2016年06月18日

Coffee Breakエレミヤ書6、イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。 (エレミヤ書2章1節〜4節)



 ついで、私に次のような主のことばがあった。(エレミヤ書2章1節)
「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。

 召命のつぎは、具体的なミッションの命令です。主は、言うべき言葉を授けて下さるのですが、それを、「エルサレムの人々に聞かせよ。」と仰せなのです。預言は人々に伝えらえなければ何もなりません。
 その「伝えるべきことば」は次の通りです。

  わたしは、あなたの若かったころの誠実、
  婚約時代の愛、
  荒野の種も蒔かれていない地での
  わたしへの従順を覚えている。(2節)

 イスラエルの民と神さまの関係は、しばしば夫婦関係に譬えられています。これは、私たち人類全体が、神のお造りになった子どもであると譬えられるので、ときに、理解しがたいところです。神は私たちの「生みの親」なのですから、父なる神なのですが、神はもとより、性をお持ちでないのですから神様を指す「父」と、生物的な父親は、当然違うものです。

 多くの人類の中から、神はイスラエルを選びだされて契約を交わしてくださいました。そのときの神とイスラエルの関係は、結婚契約を模したものと考えられています。
 
 婚約時代の愛とは、神がアブラハムを召されて以来の「神とイスラエル」との関係をさしています。神はアブラハムと契約を結ばれ、イサク、ヤコブとも契約を結ばれました。以来、天地を創造された神は、イスラエル民族にとって、アブラハム神、イサクの神、ヤコブの神となり、イスラエルの民は自分達の神を「」と呼ぶようになったと思われます

★★★★★

 
 アブラハムとその子孫達が神の「選びの民」となるいきさつは、聖書(創世記)では、淡々と書かれています。(創世記12章〜)けれども、「神の救いのご計画」を思うとき、それは、簡単な選定ではなかったと推測できるのです。
 何故、主は、ハランで一族と平和に暮らしているアブラハムに声をお掛けになって、「父の地を」をはなれ、未知の地であるカナンに行くよう命じられたのでしょうか。

   イスラエルは主の聖なるもの、
  その収穫の初穂であった。
  これを食らう者はだれでも罪に定められ、
  わざわいをこうむったものだ。
  ――主の御告げ――   (3節)

  ヤコブの家と、
  イスラエルの家のすべてのやからよ。
  主のことばを聞け。(4節)

  明日は、主がいかに、深い配慮でヤコブの家を建てられたかを見てみたいと思います。





posted by さとうまさこ at 10:44| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする