2016年06月30日

Coffee Breakエレミヤ書18、背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。(エレミヤ書3章19節〜22a節)



 「わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようかと思っていた。また、わたしは、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れまい、と思っていた。(エレミヤ書3章19節)
 ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ。――主の御告げ――(20節)


 「信仰につまずく」ということばを、私たちは使います。信仰から離れそうになることです。たとえば、教会の人間関係や制度に疑問を持つ時があります。牧師や兄弟姉妹と自分の関係を見直し,期待していたことが裏切られていると考える人は多いのです。とくに、信仰が弱い間、教会に、「善意と自分への理解を期待していて」信仰に入る人は、一度はつまずくでしょう。
 教会に救いがあるのは、そこに救い主がおられるからです。もちろん、救い主キリストは、教会でなくても、私のこの部屋にもいらっしゃるのです。「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」(創世記28章16節)と言うわけです。

 「教会へ来て、教会の雰囲気、親切な人たち、みんなの笑顔などに癒される気がして、受洗をした」といった証しを聞くことがあります。しかし、もし、教会員や牧師夫妻を気に入ったためにイエスさまを信じるなら、それは、最初から思い違いが入っていると言えます。「絶対に正しいはずの人」「絶対に心のきれいな人」「絶対にやさしい人」「悪いことをしない人」が、「いつもそうではない」と気づくときがあるからです。
 「人が正しくありえようか」(ヨブ記15章14節)です。
 罪の世を生きている私たちは、「正しくありたいと思っても、正しくあり続けることはできない」のです。ただ、救い主を信じる時、へりくだってキリストの前に出ていくとき、その罪が許され、癒され、限りある命を永遠の命にしていただくのを「知る」のです。教会は、そのような「体験をした人たち」が集まり、自分を創造して下さった唯一の神、本来私たちが自分ではとうてい支払えないほどの借りをみずから救い主となって下って来てくださり、すべてを贖ってくださった神の愛を知って、平安と喜びを見出すのです。

 教会へ来ても、神を見なければ、何も得るものはないでしょう。信仰をもっても神(キリスト)にすがり、そこに自分をゆだねなければ、何の変化も感じないでしょう。

★★★★★

 イスラエルの偶像礼拝は、ひどいものです。主を疑う、主に楯突く。主に「つぶやく」、「主の命令に背く」のは、すでに「荒野の四十年」の間にも、たびたび見られることでした。
 カナン入りをしてエリコを神様の援護による奇蹟的な方法で陥落させ、神の力を大いに体験した直後でさえ、神の物を盗んだ「アカンの事件」が起こりました。

 ヨシュアが死に、十二部族がそれぞれの相続地で暮らし始めると、たちまち「主を忘れ、めいめいが自分の心に正しいと思うこと」をするようになってしまうのです。とうぜんのように、偶像礼拝が入ってきました。
イスラエル王国を盤石なものにしたダビデは、「主により頼む」人でしたが、多くの物を手に入れ、富と知恵を一身に集めたソロモンの治世には、すでに、偶像が紛れ込んでいました。
 その結果、南北イスラエルは、滅亡の瀬戸際でうめくことになるのです。

  一つの声が裸の丘の上で聞こえる。
  イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。
  彼らは自分たちの道を曲げ、
  自分たちの神、主を忘れたからだ。(21節)

 しかし、ボロボロになったイスラエル王国、その民たちに、主は呼びかけて下さるのです。

  背信の子らよ。帰れ。
  わたしがあなたがたの背信をいやそう。」(22節a)

 あのイスラエルでさえお許しになった神が、まだ、ろくに神の救いの御業も奇蹟も経験していない私たち・異郷の国の私たちの多くの過ちを覆って下さらないはずがない、と私は考えてしまうのです。
 このような自分でも赦されている、その喜びを率直に人に語れるよう、神様に祈るだけです。








posted by さとうまさこ at 09:54| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする