2016年06月13日

Coffee Break エレミヤ書1、はじめに、(エレミヤ書1章1節)



 このエッセイは、聖書を創世記1章1節から,隙間なく読み進めています。聖書のみことばをランダムに取捨選択しないためです。

 筆者は、何度かお断りしているように、このエッセイを、あくまで一信徒として書いています。目的は、聖書の解説や紹介ではなく、自分と聖書のことばの「お付き合い」です。もちろん、この「おつきあい」は、対等なものではありません。聖書が「神のことば」だとの前提に立てば、神様と私が対等であるはずがないのですから、その言葉とのおつきあいも、おのずから、人と人のおつきあいとは違います。
 初めから、そう思っていたのではなく、読み進めていくうちに、「その作法を教えられる」ことに気が付いたのです。それは、窮屈さではなく、喜びでした。
 聖書は、たしかに難しいのです。とくに、私のように専門教育を受けたこともなく、ヘブル語、ギリシャ語はもちろんのこと、古代中東の歴史にもうとい日本人にとって、シーラカンスを見るような近寄りがたい先入観がありました。

 それでも、「読んでみたい。」「救われたからには、聖書をきちんと自分の舌で味わい、出来るだけ咀嚼してのみ込んでみたい」と願いました。教界全体でも、信徒が聖書を読むのを勧めておられると、思いました。

 恐る恐る近づいて、臭いをかいだり、触って見たり、先達の感想に耳を傾けたりしながら、どんなことでも、毎日、エッセイにして出すことに決めました。
 気が付くと、いま、エレミヤ書を前にしているというのは、まさに神さまのあわれみだったと、感謝の思いを新たにしています。

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 聖書を読み進めるにつれ、「信仰は、知識を超えている」と思うようになりました。確かに、聖書66巻を知識として蓄えることは意味があると思います。その並び順、その時代背景、おもな登場人物、その働きなどを即座に、知識として導き出せるのはすばらしいのです。
 でも、それが、信仰の前提であるなら、「だれも、救われるはずがありません。」
 知識と理解が入信の前提だとするなら、飛び抜けたトップエリートだけが、試験に合格することでしょう。
 それでは、全世界の人に救いをもたらそうとされる、神様のみこころを妨げてしまいます。神が、ご自分から、ご自分の意志にさからう「制度」を置かれるはずはないでしょう。
 人は、制度を造りますし、知識や理解を整えるだけの知恵も知能もあります。
 げんに、神学的知識をもって働いている主のしもべが、神の国のために多くの仕事をしているのです。

 ところが、神様ご自身が、こうした人間の知識や知恵、年齢や、役割り、地位などを塵芥(ちりあくた)のように、捨て去っておられるのを、聖書を読む者は気づくのです。

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 預言の書は、他の文学ジャンルにはない、不思議なカテゴリーです。
 預言の書に入らない書物に登場する主要な人物も、ほとんどが「預言者」を兼ねています。アブラハムから、つい最近読み終わったソロモンまで、神のことばをあずかる能力のなかった人は一人もいません。それでも、「預言の書」があり、そこに、特別に括られている多くの預言者がいます。彼らの存在が、またいっそう「神とはどのような方か。神が私たちに何を語っておられるのか」を知らしめてくれます。

 すでに、イザヤ書は読んでいます。今度読むことになった、エレミヤ書のエレミヤは、イザヤより100年ほど後に生まれ、ほとんど終末期のユダ王国で活躍した予言者でした。

 エレミヤ書はつぎの言葉で始まります。

 ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。(エレミヤ書1章1節)
 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。(2節)
 それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。(3節)









posted by さとうまさこ at 11:16| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする