2016年08月01日

Coffee Breakエレミヤ書50、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう。 (エレミヤ書12章14節〜17節)



 エレミヤが預言者として召命を受けたころ、北イスラエルはすでに滅亡していました。ヤロブアムが10部族を率いたその始まりから、北イスラエルは偶像礼拝に迷っていたのですから、アッシリヤの侵略は神のさばきでもありました。けれども、聖書に見る限り、アッシリヤはある意味エルサレムの外堀の役目を果たしていたと、さとうは推測するのです。
 北イスラエルの崩壊とともに、アッシリヤの侵略は南ユダを直撃し、ヒゼキヤの時代には、エルサレムがアッシリヤの大軍に囲まれ、降伏するように脅迫されることになります。(U列王記18章17節〜36節)
 そのアッシリヤがバビロンに滅ぼされたあとは、今度は、バビロンが南ユダ王国を苦しめ、崩壊に導くのです。

 それは、[主]を裏切ったイスラエルの民に原因があるとは言え、もとより、「神の民」を苦しめた勢力もさばきを免れません。

 「主はこう仰せられる。わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた相続地を侵す悪い隣国の民について。見よ、わたしは彼らをその土地から引き抜き、ユダの家も彼らの中から引き抜く。(エレミヤ書12章14節)

 なんだか、喧嘩両成敗のようで、「神の民イスラエル」に肩入れしている私などから見ると、侵略するものだけを引き抜いてほしい気もするのですが・・・。
とはいえ、神は約束して下さいます。

 しかし、彼らを引き抜いて後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう。(15節)

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 ところが、ここで神様は、「神の民の敵」へのあわれみも、また、お約束になります。
 バアルの神を持ち込ませた異邦の国々が、悔い改めて、イスラエルの神の教えを学ぶならという条件のもとで、神は、敵をも回復して下さるのです。

 彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『主は生きておられる。』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう。(16節)

 とはいえ、このような預言をするエレミヤに、葛藤はなかったでしょうか。当時の、イスラエル人として、エレミヤもいつの日かもたらされるキリストの救い、それが全世界に及ぶものだとの知識はなかったと思われます。
 異邦の民がイスラエルの神に向かって「主は生きておられる」と誓う日が来るなんて、想像もできないことだったでしょう。
 それでも、預言を預かる者は預言をしなければなりません。
 もっとも、最後まで聞けば、この言葉のきびしさに、エレミヤ自身納得したでしょうか。

 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう。――主の御告げ――」(17節)



      聖書は新改訳聖書を使用しています。








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2016年08月02日

Coffee Breakエレミヤ書51、わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。(エレミヤ書13章1節〜9節)




 主は私にこう仰せられた。「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはならない。」(エレミヤ書13章1節)
 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。(2節)

 聖書を初めて読むときには、どの箇所もとても難解な感じがするのですが、それは神が難しいことをおっしゃっているからではないようです。そのたとえ話や表現形式が、日本人にはなじみのないものだったりするからです。帯と一口にいっても、私たちの頭に浮かぶ帯と、ここで指し示されている帯では、色も形も材質も、使用目的も異なっています。
 当時の、ユダの人々なら、エレミヤのこの帯のたとえ話を理解できたことでしょう。

 亜麻布の帯を締めるのは祭司でしたから、神が祭司の家出身のエレミヤにそれを命じられるだけで、これが、祭司と神との対話の始まりだと理解できたでしょう。「水に浸してはならない」の意味は、洗濯をしてはならない。(新実用聖書注解・いのちのことば社P1032)
 神は大切な場面では、新品を要求されます。初子の羊をささげるとか、まだくびきを追ったことのない牛をささげる。水で身をきよめる。など、枚挙にいとまがありません。この時に使う帯も、大切な命令なので、新品でなければならなかったのでしょう。

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 すると、私に次のような主のことばがあった。(3節)
 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ。」(4節)
 そこで、主が私に命じられたように、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。(5節)
多くの日を経て、主は私に仰せられた。「すぐ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」(6節)
 私はユーフラテス川に行って、掘り、隠した所から帯を取り出したが、なんと、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた。(7節)

 帯をユーフラテス川のほとりに隠すのは、これまた「たとえ」ではないかと解説にあります。(新実用聖書注解)ユーフラテス川はユダからは100キロ以上もあるので、当時としては大旅行になってしまいます。
 要点は、帯を、どこかの水辺の岩の割れ目に隠しなさいという命令です。かなりの日時が経ってからエレミヤは、隠した帯を取りに行きました。とうぜんながら、麻の布(自然素材の布)は腐って、ボロボロになっていたのでしょう。

 それを見たエレミヤに、主は仰せられるのです。

 すると、私に次のような主のことばがあった。(8節)
 「主はこう仰せられる。わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。(9節)

 恐いことばですね。たんに滅ぼされると言うより、容赦のない処罰ではないでしょうか。「腐っても鯛」という慣用句があります。たとえ腐って食べられなくなっても、鯛は鯛です。ですが、鯛であるはずの魚が、イワシに過ぎなかったら、「なあんだ」と嘲笑されます。神の民であると思い込んでいる人々も同じです。どんな苦境に見舞われようと、「神の民である」と誇りに思っていました。しかし、その神ご自身が、「彼らの誇りを腐らせる」と宣告しています。

 たいへんなことになりました。








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2016年08月03日

Coffee Breakエレミヤ書52、わたしは、彼らを、荒野の風に吹き飛ばされるわらのように散らす。 (エレミヤ書13章8節〜27節)



 すると、私に次のような主のことばがあった。(エレミヤ書13章8節)
 「主はこう仰せられる。わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。(9節)
 わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。(10節)
 なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。――主の御告げ――それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。(11節)

 このたとえも、難しい解釈なしに、理解できるのではないでしょうか。イスラエルの民と「主」は帯で結び合わされているのです。ところが、その帯が腐ってボロボロになってしまっては、もう神様からはなれてしまうのです。帯は、「信仰」を意味しているのでしょう。

 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主は、こう仰せられる。すべてのつぼには酒が満たされる。』彼らはあなたに、『すべてのつぼに酒が満たされることくらい、私たちは知りぬいていないだろうか。』と言うが、(12節)
 あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この国の全住民、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民をすっかり酔わせ、(13節)

 すべてのつぼに酒が満たされるとは、楽しむための衣食や娯楽が十分にあることでしょうか。今の時代でさえ、繁栄というのを、十分に飲み食いでき、酔ったように楽しめる状態を考えています。たとえば、いまの日本の社会です。「なんとか食べていけるなら満足」という価値観ではありません。よりおいしい物を、より楽しめる物を、舌だけではなく、目にも快く、気分を高め、辛いこともきつい仕事も相殺してくれるような「楽しい食卓」「おいしいお酒」が求められています。

 3,40年前には、日本の食料の半分以上が輸入に頼っているから、いつか飢餓が来るかもしれないといった警告がどこかにあったのですが、いまでは、明日の繁栄を疑う者はないような雰囲気です。とりわけ、豊かな者たちは、ほとんど「手に入らない物はない」繁栄の中で、多くの痛みを先送りしているのです。

 ここで指摘されている「王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民」は、まさにそのように振る舞っていたのでしょう。
 しかし、主は、仰せなのです。

 彼らを互いにぶつけ合わせて砕く。父も子もともどもに。――主の御告げ――わたしは容赦せず、惜しまず、あわれまないで、彼らを滅ぼしてしまおう。』」(14節)

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 主のことばを受けて、エレミヤは人々に語ります。

  耳を傾けて聞け。高ぶるな。
  主が語られたからだ。(15節)
  あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。
  まだ主がやみを送らないうちに、
  まだあなたがたの足が、
  暗い山でつまずかないうちに。
  そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、
  主はそれを死の陰に変え、暗やみとされる。(16節)

 でも、このような警告を民は足を止めて聞くのでしょうか。たぶん、聞こうとしていないのですね。
 自分の民が捕囚に連れ去られるのに、聞いてもらえないエレミヤは、泣いています。

  もし、あなたがたがこれに聞かなければ、
  私は隠れた所で、
  あなたがたの高ぶりのために泣き、
  涙にくれ、私の目は涙を流そう。
  主の群れが、とりこになるからだ。(17節)

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 ここからは、ふたたび「主」のことばです。支配者である王と王母に対する預言です。エホヤキン王とその母を指します。エホヤキンは18歳で父エホヤキムのあとを継いだのですが、3か月後にはバビロンに捕囚となってしまいました。(新実用聖書注解・いのちのことば社)>(U列王記24章10節〜20節)

  王と王母に告げよ。
  「低い座に着け。
  あなたがたの頭から、
  あなたがたの輝かしい冠が落ちたから。」(18節)
  ネゲブの町々は閉ざされて、
  だれもあける者はいない。
  ユダはことごとく捕え移され、
  ひとり残らず捕え移される。(19節)

 ネゲブはユダの南端地域です。北からやってきたバビロン軍がネゲブまで侵略しているというのは、ユダが全滅することを意味します。

  あなたがたの目を上げ、
  北から来る者たちを見よ。
  ――あなたに賜わった群れ、
  あなたの美しい羊の群れは
  どこにいるのか。――(20節)
  あなたは彼らを最も親しい友として、
  自分に教えこんでいたのに。
  主があなたを罰するとき、
  あなたは何と言おうとするのか。
  苦痛があなたを捕えないだろうか。
  子を産む女のように。(21節)

  あなたが心の中で、
  「なぜ、こんなことが、私の身に起こったのか。」と
  言うなら、
  それは、あなたの多くの咎のために、
  あなたのすそはまくられ、
  あなたのかかとがそこなわれたからだ。(22節)
  クシュ人がその皮膚を、
  ひょうがその斑点を、変えることができようか。
  もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、
  善を行なうことができるだろう。[23節]

  わたしは、彼らを、
  荒野の風に吹き飛ばされるわらのように散らす。(24節)
  これがあなたの受ける割り当て、
  わたしがあなたに量り与える分である。
  ――主の御告げ――
  あなたがわたしを忘れ、
  偽りに拠り頼んだためだ。(25節)
  わたしも、あなたのすそを、
  顔の上までまくるので、
  あなたの恥ずべき所が現われる。(26節)
  あなたの姦淫、あなたのいななき、
  あなたの淫行のわざ――
  この忌むべき行ないを、
  わたしは、丘の上や野原で見た。
  ああ。エルサレムよ。あなたは
  いつまでたっても、きよめられないのか(27節)











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2016年08月04日

Coffee Breakエレミヤ書53、日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。 (エレミヤ書14章1節〜9節)



  日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。(エレミヤ書14章1節)
  ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、
  地に伏して嘆き悲しみ、
  エルサレムは哀れな叫び声をあげる。(2節)
  その貴人たちは、召使を、水を汲みにやるが、
  彼らが水ためのほとりに来ても、
  水は見つからず、からの器のままで帰る。
  彼らは恥を見、侮られて、頭をおおう。(3節)

 太古の時代から、人間を一番苦しめて来たのは、天変地異ではないでしょうか。戦争は人間同士が起すものです。不注意なための災難もあります。けれども、地震や雷、あらし、大雨、ひでりによる災害は、人の力ではどうにもなりません。
 現代は、気象予知も進み、衛星で地球上の「今」の、気象地図が即座に作れるほどです。台風は太平洋のどこかで発生した時から追跡され、成長と軌跡が観察されています。エルニーニョや豪雨、干ばつ、豪雪、竜巻などが、どこを襲っているのかもわかります。地震や火山噴火の速報も、すぐ地球上をまわります。
 問題は、どれほど、情報が多くなっても、完全な予知ができないこと、そうであれば、結局、異常気象は人を苦しめることです。

 ほん100年前までは、日本でも、夏の日照りと秋の台風は、稲作にとって脅威でした。米が経済の基礎であった時代には、不作は、百姓だけでなく、一般民衆も支配者も苦しめたのです。
 2500年前のパレスチナでは、とりわけ、干ばつが恐れられたのです。もともと雨の少ない中東では、干ばつは、時に何年も続いたからです。

  国に秋の大雨が降らず、地面が割れたため、
  農夫たちも恥を見、頭をおおう。(4節)
  若草がないために、
  野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。(5節)
  野ろばは裸の丘の上に立ち、
  ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。
  青草がないためだ。(6節)

 イスラエル経済は、農業と牧畜で成り立っていました。日照りが続くと、木の新芽や雑草もなくなるわけですから、野生の鹿も自分が生きのびるのがやっとになります。
 犬の仲間は、少し走ると口を開けて舌を出し,ハアハアと喘いで体温調節をします。ジャッカルは犬の仲間なので、喘いでいる姿がよく見られたのでしょう。
 けれども、ろばや鹿などが喘ぐときは、飢えや渇きで苦しんでいるときです。

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  私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、
  主よ、あなたの御名のために事をなしてください。
  私たちの背信ははなはだしく、
  私たちはあなたに罪を犯しました。(7節)
  イスラエルの望みである方、
  苦難の時の救い主よ。
  なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、
  また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、
  すげなくされるのですか。(8節)

 イスラエルに大きなわざわい――さばき――がもたらされると聞いたエレミヤは、神に取り成そうとします。

  なぜ、あなたはあわてふためく人のように、
  また、人を救うこともできない勇士のように、
  されるのですか。 
  主よ。あなたは私たちの真中におられ、
  私たちはあなたの御名をもって、
  呼ばれているのです。
  私たちを、置き去りにしないでください。(9節)

 自分達イスラエルの背信や罪はよくわかっています。でも、神様、だからと言って異邦人に降すようなさばきを下さないでください。私たちは一夜を通りかかった旅人ではありません。アブラハム以来、あなたの民として養われてきたあなたのしもべではありませんか。あなたは私たちの主です。私たちはみなを呼び求めます。ですから、「私たちを、置き去りにしないでください」
 
 このようにとりなしの祈りをするエレミヤに、神様はなんとお答えになるのでしょうか。







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2016年08月05日

Coffee Breakエレミヤ書54、偽預言者とエレミヤ(エレミヤ書14章10節〜15節)




 この民について、主はこう仰せられる。「このように、彼らはさすらうことを愛し、その足を制することもしない。それで、主は彼らを喜ばず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」(エレミヤ書14章10節)
主はさらに、私に仰せられた。「この民のために幸いを祈ってはならない。(11節)

 主はエレミヤの「とりなしの祈り」を退けられています。この民(イスラエルの民)のために祈ってはならないと、仰せなのです。もはや、イスラエルの民が、どのように神に祈っても無駄だというのです。

 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす。」(12節)

 旧約の神は、恐い神、容赦なく滅ぼす神との側面は、このような個所を重く見た神学者や聖書読者から導き出されたのでしょうか。断食や祈りやいけにえやささげ物で、主に取りすがってももう手遅れだ。そんなことをすれば、かえってますます(怒りが増して)、イスラエルの民を滅ぼす。

 聖書には、何度か、神が人の滅亡を決意される箇所があります。
 「ノアの洪水」(創世記6章7節)がそうです。「ソドムの滅亡」(創世記18章17節〜、同19章12節13節)「シナイでの金の小牛事件」(出エジプト記32章10節〜14節)
 神はこれらの時に、悪い者も善い者もすべていっしょくたにしておられるようには見えません。
 「正しい人」ノアと「悪い者」を分けられました。、アブラハムのとりなしで、ソドムの滅亡の時から、ロトをお助けになりました。金の小牛事件では、モーセの必死のとりなしで怒りを収められたのです。

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 そこで、エレミヤは、別の方法で神に訊ねます。

 私は言った。「ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える。』と人々に言っているではありませんか。」(13節)

 王国時代には、南北イスラエル王国にはたくさんの預言者がいました。サムエル自身が預言者を養成する機関をもっていたようですし、エリシャは、たくさんの弟子(ともがら)とともにいた様子が記録されています。(U列王記6章1節2節)
 王の顧問のような豊かな者から、ほんの一場面にしか登場しない名もない預言者も、必要に応じて、自由に神が召された様子がうかがえます。

 エレミヤが預言活動をしている時も、同業者はたくさんいたわけです。
 彼らはまた、なんと、エレミヤと正反対の預言をしていたのです。彼らは、戒めと警告の預言ではなく、バラ色の甘い未来を預言したのです。
 これは、エレミヤにとって辛いことだったに違いありません。「良薬は口に苦し」ですが、だれもが、甘い薬を求めるのです。これは、個人の感情としても、国民の感情としても、今も同じですね。人は、耳に心地よいことばに惹かれるのです。

 エレミヤが民から嫌われたのも、偽預言者の方が人気があったためでしょう。
 しかし、神は仰せです。

 主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。(14節)
 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない。』と言っているこの預言者たちについて、主はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』(15節)









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