2016年07月01日

Coffee Breakエレミヤ書19、『主は生きておられる。』と誓うなら、 (エレミヤ書3章22b節~4章2節)



 主が、「背信の子らよ。帰れ」と呼びかけて下さったのです。神の選びの民であったイスラエルの人たちが、この呼びかけを聞いて無視するなんてありえません。

  「今、私たちはあなたのもとにまいります。
  あなたこそ、私たちの神、主だからです。(エレミヤ書3章22節b)
  確かに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、
  偽りでした。
  確かに、私たちの神、主に、
  イスラエルの救いがあります。(23節)
  しかし、私たちの若いころから、
  バアルが、私たちの先祖の勤労の実、
  彼らの羊の群れ、牛の群れ、
  息子、娘たちを食い尽くしました。(24節)
  私たちは恥の中に伏し、
  侮辱が私たちのおおいとなっています。
  私たちの神、主に対し、
  私たちも先祖たちも、

 悔い改める時、一番難しいのは、何でしょう。自分がむなしいものに食い尽くされて、空虚であると認めることでしょう。バアルに支配されていた、イスラエルの子らの時間は空しいものだったのです。結果的に、羊の群れも牛の群れも、息子や娘も失ったのです。
 間違った道に入り込んで、失敗した場合、当然、恥を思います。人からは侮辱されるでしょう。
 認めるのは忸怩たるものがあるでしょうが、神様の前には、すべてを認めてひざまずくしかありません。なにしろ、ごまかしのきく場面ではないのです。

★★★★★
 
 人生において後悔する時は、だれでもあるでしょう。間違いを犯すのが人間なのですから当然です。けれども、それをたんなる「反省」に還元してしまって、次から過ちを正せばよいというのは、ほんとうに正しい方法なのでしょうか。
 もちろん、人間的思考法で、「気づいたときから過ちを改めれば良い」と考え、実行するのは、過ちを開き直るよりは良い態度です。

 でも、もったいないですね。子供たちが集まって悪事を犯し、失敗したことをみんなで話し合って、次はどうすればよいか決めるようなものです。「次はもっとうまくやろう」と、警察や親の目をくらますだけにならないでしょうか。そこに、親や教師などが一人加わって話し合うだけで全く違うはずです。そもそも、計画が正しかったのか、行いそのものを改めなければいけないと考えるなら、大きな進歩です。

 神様は、親や教師とは比較にならないほどの権威や力や判断力をお持ちです。しかも、人を愛して止まない方です。ですから、神が自分の反省の手助けをして下さるなら、だれでもひれ伏して、自分を悔改めるでしょう。

  私たちの若いころから今日まで罪を犯して、
  私たちの神、主の御声に
  聞き従わなかったからです。」(同3章25節)

 悔改めさえすれば、許して下さるのです。

  「イスラエルよ。もし帰るのなら、
  ・・主の御告げ。・・
  わたしのところに帰って来い
  もし、あなたが忌むべき物を
  わたしの前から除くなら、
  あなたは迷うことはない。(エレミヤ書4章1節)
  あなたが真実と公義と正義とによって
  『主は生きておられる。』と誓うなら、
  国々は主によって互いに祝福し合い、
  主によって誇り合う。」(2節)

 「主は生きておられる」と誓うことが求められています。
 私たちが信じる神、創造神であって救い主であられる神、この神が生きておられるというのは、私たちキリスト者にとって、何よりも信仰の確信です。聖書に幾度か出てくる言葉ですので、明日は、そこを見てみたいと思います。









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2016年07月02日

Coffee Breakエレミヤ書20、耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。(エレミヤ書4章1節〜4節、創世記17章、34章、申命記30章、ローマ人への手紙2章28節29節)



  「イスラエルよ。もし帰るのなら、
  ――主の御告げ――
  わたしのところに帰って来い
  もし、あなたが忌むべき物を
  わたしの前から除くなら、
  あなたは迷うことはない。(エレミヤ書4章1節)
  あなたが真実と公義と正義とによって
  『主は生きておられる。』と誓うなら、
  国々は主によって互いに祝福し合い、
  主によって誇り合う。」(2節)

 私たちが神を恐れるのは、「主は生きておられる」からです。聖書は、最初から、生きておられる神様が主人公です。しかし、私たちは知識でそれを納得するのではないでしょう。じっさいに、「生ける神」を体験しているからです。生きて働かれていて、生きていて語りかけてくる方です。

 祈るのは、「念力」ではありません。狂ったようになる必要も、声のかぎりに叫び求める必要も、踊り狂う必要もありません。もちろん、そうすることが間違っているのではないでしょう。元気な20歳の青年が精いっぱい声を張り上げて賛美したり、祈ったりするのは、それでよいのです。しかし、もう寝たきりで死を待つような病人が声にならない声で祈る祈りも、神はお聞きになるのでないでしょうか。
 どんなかすかな声も聞いてくださる、ときには、一言も話さずともわかって下さる「生ける神」は、キリスト者のよりどころです。

 神に立ち返るとき、ですから、「主は生きておられる」と認識を新たにすることが必要なのではないでしょうか。

★★★★★

  まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。
  「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。(エレミヤ書4章3節)
  ユダの人とエルサレムの住民よ。
  主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。
  さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、
  わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、
  消す者もいないだろう。」(4節)

 私は都会育ちで、「耕作」の経験がありませんが、「草むしり」は知っています。健康な土地ではすぐに雑草が生えひろがります。イスラエルでは、いばらは雑草の中でも一番強い草だったのかもしれません。繁殖力旺盛な雑草は耕地の敵です。何かを栽培することはできません。だから、いばらがあるなら、徹底的に取り除くことが「開拓」です。
 同じように偶像といういばらを取り除かなければ、信仰の耕地は開拓できないというのです。
 割礼は、主との契約の具体的な肉体への「刻印」です。これは最初、主が、アブラハムに命じられたことでした。(創世記17章9節〜13節)
 これは、アブラハム以降、アブラハムの一族に守られてきた習慣だったのでしょう。ヤコブの娘ディナがヒビ人ハモルの子シェケムと恋仲になり縁談が持ち上がった時、ヤコブの息子たちがシェケムと一族に「割礼」をさせたことでもわかります。(創世記34章1節〜24節)
 もっとも、この時の割礼は、ヤコブの息子たちの「だまし討ち」の計画に使われたのですから、主の名を貶める行為だったのは事実です。(同25節〜31節)

 これに対し、申命記には「心を包む皮を取り除く」よう命じられています。(申命記30章6節)神との契約で、 本当に大切なのは、心のかたくなさを取り除くことだからです。

★★★★★

 パウロは、ユダヤ教の神が、民族の枠を超えて全世界に出ていくとき、いつまでもからだの割礼にこだわる「主お選びの民・ユダヤ人」に、つぎのように語っています。

 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上の体の割礼が割礼なのではありません。(新約聖書・ローマ人への手紙,2章28節)
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(29節)









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2016年07月03日

Coffee Breakエレミヤ書21、のがれよ。立ち止まるな。わたしがわざわいを北からもたらし、大いなる破滅をもたらすから。 (エレミヤ書4章5節〜10節)



  「ユダに告げ、エルサレムに聞かせて言え。
  国中に角笛を吹け。大声で叫んで言え。
  『集まれ。城壁のある町に行こう。』(エレミヤ書4章5節)
  シオンのほうに旗を掲げよ。
  のがれよ。立ち止まるな。
  わたしがわざわいを北からもたらし、
  大いなる破滅をもたらすから。(6節)

 エレミヤが召命を受けたのは、イスラエルとユダの困難な時代です。神の民の国は滅びに向かって、坂道を転げているときでした。姉娘イスラエルはすでに捕囚に連れ去られ、妹ユダの上にも魔の手が伸びて来る――。
 深刻なのは、神様が、そのような厳しい情勢を、「わたしがわざわいを北からもたらし、大いなる破滅をもたらす」と仰せになっていることです。
 じっさい、聖書をていねいに読んでいると、神様は、災厄にたいして、しばしば「自分のわざである」ようなことを言われています。
 これは、「甘えん坊の私たち」人間にしてみれば、なかなかうなずけないことです。

 とくに、日本人のように、神様はご利益を下さるから神様だと考えると、敵の襲来を「わたしがした」などと言われるのは、「きびしすぎる」と感じるのです。
 でも、それは、私たち日本人だけではなく、イスラエル人も同様だったようです。ですから、神のことばをあずかる預言者にも、「耳に快い」ことを予言する者がいました。預言者を、アナリスト、批評家、評論家、コメンテーターだと考えれば、このような傾向はよくわかります。今日、マスコミやテレビで活躍しているような人たちはみんな、発言にひどく気を使っています。あとで非難されないように、揚げ足をとられないように、仕事から干されないように、とても用心しているのが見て取れます。そのような人は、「きびしいこと」を言うようでも、かならず逃げ道を残していて、決して「責任」を取るようなことは言いません。今日なら、「データ」や「人のことばの引用」や、各地から上がってくる情報(二次情報)をおりまぜて、いかにも客観的であるかのように装います。

 もちろん、データや報道をもとに発言を組み立てるのは、きわめて常識的で知的な行為です。ヘイトスピーチなどが、人を怒らせ不快にさせるのは、現実からかけ離れた「言いたい放題」になっているからです。
 人と人を対立させるだけが目的の言動、それでなければ、当たり障りのない、「客観的な意見」しか言えないのが人間かも知れません。

 しかし、神様は、違うのです。大きな苦難が来ている時に「わたしがした」と、断言されるのです。

 これは、神様への見方を根本から変えてしまわないでしょうか。
 言葉は続きます。

  獅子はその茂みから上って来、
  国々を滅ぼす者は彼らの国から進み出た。
  あなたの国を荒れ果てさせるために。
  あなたの町々は滅び、住む者もいなくなろう。」(7節)

  そのために荒布をまとい、悲しみ嘆け。
  主の燃える怒りが、私たちから去らないからだ。(8節)

  「その日には、・・主の御告げ。・・
  王の心、つかさたちの心は、ついえ去り、
  祭司はおののき、預言者は驚く。」(9節)

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  しかし、このような厳しい宣告を取り次がなければならない預言者は、人間です。エレミヤは、まだ若い預言者でした。彼がどんなに煩悶しているかが、つぎの言葉でもわかります。
 これは、民の耳に快いことばかり言う偽預言者と、エレミヤの預言があまりにも違いすぎたために、エレミヤが非難されていたことを示しています。

  そこで、私は言った。
  「ああ、神、主よ。
  まことに、あなたはこの民とエルサレムを
  全く欺かれました。・・
  『あなたがたには平和が来る。』と仰せられて。
  それなのに、剣が私ののどに触れています。」(10節)






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2016年07月04日

Coffee Breakエレミヤ書22、 「ああ。私は殺す者たちのために疲れ果てた。」(エレミヤ書4章10節〜31節)



  そこで、私は言った。
  「ああ、神、主よ。
  まことに、あなたはこの民とエルサレムを
  全く欺かれました――
  『あなたがたには平和が来る。』と仰せられて
  それなのに、剣が私ののどに触れています。」(エレミヤ書4章10節)

 神へのエレミヤの呼びかけに対して、神の声が告げられます。

  その時、この民とエルサレムにこう告げられる。
  荒野にある裸の丘の熱風が、
  わたしの民の娘のほうに吹いて来る。――
  吹き分けるためでもなく、清めるためでもない。(11節)
  これよりも、もっと激しい風が、
  わたしのために吹いて来る。
  今、わたしは彼らにさばきを下そう。(12節)

 エレミヤの訴えに対し、神のお答えはさらに厳しいものでした。荒野の熱風は、温暖なモンスーン気候の中に暮す東南アジアの者にはわからないかもしれません。湿度をたっぷり含んだモンスーンの風は、いのちの源ですが、砂漠の熱風はどうでしょうか。
 その焼け付くような熱風も神がもたらされたものだと仰せなのです。その目的は、神の裁きです。

  見よ。それは雲のように上って来る。
  戦車はつむじ風のよう、
  その馬は鷲よりも速い。
  ああ。私たちは荒らされる。(13節)
  エルサレムよ。救われるために、
  心を洗って悪を除け。
  いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか。(14節)

 この箇所は、熱風と北方の強国からやってくる軍隊が重ねあわされています。
 アッシリヤもその後に勃興してくるバビロニヤも、イスラエル王国とはけた違いの軍事大国でした。その恐ろしい侵略からイスラエル人自身が、イスラエルを守るのは不可能でした。不可能を前にして、それを可能にして下さるのは神の力です。ですが、神に救われるためには、神に叛く行為や心を取り除かなければなりません。

★★★★★

  ああ、ダンから告げる声がある。
  エフライムの山から
  わざわいを告げ知らせている。(15節)
  国々に知らせよ。
  さあ、エルサレムに告げ知らせよ。
  包囲する者たちが遠くの地から来て、
  ユダの町々に叫び声をあげる。(16節)

 ダンは、イスラエルの北端の地です。エフライムは、死海の北西にありますが、北イスラエル王国の南端です。北イスラエルの初代の王ヤロブアムはエフライム人でした。また、ヤロブアムが北王国の民に礼拝するよう命じた「金の小牛」は、ダンと、エフライムのベテルに置かれたのです。
 すでに、北王国を蹂躙した者たちが、ユダの町々を包囲しているのです。ヒゼキヤの時代にエルサレムが取り囲まれた記事がありますが、(U列王記19章) 北の民がアッシリヤ捕囚として連れ去られた後、南王国は、直接、外国の脅威にさらされたのです。

  彼らは畑の番人のように、ユダを取り囲む。
  それは、ユダがわたしに逆らったからだ。
  ――主の御告げ。――(17節)
  あなたの行ないと、あなたのわざが、
  あなたの身にこれを招いたのだ。
  これがあなたへのわざわいで、実に苦い。
  もう、あなたの心臓にまで達している。(18節)

 神の容赦のないことばは、預言者エレミヤを痛めつけました。

  私のはらわた、私のはらわた。
  私は痛み苦しむ。私の心臓の壁よ。
  私の心は高鳴り、
  私はもう、黙っていられない。
  私のたましいよ。
  おまえが角笛の音と、
  戦いの雄たけびを聞くからだ(19節)
  破滅に次ぐ破滅が知らされる。
  全国が荒らされるからだ。
  たちまち、私の天幕も荒らされ、
  私の幕屋も倒される。(20節)
  いつまで私は、旗を見、
  角笛の音を聞かなければならないのだ。(21節)

 私たちは、悪いニュースは聞きたくありません。じっさい、今でも、賢い生き方として「物事の良い面を見よう」と促されているのです。暗いニュースよりも明るいニュースを、心配事の中にも明るい兆しを、完全なドン詰まりの中にも、「希望を!」というわけです。
 しかし、神の声を直接受ける本物の預言者はそうはいきません。神が厳しい宣告をされているのです。

  実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。
  彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。
  彼らは悪事を働くのに賢くて、
  善を行なうことを知らない。(22節)

  私が地を見ると、
  見よ、形もなく、何もなく、
  天を見ても、そこには光もない。(23節)
  山々を見ると、見よ、揺れ動き、
  すべての丘は震えていた。(24節)
  私が見ると、見よ、人間はひとりもいなく、
  空の鳥もみな飛び去った。(25節)
  私が見ると、見よ、果樹園は荒野となり、
  町々は主の御前で、その燃える怒りによって、
  取りこわされていた。(26節)
  まことに主はこう仰せられる。
  「全地は荒れ果てる。
  しかし、わたしはことごとくは滅ぼさない。(27節)
  このために、地は嘆き悲しみ、上の天も暗くなる。
  わたしが語り、わたしが企てたからだ。
  わたしは悔いず、取りやめもしない。」(28節)
  騎兵と射手の叫びに、町中の人が逃げ去った。
  彼らは草むらにはいり、岩によじのぼった。
  すべての町が捨てられ、そこに住む人もない。(29節)

★★★★★

  踏みにじられた女よ。
  あなたが緋の衣をまとい、
  金の飾りで身を飾りたてても、
  それが何の役に立とう。
  目を塗って大きく見せても、
  美しく見せても、かいがない。
  恋人たちは、あなたをうとみ、
  あなたのいのちを取ろうとしている。(30節)

 無理に希望を持ち、明るい面を見ようとすることは、神の目からごらんになると、無理に赤い衣を着て、アクセサリーで飾り立て、濃厚な化粧をして自分を売り込もうとしている女と同様です。関係のこわれた恋人は表面的な、彼女の装いにだまされません。

  まことに、わたしは、
  産みの苦しみをする女のような声、
  初子を産む女のようなうめき、
  シオンの娘の声を聞いた。
  彼女はあえぎ、手を伸べて言う。
  「ああ。私は殺す者たちのために疲れ果てた。」(31節)

 どのように手練手管を弄しても、着飾っても、だれも、彼女を振り向いてくれないのです。結局、シオンの娘は、両手を上げて降参するのです。







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2016年07月05日

Coffee Breakエレミヤ書23、「主は生きておられる。」と言っても、実は、彼らは偽って誓っているのだ。(エレミヤ書5章1節〜9節)



  エルサレムのちまたを行き巡り、
  さあ、見て知るがよい。
  その広場で捜して、だれか公義を行ない、
  真実を求める者を見つけたら、
  わたしはエルサレムを赦そう。(エレミヤ書5章1節)
  たとい彼らが、
  「主は生きておられる。」と言っても、
  実は、彼らは偽って誓っているのだ。(2節)

 私が聖書を読み、祈るたびに、心に刻まされてゆくことは、「神の目はごまかせない」ことです。私たちの神様、聖書の神様の全知全能性は、キリスト者ならだれでも承知していることですが、にもかかわらず、この神の全能性が自分には無関係であるかのようにふるまってしまうのです。
 困難に直面して、心から祈るのは、神様がどんなことでもできる方であると信じるからです。小さなことに感謝するのも、感謝をしないで、いわば「何食わぬ顔で」祝福を食らった場合、神様は、それを「見ておられる」と知らなければいけないでしょう。

 神様は、(たぶん)私が幸せな時、神様の事を忘れて遊び、うぬぼれ、安心していたとしても、すぐにはお怒りになっていないでしょう。それは、神様が親である面をお持ちだからで、親なら子供が、「しあわせ」感の中で、ちょっと羽目を外してもむしろ喜んでくれるかもしれません。

 親の目は、ときにごまかすことができます。
 父親や母親は、子供が時たま、プレゼントを買ってきたり、やさしい言葉を掛けてくれるだけでも、大喜びです。ほんとうは、「ウザい」と思われていても、子供心を良いほうに見ます。
 でも、神様の目はごまかせないのではないでしょうか。神様が意地悪だからではなく、全部見えるかたなので、裏切りの部分も見えてしまうのです。その上で、私たちを愛して下さるのですから、その愛は、ホンモノだと言えるのではないでしょうか。

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 預言者エレミヤには、神様からことばを授けられているのですから、神様の痛みが見えてしまうのです。
 すでに、イスラエルは神様に打たれているのです。北イスラエルが崩壊したことは、大きな衝撃であるはずです。
 にも、かかわらず、南ユダ王国のイスラエル人たちは、「痛んでいない」というのは、エレミヤの考えと言うよりは、神様のご覧になっているところなのでしょう。

  主よ。あなたの目は、
  真実に向けられていないのでしょうか。
  あなたが彼らを打たれたのに、
  彼らは痛みもしませんでした。
  彼らを絶ち滅ぼそうとされたのに、
  彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。
  彼らは顔を岩よりも堅くし、
  悔い改めようともしませんでした。(3節)

 口では「神は生きておられる」と言いながら、実際には神を欺いている人たちを見てエレミヤは絶望しています。

  そこで、私は思いました。
  「彼らは、実に卑しい愚か者だ。
  主の道も、神のさばきも知りもしない。(4節])
  だから、身分の高い者たちのところへ行って、
  彼らと語ろう。
  彼らなら、主の道も、
  神のさばきも知っているから。」
  ところが、彼らもみな、
  くびきを砕き、なわめを断ち切っていました。(5節)

 今日も、私たちは思います。話が通じないのは、相手が悪い。ひょっとして、もっと高い教育を受けた人、高い階層の人なら、真理に通じているのではないかしら。
 エレミヤは、庶民に語っただけでなく、長老やさばきつかさ、祭司、預言者、王族など、支配層のところにも行ったのでしょう。ところが、神に対する偽りの態度は同じだったのです。

 神が次のように仰せになるのを、エレミヤは、聞かないわけにはいきませんでした。

  それゆえ、森の獅子が彼らを殺し、
  荒れた地の狼が彼らを荒らす。
  ひょうが彼らの町々をうかがう。
  町から出る者をみな、引き裂こう。
  彼らが多くの罪を犯し、
  その背信がはなはだしかったからだ。(6節)
  これでは、どうして、
  わたしがあなたを赦せよう。
  あなたの子らはわたしを捨て、
  神でないものによって誓っていた。
  わたしが彼らを満ち足らせたときも、
  彼らは姦通をし、遊女の家で身を傷つけた。(7節)
  彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、
  おのおの隣の妻を慕っていななく。(8節)
  これらに対して、わたしが罰しないだろうか。


 神を侮るのは、神を信じないことより、もっと悪いのでしょう。「神は生きておられる」と言いながら、その言葉を言いさえすれば、神をごまかせると思うような態度を、神はひどく忌み嫌われるのでしょう。
 私自身についてはもちろん、クリスチャンにも通じる、このいつわりを、心から悔い改めなければならないと思わされる箇所です。

  ――主の御告げ――
  このような国に、
  わたしが復讐しないだろうか。(9節)







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