2016年06月21日

Coffee Breakエレミヤ書9、彼らは尋ねもしなかった。主はどこにおられるのか。 (エレミヤ書2章6節〜9節)


 
 エレミヤは、神の民イスラエルの「軌道からの脱線」が慢性化して、滅びが目前に迫っている時代に、神から召命を受けたのです。
 国全体が神に叛いている時ですから、その預言はとうぜん、社会の潮流に警告するものです。

  彼らは尋ねもしなかった。
  『主はどこにおられるのか。
  私たちをエジプトの国から上らせた方、
  私たちに荒野の荒れた穴だらけの地、
  砂漠の死の陰の地、
  人も通らず、だれもすまない地を
  行かせた方は』と。(エレミヤ書2章6節)

 神の民にとって一番深刻な躓きは、神を忘れるということです。イスラエルの神は、観念的な神ではなく、かつてエジプトの奴隷であったイスラエルを「奴隷の境涯」から救い出して下さった方です。イスラエルが「砂漠の死の影の地、人も通らず、だれもすまない地を」行くことができたのは、神様がつねにいっしょにいて、助け導いて下さったからです。
 
  しかし、わたしはあなたがたを、
  実り豊かな地に連れて入り、
  その良い実を食べさせた。
  ところが、あなたがたは、入って来て、
  わたしの国をけがし、
  わたしのゆずりの地を
  忌みきらうべきものとした。(7節)

 多大の犠牲を払って神がイスラエルに取らせた地カナンは、「乳と蜜が流れる地」でした。豊かな小麦畑と牧草と森林がある場所でした。(もちろん、日本人が考える「緑の野」とは、緑の量と質が違うと、筆者は考えますが) 収穫のための雨季(さきの雨、後の雨)と適切な乾期が交互に訪れる土地、奴隷ではなく、自立した民として神からの相続地をもっているのですから、つねに、自分たちの主により頼んで、熱心に生産に励めば、豊かな収穫の中で満ち足りた暮らしができるはずでした。

 主により頼むことは、絶対に必要でした。カナンの地は、多くの外国人が行き交う「文明の十字路」「通商路」「軍事路」でもありました。
 極東の平和な島国日本とは違って、外国人との付き合いは不可避でした。利益ももたらされたでしょうが、かすめ取られることもしょっちゅうあったことでしょう。しかも、滅ぼしたはずのカナンの七部族は、あちこちに住んでいました。

 このような困難が予想されていただけに、イスラエルの民は尋ねるべきでした。
「主はどこにおられるのか」と。

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 しかし、主が怒っておられるのは、一般の民以上に、神に仕える専門家――祭司、律法学者、牧者、預言者たちであると、明らかにされています。彼らは、神の国、神政政治国家イスラエルの指導者たちです。
 神に対しても民に対しても、格別な責任があるのです。

  祭司たちは、
  『主はどこにおられるのか』と言わず、
  律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、
  牧者たちもわたしにそむき、
  預言者たちはバアルによって預言して、
  無益なものに従って行った。(8節)

   そのため、わたしはなお、あなたがたと争う。
  ――主の御告げ――
  また、あなたがたの子孫と争う。(9節)


 キリストがお出でになってからの「救いのご計画」では、神の民も祭司も律法学者もいなくなったわけです。預言は預言者からではなく、聖書からくみ取るべきだと言われています。
 福音を知って神に救っていただいたことは、「召命」といいます。また、キリストを信じ救われたキリスト者には、「全世界に出て言って福音を宣べ伝えよ」と命じられています。

 「救いを受けた民――キリスト者」の住む場所は、かつてのカナンのイスラエル以上に、「文明、軍事の十字路」となっていて、偶像はあふれていて日々増殖しています。
 このような世界にいる私たちに、エレミヤの預言は、やはり自分の事として与えられていると思うのは、考えすぎでしょうか。
 
 

posted by さとうまさこ at 10:05| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする