2016年06月08日

Coffee Break 雅歌20 雅歌を読み解く上でA



 雅歌は素直に読めば、恋愛の歌です。
 人間の「異性を恋する」というしぜんな感情が、情熱的に歌い上げられています。恋心そのものは、神の御心に反することではありません。

 十戒には、「姦淫してはならない」(出エジプト記20章14節)はありますが、「異性を恋い慕ってはならない」とは、出て来ません。「わたしのほかに、他の神々があってはならない」(出エジプト記20章3節)と戒められていますが、神と人間はもともと対等になりえないものですから、誰かを恋い慕って「拝みたいほど」でも、神様はそんなことでお怒りになるはずもないでしょう。

 それでも、何となく、信仰と恋愛が相容れない、まして信仰とセックスの問題は相容れないと思われているのは、「姦淫の罪」が私たち自身の問題として、すぐ横にあるからでしょう。

 「心にみだらな思いを抱いて女を見る者は、すでに姦淫したのである」と言われて、思い当たらない人はいないでしょう。魅力的だなと思うことは、恋心の入り口であり、恋い慕う心は、性的関係をもつことと無関係ではないのです。
 イエス様は、この言葉を、男性社会イスラエルの男を想定して仰せになったのですが、男女平等の現代、女性も、この点に関しては無罪だとは言えません。

 女性の肉体を性的玩具のように見立てることばがあるように、女性から見た男性を、性的玩具のように「はやす」時代です。

 婚姻関係と独身の境目もあいまいになっていて、セックスが、神様の意図されたような「子孫を残すこと」からも切り離され、むしろ快楽の手段として、存在します。たしかに、聖書の神様の目からごらんになったら、私たちの異性とのかかわりは、すでに「正しい」とは言えないかもしれません。

 ただ、だからと言って、神様は「愛の歌」を否定されるでしょうか。人が人を恋い慕う気持を罪だと決めておられるでしょうか。

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 雅歌の「比喩的解釈」について、新実用聖書注解(いのちのことば社)は次のように解説しています。

 聖書に書かれている本文を、文字通りの事実として受け取らず、背後に隠されている霊的意味によって解釈する方法である。それゆえ、著者が本文を通して語っていることが、解釈者の主観によってゆがめられる危険性がある。
 ユダヤ人たちは本書を、神とイスラエルの民との間における愛を示すものと解釈した。そして、出エジプトからメシヤの到来に至るまでの歴史において、そのような愛の関係が示されていると考えた。
(中略)
 7:2の「ほぞ」を「サンヘドリンの議会」、「混ぜ合わせたぶどう酒」を「律法」と解する者もある。このような解釈はキリスト教会にも見られた。オーリゲネースは本書を神とキリスト教会、あるいは個々の信者との間の愛の関係を示していると考え、(後略)

 しかし、このような解釈に対して、注解書の著者は、「いわゆる「霊解」の立場に立つ人びともこの分類に含められるだろう。いずれにせよ、主観的解釈なので、解釈者によって何を意味しているかがまちまちであり、客観性に乏しいのが、この立場の欠点である。」(同)と結論づけているのは、しごく妥当だと思われます。

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 セックスも神様がくださったものであるかぎり、聖書がそれに触れないほうがむしろ不自然です。
 じっさい、聖書では、姦淫や売春、愛、ねたみ、恋するなどということばは、神様の私たちへの語りかけの中で数えきれないほど出てきます。
 神様の救いのご計画が人一代では終わらない大事業である限り、男と女はむしろ、「交わらなければいけない」関係です。

 神様は、もちろん、生物創世の初めに、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記1章27節)と仰せなのです。ところが、罪を犯して楽園を追放された直後、神様がエバに仰せになったのは、「あなたは苦しんで子を産まなければならない」(創世記3章16節)という厳しいことばです。

 創造の初めには、祝福だった喜びの性が、堕落とともに、苦しみを伴うようになったことが、記されているのです。








posted by さとうまさこ at 11:43| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする