2016年06月14日

Coffee Breakエレミヤ書2、エレミヤの召命とその時代(エレミヤ書1章4節〜10節)



 エレミヤは、BC627年に、ヨシヤ王治世下のユダ王国で、預言者として召されました。そのころまだ20歳前だったようですから、そこから生年を推測できます。
 ヨシヤ王は、信仰の中興を行なって国中から偶像を追放した正しい王として知られています。しかし、すでに、北王国イスラエルがアッシリヤに攻められて崩壊し(BC722年)、BC612年には、アッシリヤの首都ニネベが陥落しています。

 中東を席巻していた大帝国が弱体化した後、勃興してきた新バビロニヤと拡大を狙うエジプトの間で、弱小国ユダはあらしの海にもまれる小舟のように不安定になってしまいます。
 ヨシヤ王の子、エホアハズ、エホヤキム、ゼデキヤと王が替るにつれて、国は坂道を転げ落ちるように、崩壊に向かいます。大国の間で心迷い、占いや託宣、偶像崇拝で活路を見出そうとする者たちが大ぜい現れ、国の方向を誤まらせます。そのような中で、エレミヤは、神の召命を受けるのです。
 エレミヤは、ヨシヤ王から、ゼデキヤまでの苦難の時代を生き、エジプトに引かれて行って死んだと言われています。
 生涯をかけて、逆風の中で、神のことばを預言した彼は「涙の預言者」とも呼ばれています。
 
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 次のような主のことばが私にあった。(エレミヤ書1章4節)
「わたしはあなたを胎内に形造る前から、
あなたを知り、
あなたが腹から出る前から、あなたと聖別し、
あなたを国々への預言者と定めていた。」(5節)

 神が人を召命される場面は、どれも厳粛ですね。
 今、この場面を読む者も、思わず姿勢を正します。

そこで、わたしは言った。
 「ああ、神、主よ。
 ご覧の通り、私はまだ若くて、
 どう語っていいかわかりません。」(6節)
すると、主は私に仰せられた。
 「まだ若い、と言うな。
 わたしがあなたを遣わすどんなところへでも行き、
 わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。(7節)
 彼らの顔を恐れるな。
 わたしはあなたとともにいて、
 あなたを救い出すからだ。
    ――主の御告げ――」(8節)
そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。
 「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。(9節)
 見よ。わたしはきょう、
 あなたを諸国の民と王国の上に任命し、
 あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、
 あるいは滅ぼし、あるいはこわし、
 あるいは建て、また植えさせる」(10節)

 エレミヤは、この召命に驚きしり込みしています。とても若かったからです。
 召命の場面を、明日、引き続いて見てみたいと思います








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2016年06月15日

Coffee Breakエレミヤ書3、今、わたしのことばをあなたの口に授けた。( (エレミヤ書1章4節〜10節)

 

 次のような主のことばが私にあった。(エレミヤ書1章4節)
 「わたしはあなたを胎内に形造る前から、
 あなたを知り、
 あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、
 あなたを国々への預言者と定めていた。」(5節)

 私たちキリスト者は、神様が私たちを「母の胎内で、組み立てられた」ことを「知って」います。その時から,「神様が胎児の私を見て下さっていた」のも、「知って」います。(詩篇139篇13節〜19節) その時「神様の書物にすべてが書き記され」たというのですから、今の自分の在りようは、じつは、その始まりから定められていたのかもしれません。

 だからといって神様はすべての人に声をお聞かせになって、ある方向に行くようにお命じになることの方が稀ではないでしょうか。
 神はもとより、私たちに多くの自由意志を担保して下さっているのです。選択の余地がとてもたくさんあるように見えるので、人はおうおうにして、「めいめいが自分目に正しいと見えることを」(士師記21章25節)してしまうのです。

 選ばれて神様が声を聞かせられる預言者は、光栄ですが、同時に、非常に厳しい道に置かれるのです。
 モーセも、イスラエルの民をエジプトから導き出すように、神から命じられた時には、激しく尻込みしました。しかし、主がすでに定められている役割を拒絶することはできませんでした。
 神の国の働き人として、モーセのような大きな仕事をすることは、ある意味で神を信じる者すべての憧憬かもしれなせんが、その道がどれほど険しかったかは、出エジプト記に記されているとおりです。サムエルエリヤ、エリシャ、イザヤなど、大預言者の人生は、いずれも、強い大きな仕事で神に仕えていてすばらしいのですが、並の人間には、耐えがたいと思える場面の連続です。

 エレミヤが、とつぜん召命を受けた時に、驚きしり込みしたのは当然です。

 そこで、わたしは言った。
  「ああ、神、主よ。
  ご覧の通り、私はまだ若くて、
  どう語っていいかわかりません。」(6節)
 すると、主は私に仰せられた。
  「まだ若い、と言うな。
  わたしがあなたを遣わすどんなところへでも行き、
  わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。(7節)

 エレミヤは、決して謙遜なふりをしたのではないでしょう。彼は祭司の家の出身です。祭司は世襲制ですが、それでも神に仕える厳しさは、身に染みていたでしょう。預言者と祭司を兼ねる人もいましたが、預言者は神が突然に召されるのですから、いわばフリーランスで働かなければなりません。自由気ままな仕事のいみではなくて、定まった俸給も当てにできないのです。
 厳しく儀式化された祭司の仕事とは違い、神からのことばを受けて、宣べ伝えるのです。
 そのことばは、むしろ世の中に対する警告の場合がほとんどです。相手が王や権力者の場合も、ひるまず伝えなければなりません。

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  彼らの顔を恐れるな。
  わたしはあなたとともにいて、
  あなたを救い出すからだ。
     ――主の御告げ――」(8節)

 言論の自由が保障されていて、みんなが自由に発言しているように見える現代でさえ、顔を出して堂々と、ある主張を発言するのは、容易なことでないのは、テレビなどで有名人や政治家の発言を見ていてもわかります。
 大勢に迎合するならとにかく、大きな流れに警告するのは、至難です。
 そこで、主は、「主の御告げ」と念を押しておられます。

 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。
  「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。(9節)
  見よ。わたしはきょう、
  あなたを諸国の民と王国の上に任命し、
  あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、
  あるいは滅ぼし、あるいはこわし、
  あるいは建て、また植えさせる」(10節)

 神は御手を伸ばしてエレミヤの口に触れられたのです。
 諸国の民と王国の上に、「神の預言者」として任命されたエレミヤは、受けるしかありませんでした。








posted by さとうまさこ at 10:55| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月16日

Coffee Breakエレミヤ書4、。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」(エレミヤ書1章11節〜16節)



 次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」(エレミヤ書1章11節)
 すると主は私に仰せられた。「良く見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」(12節)


 この箇所は、翻訳のままではわかりにくいのです。原語ヘブル語に戻って解説して下さっているサイトを参考に、説明したいと思います。
 アーモンドは、原語で「シャーケード」、見張っているは、「シャーカド」。つまりここは、掛詞(かけことば)になっているわけです。神のことばを絵画的な表現方法で印象深く覚えやすく記しているということでしょうか。
 神様はなかなかユーモアのある方ですね。
 さらに詳しい解説は、以下のサイトをご覧ください。いつも参考にさせていただいている銘形牧師のHPです。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%A4%E3%81%AE%E5%8F%AC%E5%91%BD%282%29

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 再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った、「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」(13節)
 すると、主は私に仰せられた。
 「わざわいが北からこの地の全住民の上に、降りかかる。(14節)

 この時、すでに北王国イスラエルは、アッシリヤによって滅ぼされていました。しばしば偶像礼拝を持ち込んできたこの兄弟国は、ユダ王国に害ももたらしましたが、まだしも、防波堤の役割をしていたと思います。 北東の強大なアッシリヤが衰退しても、そのあとに勃興してきたバビロニヤ帝国は、直接ユダ王国の脅威になりました。バビロニヤに対してエジプトも対抗しようとしており、小国ユダはこのような大国に挟まれて騒然としていたのです。
 エレミヤが、煮え立っているかまを見たのは、預言者として当然だったと思われます。そのかまは、北にあって、ユダのほうに傾いているのです。
 熱湯があふれて、ユダ王国のうえに降りかかる光景が、具体的に描かれています。

 それを裏付けるように、主は、恐ろしい託宣を告げます。

 今、わたしは北のすべての王国の民に
 呼びかけているからだ。
 ――主の御告げ――
 彼らは来て、
 エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁と、
 ユダのすべての町に向かって、
 それぞれの王座を設ける。(15節)

 これは恐ろしい光景です。北のすべての国々(バビロンに従う国々)がやって来て、ユダを侵略し、占領してしまうのです。
 しかも、そうするように、北の国々に命じておられるのは、主ご自身なのです。主がお許しになっているのです。
 このような状況をどう考えればいいのでしょう。神は理由も告げられます。

 しかし、わたしは、
 彼らのすべての悪にさばきを下す
 彼らはわたしを捨てて、
 ほかの神々にいけにえをささげ、
 自分の手で造った物を拝んだからだ。(16節)







posted by さとうまさこ at 10:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月17日

Coffee Breakエレミヤ書5、「わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出す。」(エレミヤ書1章117節〜19節)



 さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、
 わたしがあなたに命じることをみな語れ。
 彼らの顔におびえるな、
 さもないと、
 わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。(エレミヤ書1章17節)

 「腰に帯を締める」は、外出準備、戦いのための身支度を表した言葉でしょう。日本の戦国時代の侍なら「かぶとの緒を締めること」「鉢巻を締め直すこと」、現代のビジネスマンなら「ネクタイを締め直す」ことでしょうか。
 ユダの人々は、神様からさばきが下されようとしているのです。彼らが、他の神々に走っているからです。このままでは、ユダ王国は、外国に侵略、占領されてしまうから、神様は、エレミヤを召して、民に警告する預言者として活動せよと仰せなのです。
 神様がエレミヤの口に授けることば(1章9節)をみな語れと命じておられるのです。
 
 たしかに神様からことばを授けられて、それを語ることができるのは、神の民にとって誉れです。イスラエルは神様の選びの民で、イスラエルでは神様が最高権威のある方なのです。
 イスラエルの民だけではありません。私たちキリスト者でも、神様のことばを語りたいと願っているのです。牧師の説教の前に、「あなたのことばを語らせて下さい」などと祈るのはそのためです。牧師が、神様のことばを正しく「取り次ぐ」ことができるように、長老などが「かげの祈り」を行なっている教会もあります。牧師や伝道師、長老などになんらの権威があるとしたら、それはその立場に「神の油注ぎ」を認めるからです。

 神のことばを語るのだから、みんな平身低頭で喜んで聞いてくれそうに思います。ところが、神は仰せなのです。「彼らの顔におびえるな」。もしひるむようなことがあったら、神様が、エレミヤを打ち砕くと言われるのです。
 大勢の人の前で正しいことを主張して笑われたり、非難されたら、だれだってひるむでしょう。そんな時は出来るなら、神様が、そのような「群衆」の上に石つぶてでも降らせて下さったら納得、と、私たちは思いたいのです。

 ところが、やじられてオタオタしてしまう預言者(ここではエレミヤ)のほうを神は打ち砕くと仰せなのです。何という容赦のなさでしょう。

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 もっとも、神様は厳しいだけの方ではありません。どしゃぶりの中に、傘一つもたずに出て行けと言われているのではないのです。

 見よ。わたしはきょう、あなたを、
 全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、
 この国の人たちに対して、
 城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。(18節)

 このフル装備は、町々の事ではありません。エレミヤをこの鉄壁の町のようにして下さるというのです。誰かが、石を投げても、弓で射ようとしても、刃で打ちかかって来ても、「城壁のある町、鉄の柱」のある町なら、容易に打ち取れないでしょう。
 
 だから、彼らがあなたと戦っても、
 あなたには勝てない。(19節a)


 さらに心強いのは、つぎの言葉です。

 わたしがあなたとともにいて、
 ――主の御告げ――
 あなたを救い出すからだ。」(19節b)

 「わたしがあなたとともにいて」と、神様がおっしゃって下さる時、じっさい、恐れるものなど、この世にあるでしょうか。
 この言葉は、創世記から聖書に何度も出てきます。

 神様が共にいてくださって、いざとなったら救い出して下さる、これは、今日の私たちにとっても信仰の大きな希望です。







posted by さとうまさこ at 11:47| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月18日

Coffee Breakエレミヤ書6、イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。 (エレミヤ書2章1節〜4節)



 ついで、私に次のような主のことばがあった。(エレミヤ書2章1節)
「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。

 召命のつぎは、具体的なミッションの命令です。主は、言うべき言葉を授けて下さるのですが、それを、「エルサレムの人々に聞かせよ。」と仰せなのです。預言は人々に伝えらえなければ何もなりません。
 その「伝えるべきことば」は次の通りです。

  わたしは、あなたの若かったころの誠実、
  婚約時代の愛、
  荒野の種も蒔かれていない地での
  わたしへの従順を覚えている。(2節)

 イスラエルの民と神さまの関係は、しばしば夫婦関係に譬えられています。これは、私たち人類全体が、神のお造りになった子どもであると譬えられるので、ときに、理解しがたいところです。神は私たちの「生みの親」なのですから、父なる神なのですが、神はもとより、性をお持ちでないのですから神様を指す「父」と、生物的な父親は、当然違うものです。

 多くの人類の中から、神はイスラエルを選びだされて契約を交わしてくださいました。そのときの神とイスラエルの関係は、結婚契約を模したものと考えられています。
 
 婚約時代の愛とは、神がアブラハムを召されて以来の「神とイスラエル」との関係をさしています。神はアブラハムと契約を結ばれ、イサク、ヤコブとも契約を結ばれました。以来、天地を創造された神は、イスラエル民族にとって、アブラハム神、イサクの神、ヤコブの神となり、イスラエルの民は自分達の神を「」と呼ぶようになったと思われます

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 アブラハムとその子孫達が神の「選びの民」となるいきさつは、聖書(創世記)では、淡々と書かれています。(創世記12章〜)けれども、「神の救いのご計画」を思うとき、それは、簡単な選定ではなかったと推測できるのです。
 何故、主は、ハランで一族と平和に暮らしているアブラハムに声をお掛けになって、「父の地を」をはなれ、未知の地であるカナンに行くよう命じられたのでしょうか。

   イスラエルは主の聖なるもの、
  その収穫の初穂であった。
  これを食らう者はだれでも罪に定められ、
  わざわいをこうむったものだ。
  ――主の御告げ――   (3節)

  ヤコブの家と、
  イスラエルの家のすべてのやからよ。
  主のことばを聞け。(4節)

  明日は、主がいかに、深い配慮でヤコブの家を建てられたかを見てみたいと思います。





posted by さとうまさこ at 10:44| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする