わが子よ。多くの本を作ることには限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。(伝道者の書12章12節)

★★★★★

 雅歌は男性と女性の対話で結びとなっています。

 庭の中に住む仲間たちは、
 あなたの声に耳を傾けている。
 私にそれを聞かせよ。(13節)

 男性は、「いまだ、知らない」女性の声を聞きたいと所望します。

 私の愛する方よ。急いでください。
 香料の山々の上のかもしかや、
 若い鹿のようになってください。(14節)

 女性は、はや男性を寝室に誘っているかのようです。

 明日は、雅歌全体を見回して、私の感想を書きたいと思っています。


 

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2016年06月07日

Coffee Break 雅歌19 雅歌を読み解く上で@



 詩篇、知恵文学に分類されている文書・「ヨブ記」「詩篇」「箴言」「伝道者の書」「雅歌」のうち、ヨブ記、詩篇を除く三書は、ソロモンの著作だと推測されています。いずれも確定的ではなさそうです。聖書は古文書で、とくに旧約聖書は二五〇〇年以上昔のものなので、研究するにもいろいろな困難があることが推定できます。

 しかし、聖書読者としては、ある程度、「ざっくりと」著者や年代を念頭においておく方が読みやすいのです。その意味で、研究者でも教師でも牧師でもないさとうは、一応ソロモンの著作に入れて読み進めてきました。

 さらに、謹厳なことわざ集である「箴言」、箴言より主観的体験を強くにじませている「伝道者の書」、愛の歌に特化した「雅歌」を耽読したあとでは、この三書がソロモンの書であるというのは、じつに納得できると思うのです。
 ソロモンと言えば、なんといっても、知恵の人です。列王記には、彼が神に「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えて下さい」と願ったと記されています。(T列王記3章8節)
 また、むずかしい訴え(二人の遊女の訴え)を見事に解決したこと(同16節〜28節)
彼があらゆる知識に富み、三千の箴言や千五百首の歌を残したこと、(同4章29節〜34節)シェバの女王が彼の評判を聞きつけて訪問してきてその知識と事績(宮殿やその秩序)の素晴らしさに感嘆したことが記録されています。(同10章1節〜13節)
 さらに、イスラエルの歴史において空前絶後の繁栄を築いたソロモンは、莫大な富と多くの女性を手にしました。

 箴言も伝道者の書も雅歌も、実際に、ソロモンのようなゴージャスな生き方をした人でなければ生み出すことはできなかったと納得させられるのです。あるいは、雅歌に関しては、ソロモンが書いたというより、ソロモンのささげられたという見方もあります。また、当時の祝婚歌だったとの説もあります。
 どのような来歴がある文書か、が問題でしょうか。むしろ、これが結局、聖書におさめられたことを見なければならないでしょう。

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 新実用聖書注解(いのちのことば社)によれば、雅歌について、六つの解釈が紹介されています。
 @比喩的解釈、A劇詩的解釈、B祭儀的解釈、C詩歌的解釈、D予型論的釈、E)純愛的解釈、

 それぞれの定義については、注解書を見ていただけるといいのですが、大きく二つに分けられていると考えられます。
 ひとつは、霊的解釈(信仰的解釈、@BD)で、もう一つは文学的解釈(ACE)です。
 霊的解釈は、神と人間との関係に基づいて解釈するので、聖書にふさわしい文書になります。一方、文学的解釈は、どうしても人間の営みに焦点が結ばれます。とくに、雅歌の場合、恋愛、それも性的関係にまで言及していると読めます。

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 性そのものは、神が与えて下さったもので、いわば人間の創造と不可分です。神はご自分がお造りになった被造物が、カップルになって支え合い、助け合うこと。性的交わりによって被造物のコピーを造っていくように意図されたのではないでしょうか。
 ただ、性の問題は、とても微妙です。

 すでに、言われ尽くしたことですが、性的関係と結婚とは同じことでもあり、まるで別のものでもあるのです。結婚は、なんといっても社会的に承認された関係です。たとえ、二人だけでひっそりと結婚したとしても、大勢の異性から相手を選び、互いに独占し合うのだという「諒解」があるはずです。
 一方、性的関係は、男女の交わりを指すだけです。結婚は性的関係をふくみますが、性的関係は結婚関係でなくても行えます。しかも、性的関係は当事者二人以外には、わからない「体験」です。一般的には、快楽だと言われています。人が姦淫をしたり、心にみだらな思いを抱いて女を見るのは(マタイの福音書5章27節28節)、性が肉体的な快楽と結びついているからでしょう。

 多くの恋愛歌が――どれほど婉曲な表現が使われていても、性的喜びに向かって歌い上げられているのは事実です。
 雅歌は、祝婚歌であるとしても、それゆえ、とうぜんその歌詞は二人の男女の秘め事にまで、及んでいます。
 どうして、このような歌がここに挟まれたのかは、私にはわかりませんが、この秘め事をあくまで神(キリスト)との関係になぞらえるのははたして、正しいのでしょうか。






posted by さとうまさこ at 11:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする