2016年06月24日

Coffee Breakエレミヤ書12、なぜ、あなたがたは、わたしと争うのか。(エレミヤ書2章20節〜28節)


 なぜ、あなたがたは、わたしと争うのか。
 あなたがたはみな、わたしにそむいている。
 ――主の御告げ――(エレミヤ書2章29節)
 あなたがた、この時代の人々よ。
 主のことばに心せよ。
 わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか。
 あるいは暗黒の地であったのか。
 どうしてわたしの民は、
 『私たちはさまよい出て、
 もうあなたのところには帰りません。』と
 言うのか。(31節)


 イスラエルをエジプトの奴隷の境涯から救い出された時、その最初の主のお気持ちを「主は、アブラハムとの契約を思い起こされた」からと書かれています。(出エジプト記2章24節)

 ひとたび、主が救いを実行されるとき、それは、すばやく、力強く、まさに人智を超えたものでした。

 モーセへ顕現、召命、約束を思い出して下さい。口下手だから無理だとしり込みするモーセを主が説得なさったのです。兄アロンの助けを得るように、イスラエルへの民へは、神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると告げよ」と仰せなのです。イスラエル人にとっては、懐かしくも心の支えであるはずの先祖(始祖]たちの神と言われれば、彼らはエジプトの入る前の彼らの歴史を思い出したかも知れません――それは、わざわざは記されていませんが――。パロに対しては、ホンモノの神からの超能力を見せるように促されました。そのほんのしるしは、蛇に変わった杖でした。
 パロが自分のお抱えの魔術師たちの「超能力」を見せつけると、当然、神はそれ以上の、できごとを起こされるのです。

 十の奇蹟は、映画「十戒」の見せ場であったように、じっさい、今でも、聖書全体の中でも、最高に絵になる「見せ場」ではないでしょうか。天地万物の創造とノアの洪水を除けば――。
 イスラエルの民をエジプトから連れ出されるために、神は、エジプトを打つという大きな犠牲を払われたのです。世界をお造りになった父なる神にとっては、エジプトのパロや民も自分の被造物であることには変わりないのです。ただ、彼らはそのことに全く気付かず、アブラハムの子孫を奴隷化している状態をごらんになって、主は、エジプトを打たれるのです。

 神の御心を考えると、イエス・キリストでもあられるその心を思うと、エジプトを打たれることは、神にとって痛みであったと私は思います。
 それでも、その痛みを負って、神はイスラエルを救い出されたのです。
 イスラエルは、神の大きな愛と、そのために神が払われた大きな犠牲を、いつも考えているべきでした。

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 わたしはあなたがたの子らを打ったが、
 むだだった。
 その懲らしめは役に立たなかった。
 あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、
 あなたがたの預言者たちを食い尽くした。(30節)

 神の「血を流す犠牲」は、とくに、イスラエルの民がカナンに定着するまでの光景に現れています。弱いイスラエルが、すでに先住民がいたカナンに入るのは、容易なことではありませんでした。神の強烈な後押しが必要でした。

 ヨシュア記を見ると、神の後押しがどれほど強力なものだったかがわかります。イスラエル民がヨルダン川を渡るとき、流れが上流で堰き止められたのです。(ヨシュア記3章14節〜17節)
 エリコ攻撃の時、、その鉄壁の城塞都市を、火器や兵器で崩したのではありません。彼らは神が命じられるまま、七日間エリコの町の回りを巡り、神の命じられるまま、七日の七度目巡った後角笛を吹き、ときの声を上げたら、城壁がくずれ落ちたのです。(6章20節)そうして、「彼らは、町にあるものは、男も女も、若いものも年寄りも、また、牛、羊、ろばも、すべて剣の葉で聖絶した」(同21節)のです。

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 今日、キリスト教の神を非難する人は、「聖絶」という言葉を、しばしば引き合いに出します。
 聖絶は、「ことごとく滅ぼせ」と、神が命じられている虐殺だと考えるからです。「旧約の神は恐ろしい」と言われるゆえんです。

 しかし、もし、神が聖絶を命じられなかったら、カナンを取る戦いは、ただの「人間の国盗り物語」に成り下がっていたのです。古来、戦いは、敵の文物と領土と人を奪うのが目的でした。侵略は自己満足ではありません。侵略した土地から獲物をもち帰るのです。
 戦いのために兵站(食糧確保)は、なくてはならない対策ですが、同時に、勝利をした側は、略奪をするのです。いのちを賭けて働く兵士にとって、何らの略奪は楽しみでもあったでしょう。金銀宝石はもちろんのこと、めぼしい衣装や器物、また女性や子供を奪うのは大きな収穫だったと考えられます。

 「聖絶」を命じられるとき、兵士はこのような「獲物の収穫」を期待できません。こんなことは、いのちを賭けて戦う者には納得できないことです。それでも、神の御命令なら従わなければなりません。従えなくて罰せられた者が、同じヨシュア記に記されています。アカンです。(ヨシュア記7章10節〜26節)
 また、聖絶の物を惜しんで、つまらないものだけ聖絶したイスラエル王国初代の王サウルは、それが神に(サムエルに)しりぞけられる大きな要因になりました。(Tサムエル記15章1節〜34節)

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 なぜ、神は、「民の喜び」になる戦利品を聖絶せよと仰せになったのでしょうか。そのような犠牲は、無意味なのでしょうか。たとえ、凌辱されても生かされる女の方が、剣で打たれる女より「良い」と考えられるでしょうか。せっかくの銀器をただ壊すのではなく、使いまわせばいいではないか。

 人間的には、「聖絶」は、なかなか納得できません。それでも、「聖絶せよ」と命じられるときがあるということです。
 神様は、その責任は、「わたしが取る」から聖絶せよと仰せになったのではないでしょうか。
 それは、やがて十字架上でイエスが血を流されるまで、多くの人にとっては理解不能なご命令だったかもしれません。

 でも、たしかに、神は痛みを背負われたのです。その後のイスラエルは、神に多くの痛みを負わせているのに気が付かないままだったような気がします。

 おとめが自分の飾り物を忘れ、
 花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。
 それなのに、わたしの民が
 わたしを忘れた日数は数えきれない。(32節)
 あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。
 それであなたは、悪い女にも、
 自分の方法を巧みに教えたのだ。(33節)
 あなたのすそには、
 罪のない貧しい人たちの、いのちの血が見える。
 彼らの押し入るのを、
 あなたが見つけたわけでもないのに。
 しかも、これらのことがあるにもかかわらず、(34節)
 あなたは『私には罪がない。
 確かに、御怒りは私から去った。』と言っている。
 『私は罪を犯さなかった。』と言うから、
 今、わたしはあなたをさばく。(35節)
 なんと、簡単に自分の道を変えることか。
 あなたは
 アッシリヤによってはずかしめられたと同様に、
 エジプトによってもはずかしめられる。(36節)
 そこからもあなたは、
 両手を頭にのせて出て来よう。
 主があなたの拠り頼む者を退けるので、
 あなたは彼らによって栄えることは決してない。(37節)







posted by さとうまさこ at 10:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする