2016年06月19日

Coffee Breakエレミヤ書7、救いのご計画の切り札・初穂「イスラエル」(エレミヤ書2章3節〜5節)



  イスラエルは主の聖なるもの、
  その収穫の初穂であった。
  これを食らう者はだれでも罪に定められ、
  わざわいをこうむったものだ。
  ――主の御告げ――   (3節)

 聖書を読むとき、とりわけ旧約聖書を読むとき、日本人として難解で、少なからず抵抗を感じる箇所がたくさんあります。それは、イスラエルが主役のように思える記述です。

 聖書は、神様が主役です。聖書の主役は神であるということを強く意識していないと、聖書を読みながら、聖書のジャングルに迷い込んでしまうと思います。最初は、万物をお造りになった神が主役だと、だれもが思っているのです。しかし、神が人をお造りになって、人と神との間に相克が生まれ、楽園から追放された人が、どんどん「人として歩み」神から離れていくときから、読む私たちの気持ちは、複雑になって行かないでしょうか。
 自分が「人」であるので、いつの間にか「人の側に立って」、聖書の展開を読んでいるのです。
 弟殺しのカインが、神に泣きついて罪を減じられ「追放処分」になるところで、すでに、私など引っかかってしまうのです。

 人が増え広がって、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になって、それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。(創世記6章5節6節)
 と聞くと、何となく釈然としなくなるのです。親に対して潜在的に甘えがある私たちは、万が一、親が「この子を産んだことを後悔する」とでも言おうものなら、絶対に許さないという気持になるでしょう。それと同じレベルで受け取るなら、次の箇所は、ショックを超えています。

 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで、わたしはこれらを造ったことを残念に思うからだ。」(同7節)

 神様は、大洪水を起こし、地上のすべてのものを流し去り、いわば、地上をリセットされるわけです。例外は、「正しい人ノア」とその家族、彼らのために残された多くの動物達のペアだけでした。神は、ノアの箱舟を造ってその中に避難させられるのです。これは、クリスチャンならだれでも知っている物語で、しかも、美しい物語として、子供の絵本のも作られているのです。
 そうはいっても、この大洪水の物語にも、何か抵抗を覚える私たちです。

 当然なのです。私たちは、現在、「人間中心の世界」に住んでおり、私たちの価値観では人間が主役です。じっさいは、だれの心も、どうしようもなくエゴイズムに支配されているのに、「人ひとりのいのちは地球より重い」といった標語が、「世の法則」であるかのようにまかり通っているのです。「ノアの洪水」の話を聞いて、一人(とその家族)を助けて、残り九十九人を滅ぼすとは何事か、と言い出すのです。
 
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 ふたたび地上に人が増え始めました。「正しい人ノア」の子孫からも、すぐに罪の性質が現れましたが、神はそれを見過ごされたと思います。何と言っても、箱舟から出て来たノアに神は仰せになったのです。

「あなたがたは生めよ。ふえよ。
 地に群がり、地にふえよ。」(創世記9章7節)
と仰せになったのです。さらに、その時神ご自身がノアと契約を立てて誓って下さったのです。
 「すべての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。」(同9章11節)

 人は、「天に届く塔を建て、名を上げよう。」と言い出して、「バベルの塔」を造り始めたのですが、そのとき神様が取られた対処法は、「彼らのことばを混乱させ」「彼らを地の全面に散らされることでした。」(同10章7節)

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 バベルの塔をくずされて、ある日、アブラハムに声を掛けて召し出されるまで、神の「救いのご計画」がどのように進んでいたのか、人間にはわかりませんが、救いのご計画が新たな一歩を踏み出したのは事実です。
 アブラハムの孫ヤコブがイスラエルの直接の始祖になり、その後の聖書のストーリーはすべてこのイスラエルにシフトされているからです。
 神は、この家に、それは大きな期待をもち、愛と手間をお掛けになって育成されてこられたのです。
 「神の選びの民イスラエル」の選び、ところが、遠く東洋の国の私にも、はじめはこれが納得できないことでした。

  ヤコブの家と、
  イスラエルの家のすべてのやからよ。
  主のことばを聞け。(4節)

 主はこう仰せられる。
  「あなたがたの先祖は、
  わたしにどんな不正を見つけて、
  わたしから遠く離れ、
  むなしいものに従って行って、
  むなしいものとなったのか。(エレミヤ書2章5節)







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2016年06月20日

 Coffee Breakエレミヤ書8、救いのご計画の三段階



 私は、このエッセイをスタートさせた初めの頃に、神様の「救いのご計画」は二段階あると考えてみました。
 最初が「箱舟方式」で、次が「救いの民方式」です。私のこの見方は、今も変わっていません。聖書が、私たち人類への神様のラブレターだとしたら――この考え方は、牧師や伝道者の文章にもけっこう散見するのです。――、それがイスラエル民族へのラブレターになったのは、少なくとも、アブラハムの召命以降です。

 アブラハムを召命された理由は、じっさいのところ読者である私たちには、わからないのです。ノアが「正しい人」とはっきり定義されているのとは対照的です。ノアの場合、「洪水を起こすから、箱舟を造ってその中に避難しなさい」と、その目的も明示されているのです。
 一方、アブラハムは、「あなたの父の家を出て、わたしの示す地に行きなさい」(創世記12章1節)と、ハランを出てカナンに行くように、いわば「あてどない旅」を促されているのです。彼が導かれるまま出て来た土地カナンには「先住民」がいました。

 そこで主がアブラハムに仰せになったのは、「この地ですぐに放牧をして暮らしなさい」と言うような、「現物支給」ではありません。「わたしはあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。(創世記12章2節)」「あなたの子孫にこの地を与える」と言う「お約束」です。しかし、「アブラハムは自分に現れて下さった主のために祭壇を築いた(同7節)」のです。神の声を聞くことができたアブラハムは、目の前の土地がいま自分のものではない、神様のお答えは、まだ先にあると認めたうえで、神様を礼拝し、先に進んでいくのです。

 アブラハムは、妻と甥のロトを連れてカナンを放浪します。飢饉になり、エジプトにも行きます。いつも正しい選択ができるのではなく、エジプトでは、妻を妹と偽ってパロの怒りを買います。けれども、そのようなアブラハムの弱さや過ちに神様は「富」を与えて下さるのです。豊かになり、ロトと牧草を争うようになると、アブラハムは、「良い地を」を先にロトに取らせます。ロトは栄えていたソドムの地を取り、結果的に、滅びの地ソドムから逃げ、妻を失います。

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 アブラハムの祝福と繁栄は、人間の目から見ると「結果的」なものです。彼自身の成功願望やその道筋を示す記述はありません。彼の希望は、神から示された土地で安定した遊牧生活をすることだったかもしれませんが、実際に記されているのは、アブラハムの信仰――神との交わり――だけだったように見えます。そこで、読者は神がアブラハムを召された理由を知ることになるのです。

 ヤコブは、ヤコブの望んだわけではない形での結婚から、結果的に十二人の息子が与えられます。また、神様からイスラエルという名前をいただきます。(創世記32章28節)、彼らがエジプトに入り、後にそこから導き出され、シナイで神と契約を結ぶ・・・。(出エジプト記20章〜)このように、ごくしぜんに、聖書の物語は、イスラエル民族にフォーカスされていくのです。

 たしかにイスラエルの歩みは困難を極めていると思いますが、同時に、神はこのイスラエルだけを愛して、特別に肩入れしておられるのも事実です。たとえば、出エジプト時における十の奇蹟です。また、マナやウズラなどの食料,民が渇いたときに与えられる水。カナン攻めの時のヨルダン川での奇蹟、じっさいのカナンの七部族と戦いにおける神の後押しなど、これは、神の「依怙贔屓」と言われても仕方がないほど、神はヨシュアを導いて、カナンを取らせるのです。
 これは、イスラエルから見ると「誇らしい」歴史的事実かも知れないけれど、イスラエル以外の国から見ると、とくに、二十一世紀の今見ると「神の不公平な采配」に見えるかもしれません。ところが、読み進めていくと、聖書はまったく異なった内容の物語であると気づかされてしまいます。

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 イスラエルは神の救いのご計画の2幕目の主人公です。それは、やがて、3幕目「救い主の到来」によって明らかになります。
 神ご自身の別の形(第二格)でもあられるイエス・キリストとメッセージは、すでに、全人類に向けられています。神ご自身の選びの民が、神ご自身を十字架に付けることになる「救いの完成」は、ある意味、イスラエルの民の役割の大きさ重さを示しています。このパラドックスは、すばらしい祝福であると同時に、苦い祝福ではないでしょうか。
  
 ハランからカナンに出て来たアブラハムに神は仰せになりました。

 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。(創世記12章3節)

 いま、この大きな祝福に、一番驚いているのは、天国の(このような通俗的な表現をおゆるしください)アブラハムではないでしょうか。
 



 

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2016年06月21日

Coffee Breakエレミヤ書9、彼らは尋ねもしなかった。主はどこにおられるのか。 (エレミヤ書2章6節〜9節)


 
 エレミヤは、神の民イスラエルの「軌道からの脱線」が慢性化して、滅びが目前に迫っている時代に、神から召命を受けたのです。
 国全体が神に叛いている時ですから、その預言はとうぜん、社会の潮流に警告するものです。

  彼らは尋ねもしなかった。
  『主はどこにおられるのか。
  私たちをエジプトの国から上らせた方、
  私たちに荒野の荒れた穴だらけの地、
  砂漠の死の陰の地、
  人も通らず、だれもすまない地を
  行かせた方は』と。(エレミヤ書2章6節)

 神の民にとって一番深刻な躓きは、神を忘れるということです。イスラエルの神は、観念的な神ではなく、かつてエジプトの奴隷であったイスラエルを「奴隷の境涯」から救い出して下さった方です。イスラエルが「砂漠の死の影の地、人も通らず、だれもすまない地を」行くことができたのは、神様がつねにいっしょにいて、助け導いて下さったからです。
 
  しかし、わたしはあなたがたを、
  実り豊かな地に連れて入り、
  その良い実を食べさせた。
  ところが、あなたがたは、入って来て、
  わたしの国をけがし、
  わたしのゆずりの地を
  忌みきらうべきものとした。(7節)

 多大の犠牲を払って神がイスラエルに取らせた地カナンは、「乳と蜜が流れる地」でした。豊かな小麦畑と牧草と森林がある場所でした。(もちろん、日本人が考える「緑の野」とは、緑の量と質が違うと、筆者は考えますが) 収穫のための雨季(さきの雨、後の雨)と適切な乾期が交互に訪れる土地、奴隷ではなく、自立した民として神からの相続地をもっているのですから、つねに、自分たちの主により頼んで、熱心に生産に励めば、豊かな収穫の中で満ち足りた暮らしができるはずでした。

 主により頼むことは、絶対に必要でした。カナンの地は、多くの外国人が行き交う「文明の十字路」「通商路」「軍事路」でもありました。
 極東の平和な島国日本とは違って、外国人との付き合いは不可避でした。利益ももたらされたでしょうが、かすめ取られることもしょっちゅうあったことでしょう。しかも、滅ぼしたはずのカナンの七部族は、あちこちに住んでいました。

 このような困難が予想されていただけに、イスラエルの民は尋ねるべきでした。
「主はどこにおられるのか」と。

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 しかし、主が怒っておられるのは、一般の民以上に、神に仕える専門家――祭司、律法学者、牧者、預言者たちであると、明らかにされています。彼らは、神の国、神政政治国家イスラエルの指導者たちです。
 神に対しても民に対しても、格別な責任があるのです。

  祭司たちは、
  『主はどこにおられるのか』と言わず、
  律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、
  牧者たちもわたしにそむき、
  預言者たちはバアルによって預言して、
  無益なものに従って行った。(8節)

   そのため、わたしはなお、あなたがたと争う。
  ――主の御告げ――
  また、あなたがたの子孫と争う。(9節)


 キリストがお出でになってからの「救いのご計画」では、神の民も祭司も律法学者もいなくなったわけです。預言は預言者からではなく、聖書からくみ取るべきだと言われています。
 福音を知って神に救っていただいたことは、「召命」といいます。また、キリストを信じ救われたキリスト者には、「全世界に出て言って福音を宣べ伝えよ」と命じられています。

 「救いを受けた民――キリスト者」の住む場所は、かつてのカナンのイスラエル以上に、「文明、軍事の十字路」となっていて、偶像はあふれていて日々増殖しています。
 このような世界にいる私たちに、エレミヤの預言は、やはり自分の事として与えられていると思うのは、考えすぎでしょうか。
 
 

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2016年06月22日

Coffee Breakエレミヤ書10、あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことか。(エレミヤ書2章6節〜19節)




  キティムの島々に渡ってよく見よ。
  ケダルに人を遣わして調べてみよ。
  このようなことがあったかどうか、よく見よ。(エレミヤ書2章10節)
  かつて、神々を神々でないものに、
  取り換えた国民があっただろうか。
  ところが、わたしの民は、その栄光を、
  無益なものに取り換えた。(11節)

 〈キティムの島々〉・西キプロス島と地中海西方の島々、〈ケダル〉・東のアラビヤ地方で、この2つで東から西までの意。(新実用聖書注解・いのちのことば社p1019)

 イスラエルの神(全能の神)が、自分を偶像(力をもたない神々)に取り換えた話しなど、世界中でも前代未聞だと言っておられるのです。このことが、どれほど深刻なことか・・・。

  天よ。このことに色を失え。
  おぞ気立て、
  ――主の御告げ――(12節)
  わたしの民は二つの悪を行なった。
  湧き水の泉であるわたしを捨てて、
  多くの水ためを、
  水をためることのできない、こわれた水ためを、
  自分たちのために掘ったのだ。(13節)

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 イスラエルは、その始まりは一人の遊牧民アブラハムでした。その孫のヤコブの時代には、多くの子どもと財産をもつ族長になっていましたが、「国」をもつ王ではありませんでした。
 飢饉に際して、エジプトに逃れてそこに住みつくことになりましたが、ヤコブの11番目の息子ヨセフが数奇な巡り合いでエジプトに売られていて、その地で出世し、その地の宰相になっていたからです。この時移住したイスラエル一族はエジプトでは、名誉ある客人でした。
 しかし、移住後、エジプトの王朝が代るうちに、彼らの立場は奴隷となってしまったのです。奴隷を、いろいろに定義できるでしょうが、基本的には「自分の生存権、自分自身の決定権、自分の身の処し方の自由を、一切持っていない者」と、考えられます。ひとたび、奴隷になってしまえば「モノ」と同じです。そのからだは金銭に換算され、どのような仕事につくか、何を任せられるか、どの主人を仕えるかさえ、主人の裁量なのです。
 
 エジプトで、奴隷の境涯に堕ちたイスラエルは、生まれてくる子供のいのちさえ、パロに奪われるありさまでした。(出エジプト記1章1節〜22節)
 それ以上の苦しみは我慢できないと「叫んだとき」、神がその声をお聞きになって、モーセを召し出されたのです。それは、イスラエルを「奴隷の境涯から救い出す、ためです。(出エジプト記2章23節25節、同3章4節〜)
 エレミヤの時代のイスラエル人に、神が以下のように問いかけられるのは、当然なのです。

  イスラエルは奴隷なのか。
  それとも家に生まれたしもべなのか。
  なぜ、獲物にされたのか。(14節)
  若獅子は、これに向かってほえたきり、
  叫び声をあげて、その地を荒れ果てさせ、
  その町々は焼かれて住む者もいなくなる。(15節)

 〈若獅子〉、アッシリアの記章、〈ノフ〉カイロ付近にある下エジプトの都市。〈タフパヌヘス〉、ナイル川のデルタ東部の要塞都市。(新実用聖書注解)
 つまり、この頃、イスラエルはエジプトとアッシリヤに挟まれて苦しみ悶えていたのです。その理由が、以下の預言です。

  ノフとタフパヌヘスの子らも、
  あなたの頭の頂をそり上げる。(16節)
  あなたの神、主が、あなたを道に進ませたとき、
  あなたは主を捨てたので、
  このことがあなたに起るのではないか。(17節)
  今、ナイル川の水を飲みに
  エジプトの道に向かうとは、
  いったいどうしたことか。
  ユーフラテス川の水を飲みに
  アッシリヤの道に向かうとは、
  いったいどうしたことか。(18節)
  あなたの悪があなたを懲らし、
  あなたの背信があなたを責める。
  だから、知り、見きわめよ。
  あなたが、あなたの神、主を捨てて、
  わたしを恐れないのは、
  どんなに悪く、苦々しいことかを。
  ――万軍の神、主の御告げ――(19節)

 






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2016年06月23日

Coffee Breakエレミヤ書11、盗人が、見つけられたときに、はずかしめられるように、 イスラエルの家もはずかしめられる。 (エレミヤ書2章20節〜28節)



 実に、あなたは昔から自分のくびきを砕き、
 自分のなわめを断ち切って、
 『私は逃げ出さない。』と言いながら、
 すべての高い丘の上や、
 すべての青々とした木の下で、
 寝そべって淫行を行なっている。(エレミヤ書2章20節)

 イスラエルは、南のユダ王国、北のイスラエル王国ともに結局、神の怒りと罰を免れませんでした。王国の根を腐らせて崩壊に導いたのは、彼らが、自分たちを救い出して契約を与えて下さった彼らの主を「捨てて、ほかの神々に走った」からでした。「淫行を行なう」とまがまがしいたとえになっているのは、イスラエルが神と交わした契約は、結婚契約のように見なされていたからです。結婚したかぎり、たがいに貞節を守るのは当然のことです。契約の祖の初めに、主は、「わたしはねたむ神」(出エジプト記20章5節)と仰せです。夫が妻の姦淫を妬むのは当然です。いや、愛し合う中では、嫉妬は当たり前のことです。

 ひとたび、傷つけられた夫(妻)は、割り切って離婚すればよいという風潮が、最近の結婚観の中にはあります。嫉妬や独占欲は、マイナス思考と見なす人さえいます。
 しかし、割り切れるような関係は、そもそも深いところで結ばれていないのでしょう。

 まして、神様は、花嫁自身をもお造りになったのですから、まだ、虫に食われていない悪に染まっていない純白の布のような花嫁と契約されたのですから、彼女が自ら身を汚すした姿など、見るに堪えなかったことでしょう。
 
 わたしは、あなたをことごとく
 純良種の良いぶどうとして植えたのに、
 どうしてあなたは、わたしにとって、
 質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。(21節)
 たとい、あなたがソーダで身を洗い、
 たくさんの灰汁を使っても、
 あなたの咎は、わたしの前では汚れている。
 ――神である主の御告げ――(22節)

 しかも、この花嫁は、自分の過ちを認めて悔い改め、赦しを請うのではありません。

 どうしてあなたは、『私は汚れていない。
 バアルたちには従わなかった。』と言えようか。
 谷の中でのあなたの道を省み、
 何をしたかを知れ。
 あなたは、道をあちこち走り回る
 すばやい雌のらくだ、(23節)
 また、荒野に慣れた野ろばだ。
 欲情に息はあえぐ。
 そのさかりのとき、だれがこれを静めえようか。
 これを捜す者は苦労しない。
 その発情期に、これを見つけることができる。(24節)

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 はだしにならないよう、
 のどが渇かないようにせよ。
 しかし、あなたは言う。
 『あきらめられません。私は他国の男たちが好きです。
 それについて行きたいのです。』と。(25節) 

 きちんと悔改めないのですから、同じ過ちを繰り返します。そうして、けっきょくは開き直るのです。

 盗人が、見つけられたときに、
 はずかしめられるように、
 イスラエルの家もはずかしめられる。
 彼らの王たち、首長たち、
 祭司たち、預言者たちがそうである。(26節) 

 主が怒っておられるのは、たんに弱い一人のイスラエルのことではありません。イスラエルを主と契約を結んだ国家として、愛を注いでこられたのです。
 その国家には、民を正しく導く責任がある王、首長、祭司、預言者がいたのです。この制度は二重三重の垣根に等しいものです。誰かが、間違っても誰かが正せばいいのです。
 しかし、そのような神の配慮も機能しなくなっていたのです。

 彼らは木に向かっては、『あなたは私の父。』、
 石に向かっては、『あなたは私を生んだ。』と
 言っている。
 実に、彼らはわたしに背を向けて、
 顔を向けなかった。
 それなのに、わざわいのときには、
 『立って、私たちを救ってください。』と言う。(27節)
 では、あなたが造った神々はどこにいるのか。
 あなたのわざわいのときには、
 彼らが立って救えばよい。
 ユダよ。あなたの神々は、
 あなたの町の数ほどもいるからだ。(28節)









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