2016年06月03日

Coffee Break 雅歌17 愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。(雅歌8章6節〜10節)



 愛は死のように強く、
 ねたみはよみのように激しいからです。
 その炎は火の炎、すさまじい炎です。(雅歌8章6節)

 8章6節については、ねたみも重要なキーワードです。妬みと言えば、神ご自身の自己紹介、「わたしはねたむ神」(出エジプト記20章5節)を思い出して下さい。これは、熱情の神とも訳されることばです。
 何ごとをも、スマートに運びたいのが人間です。とくに、今日では、どんな問題でもきれいに解決できるといった錯覚があります。恋愛も、実らない愛にいつまでもこだわって身を滅ぼすなんて、ばかげていると思われるのです。じょうずに立ち回り、なるべく傷つかず、傷つけず、ちょっと刺激的だった体験に収めなければなりません。恋愛からあらゆる「傷」を取り去ろうとするなら、激しいねたみはあってはならないものです。

 でも、神様でさえ、「ねたむほど」愛して下さるのです。神様のように深く人を愛せないとしても、ねたみを取り除いて愛するのは、そもそも不可能だと知らなければなりません。
妬みを覚えるほどの情熱的な愛こそ、ホンモノの愛なのですから。

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 大水もその愛を消すことはできません。
 洪水も押し流すことができません。
 もし、人が愛を得ようとして、
 自分の財産をことごとく与えても、
 ただのさげすみしか得られません。(7節)

 大水や洪水のような激しい力にたとえられる愛、そのようなものが、ホンモノの愛である根拠は、ひとえに、神にあるのでしょう。

 そして愛を下さるのが神さまであるなら、たしかに、財産と引き換えなどにできるわけもないのです。どんなにすごい財産でも、愛の大きさには匹敵しないからです。

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 私たちの妹は若く、乳房もない。
 私たちの妹に縁談のある日には、
 彼女のために何をして上げよう。(8節)
 もし彼女が城壁だったら、
 その上に銀の胸壁を建てよう。
 彼女が戸であったら、
 杉の板で囲もう。(9節)

 「私たちの妹」とは、花嫁の付き添いに来た花嫁の妹です。まだ、少女といえる女性なのでしょう。若い処女は、花婿を始め、男性たちの気を揉ませます。いわゆる、「へんな虫」がつかないよう、だれもが彼女を守ろうと思うのです。

 しかし、それは杞憂というものかもしれません。彼女は、自分にやぐらを築いて周囲に平和を与えているからです。

 私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。
 それで、私はあの方の目には
 平安をもたらす者のようになりました。(10節)







 

posted by さとうまさこ at 10:56| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする