2016年06月25日

Coffee Breakエレミヤ書13、『私は罪を犯さなかった。』と言うから、今、わたしはあなたをさばく。(エレミヤ書2章31節〜35節)



 昨今、神様を信じる人が少ないのは、どうしてでしょう。神様なんかカゲロウのように、はっきりしないものだと思うからでしょうか。それとも逆に、神様が強烈に大きな存在でただならぬ力をお持ちであるのを感じていて、そのような見えない力に影響を受けるのが、恐ろしいのでしょうか。
 とくに、日本のように、多くの神様がいるという前提の社会では、どれが本当の神様かわからないからでしょうか。うっかり間違った神様を拝んで、自分がいままで祀っていた方を捨てると、とんでもない罰が当たるのではないかと思うのかもしれません。

 反面、どの神が本当の神様かわからないので、出来るだけ多くの方に敬意を表しておこう、いろんな方にお願いしておこうと考えるのかもしれません。
 じっさい、そのような庶民感情を勘案したためでしょうか。神様のほうも、いろいろ「ウリ」が分業化されていて、嫌でもいろんなところにお参りに行くように仕向けられています。受験、病気回復、結婚、安産など、とくに効験あらたかのところへは、少々遠くても出かけたりします。
 一所懸命祈ったせいか、祈りが聞き届けられるように勉強したせいか、とにかく、聞き届けられたと信じられる結果があるのですから、分業化の神様はけっして廃れることはありません。

 このような神様を神様だと信じている人たちに、「唯一の神様」を宣べ伝えようというのが、私たちキリスト者です。容易でないのは、しぜんですね。
 
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 唯一の神様との関係は、非常に濃厚な関係です。私の人生のすべてに関心を払っておられ、責任も持って下さる方なのです。
 子どもがかわいくてその深いところまでいつも確認している父親、妻を深く深く愛している夫。人間でも、じつはそれほど深くは愛せない、関われないというところまで愛して下さるのです。裏切られたと知った時の怒りは、とうぜん、激しいものがあります。

 あなたがた、この時代の人々よ。
 主のことばに心せよ。
 わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか。
 あるいは暗黒の地であったのか。
 どうしてわたしの民は、
 『私たちはさまよい出て、
 もうあなたのところには帰りません。』と
 言うのか。(エレミヤ書2章31節)

 愛を裏切られた時、だれでも、「自分は相手にとって荒野だったのか」と思うに違いありません。

 おとめが自分の飾り物を忘れ、
 花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。
 それなのに、わたしの民が
 わたしを忘れた日数は数えきれない。(32節)
 あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。
 それであなたは、悪い女にも、
 自分の方法を巧みに教えたのだ。(33節)
 あなたのすそには、
 罪のない貧しい人たちの、いのちの血が見える。
 彼らの押し入るのを、
 あなたが見つけたわけでもないのに。
 しかも、これらのことがあるにもかかわらず、(34節)

 愛を求めるふりをしながら、あなたは姦淫を犯していたと、主は仰せなのです。
 これはむしろ、王や首長、祭司、預言者などの、指導的立場の人たちの責任を問い詰めているのでしょう。
 責任逃れの指導者が民を間違った方向に導くのは、いつの時代もおなじです。
 しかし、神の目はごまかせません。

 あなたは『私には罪がない。
 確かに、御怒りは私から去った。』と言っている。
 『私は罪を犯さなかった。』と言うから、
 今、わたしはあなたをさばく。(35節)

 問題は、これらのことばが、エレミヤの口を通じて語られていることです。若いエレミヤの重責はどれほどのものだったことでしょう。









posted by さとうまさこ at 10:52| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする