2016年08月06日

Coffee Breakエレミヤ書55、偽預言者とエレミヤ2(エレミヤ書14章16節〜22節)



 偽預言者は、不信仰な民よりよほど悪いのです。何と言っても、彼は、預言者の言葉を求める民に、神が仰せになっていない言葉を預言として伝えます。
 そもそも、神から召命を受けたかどうかは、神ご自身はべつとして、本人以外にはわかりません。

 ある牧師が外国の神学校に在学中、召命についてのレポートを書くために、学生たちにアンケートを取ったことがあるそうです。神学校ですから、学生たちはみな将来牧師、宣教師など神に仕える仕事に就く者でした。
 しかし、アンケートの結果、「明確な主の召しがあった」と確信を持って答えたのは、10パーセントにも満たなかったとか。「召しがあったような気がした。」「夢を見た」と答える者。「何となく、そんな気がした」「自分で決心した」と言う人の数の方がはるかに多かったとのことです。もちろん、広い意味でいえば、例えば、教会の現状を心配してみずから神学校に行ったとしても、あるいは、牧師が良い仕事だと思って「憧れ」で決心しただけでも、そこに神様が働かれたと、考える向きもあります。

 信徒も同様で、救われるときには神からの召しがあったはずなのです。たとえ、恋人や友人に勧められても、温かい教会の雰囲気になんとなく決めたとしても、それも神様の働きだと、私たちは考えるのです。
 ただ、信徒と、羊の管理人である牧師や伝道師などでは、やはり責任の重さが違うのではないでしょうか。

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 一度は、神の召しがあっても、その後、取り去られている例は聖書にもあります。一番はっきりしている例は、サウル王でしょう。神は、サウルに与えておられた霊を取り去って、ダビデにお与えになったのです。そこで、サウルが伺っても、「主は夢のよっても、ウリムによっても、預言者によっても答えて下さらなかった」ということになってしまうのです。(Tサムエル記28章6節)
 サウルは、神の霊が取り去られても、王権は残っていました。ですから、彼はその権力を使ってダビデのいのちを奪おうとしました。サウルが死んで、王権がダビデの手に渡って来るまで、ダビデは、10年間もイスラエルの中心部を逃げ回らなければなりませんでした。
 偽りの預言者に咎があるのは事実ですが、それに惑わされる民も、神の罰を受けるのです。

 彼らの預言を聞いた民も、ききんと剣によってエルサレムの道ばたに投げ出され、彼らを葬る者もいなくなる。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上にわざわいを注ぎかける。(エレミヤ書14章16節)
  あなたは彼らに、このことばを言え。
  『私の目は夜も昼も涙を流して、
  やむことがない。
  私の民の娘、おとめの打たれた傷は大きく、
  いやしがたい、ひどい打ち傷。(17節)
  野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。
  町にはいると、見よ、飢えて病む者たち。
  しかし、預言者も祭司も、地にさまよって、
  途方にくれている。』」(18節)

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 神の宣告に対して、エレミヤはあくまでイスラエルの赦しを乞います。

  あなたはユダを全く退けたのですか。
  あなたはシオンをきらわれたのですか。
  なぜ、あなたは、私たちを打って
  いやされないのですか。
  私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、
  癒しの時を待ち望んでも、
  なんと、恐怖しかありません。(19節)

 エレミヤは、主に見放される悲しみを訴え、自分たちが間違っていたと「悔い改め」ます。

  主よ。私たちは自分たちの悪と、
  先祖の咎とを知っています。
  ほんとうに私たちは、
  あなたに罪を犯しています。(20節)

 その上で、神のあわれみを乞うのです。

  御名のために、私たちを退けないでください。
  あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。
  あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、
  それを破らないでください。(21節)

 さらに、全能の神、宇宙万物を支配しておられる神への「恐れ」を表わしています。

  異国のむなしい神々の中で、
  大雨を降らせる者がいるでしょうか。
  それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。
  私たちの神、主よ。
  それは、あなたではありませんか。
  私たちはあなたを待ち望みます。
  あなたがこれらすべてをなさるからです。(22節)









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2016年08月07日

Coffee Breakエレミヤ書56、罰せられる理由・マナセ。(エレミヤ書15章1節〜14節)




 主は私に仰せられた。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。(エレミヤ書15章1節)

 エレミヤはイスラエルとユダの民のために、執り成しの祈りをしています。主は、それをすげなく退けられています。たとえ、「モーセとサムエルが主の前に立って同じ祈りをしても、聞き入れない」と仰せなのです。モーセとサムエルは、「神の選びの民」の歴史の中で、トップクラスの偉大なリーダーです。それは、なによりも神に大きく用いられ、神がつねにバックアップしておられた預言者と言う意味です。モーセは、神が「顔と顔を合わせて語られた」(出エジプト記33章11節)器でした。サムエルは、その預言を何一つ落とされなかったのです。(Tサムエル記3章19節)
 彼らは、信仰の巨人であり、神も心から彼らを愛され、用いられたのです。
 そのような二人が(同時に)神の前で執り成しても、主は、イスラエルの民を顧みないと言われるのです。
最悪のシナリオはもう避けられないようです。

 彼らがあなたに、『どこへ去ろうか。』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。
  死に定められた者は死に、
  剣に定められた者は剣に、
  ききんに定められた者はききんに、
  とりこに定められた者はとりこに。』(2節)
 わたしは四つの種類のもので彼らを罰する。――主の御告げ――すなわち、切り殺すために剣、引きずるため に犬、食い尽くし、滅ぼすために空の鳥と地の獣である。(3節)

 その理由として、ヒゼキヤの子マナセの偶像礼拝を上げられます。

 わたしは彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行なったことのためである。(4節)

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 神のさばきの言葉は続きます。

  エルサレムよ。
  いったい、だれがおまえをあわれもう。
  だれがおまえのために嘆こう。
  だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねよう。(5節)
  おまえがわたしを捨てたのだ、
  ――主の御告げ――
  おまえはわたしに背を向けた。
  わたしはおまえに手を伸ばし、
  おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに飽いた。(6節)

  わたしはこの国の町囲みのうちで、
  熊手で彼らを追い散らし、
  彼らの子を失わせ、わたしの民を滅ぼした。
  彼らがその行ないを悔い改めなかったからだ。(7節)
  わたしはそのやもめの数を
  海の砂よりも多くした。
  わたしは若い男の母親に対し、
  真昼に荒らす者を送り、
  にわかに、苦痛と恐怖を彼女の上に襲わせた。(8節)
  七人の子を産んだ女は打ちしおれ、
  その息はあえいだ。
  彼女の太陽は、まだ昼のうちに没し、
  彼女は恥を見、はずかしめを受けた。
  また、わたしは、彼らの残りの者を
  彼らの敵の前で剣に渡す。
  ――主の御告げ――」(9節)

 これらの言葉を、主はエレミヤの口を通して語られたのです。これほど厳しいことばを伝えなければならない預言者。エレミヤに対して、民の反応が怒りに満ちたものであったのは容易に想像がつきます。
 たとえ、祭司の家に生まれた青年であったとしても、神から召命を受けたにしても、他の人の目には、エレミヤは生意気な若造に写ったことでしょう。まして、耳に痛いことを告げるのです。よい感情をもたれるはずがありません。
 そこで、エレミヤは神に訴えます。

  ああ、悲しいことだ。
  私の母が私を産んだので、
  私は国中の争いの相手、
  けんかの相手となっている。
  私は貸したことも、借りたこともないのに、
  みな、私をのろっている。(10節)

 そこで、神は、エレミヤを慰めておられます。

  主は仰せられた。
  「必ずわたしはあなたを解き放って、
  しあわせにする。
  必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、
  敵があなたにとりなしを頼むようにする。(11節)

 かならず、あなたは、「民からとりなしを頼まれるようになる」と約束して下さるのですが、それだから、とさらに預言を取り次ぐよう促されます。

  だれが鉄、北からの鉄や青銅を
  砕くことができようか。(12節)
  わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を
  獲物として、ただで引き渡す。
  それは、あなたの国中で、
  あなたが犯した罪のためだ。(13節)
  わたしはあなたを
  あなたの知らない国で敵に仕えさせる。
  わたしの怒りによって火がつき、
  あなたがたに向かって燃えるからだ。」(14節)

 ここでの「あなた」は、イスラエルとユダの民です。
 エレミヤは、この民のために、ひきつづき「とりなし」をするのです。








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2016年08月08日

Coffee Breakエレミヤ書57 また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、(エレミヤ書15章15節〜21節)



  主よ。あなたはご存じです。
  私を思い出し、私を顧み、
  私を追う者たちに復讐してください。
  あなたの御怒りをおそくして、
  私を取り去らないでください。
  私があなたのためにそしりを受けているのを、
  知ってください。(エレミヤ書15章15節)

 神と人との間に立つ預言者の立場は、想像を絶する葛藤があるのだと思います。人と人の間に立つのは、難しいとはいえ、楽な面があるのです。人間社会にはルールがありますから、ルールに従って裁けばよいでしょう。
 イスラエルの律法や戒めも、人と人との間についてのおきてがいろいろとあります。誰が犯人かを追及する時には、二人以上の証言が必要です。殺人、親殺し(尊属殺人)、誘拐、親をのろうことは、死刑と定められています。(出エジプト記21章12節〜17節)
 奴隷の取り扱い、殺傷事故の取り扱い、過失事故の取り扱い、盗難事件の取り扱い、未婚の処女への暴行事件の取り扱いなどの決まりについても、十戒をいただくと同時に与えられたようです。

 細かい日常の争いについては、たいていその文化の中で前例があり、さばきの基準もあります。たとえば、日本なら「喧嘩両成敗」と言いました。いろいろ、知恵を使って酌量することもできます。ソロモンの「ふたりの遊女の裁判」などは、知恵による名判決です。(T列王記3章16節〜28節)
 しかし、国王や祭司など支配者みずからが偶像礼拝をして神に罪を犯し、罪を犯す者の方がはるかに多いので誰も彼らを「罪に定めない」というような状況の場合、どうなるのでしょう。
 王国時代に、預言者が多数召されたのは、このような時代背景があったためだと思われます。
 預言者は、神と人との間に立ち、神の言葉を人に伝えるのです。

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 イスラエルの民は、自分たちを奴隷の境涯から救い出して下さった神――アブラハム、イサク、ヤコブの神以外の神々があってはならないと戒められています。偶像を拝むことも禁じられています。「主おひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶しなければならない。」(同22章20節)のです。

 いやしくも、神の選びの民の国「イスラエル」では、神と人は対等ではありえません。主は、イスラエルを愛されるゆえに、イスラエルの裏切りを悲しみ、怒り、さばかれるのです。それを、預言者から聞かされる民は、しかし、自分の行いを「人から」指摘されたと思って、預言者を迫害するのです。
 それで、エレミヤは、神に「泣き」を入れています。

  私はあなたのみことばを見つけ出し、
  それを食べました。
  あなたのみことばは、私にとって
  楽しみとなり、心の喜びとなりました。
  万軍の神、主よ。
  私にはあなたの名がつけられているからです。(16節)
  私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、
  こおどりして喜んだこともありません。
  私はあなたの御手によって、
  ひとりすわっていました。
  あなたが憤りで私を満たされたからです。(17節)
  なぜ、私の痛みはいつまでも続き、
  私の打ち傷は直らず、
  いえようともしないのでしょう。
  あなたは、私にとって、欺く者、
  当てにならない小川のようになられるのですか。(18節)

 私は、(幸いというか)一信徒です。もちろん、多くの方に聖書の神・イエスさまをご紹介したいと思っています。それでも、牧師や伝道師のように、伝道と信徒の成長をサポートする重荷は、(公式には)負っていないわけです。人間の社会で、まともに、伝道宣教の責務を「(神様対して)負うこと」のは、どれほどの重圧だろうと思うことはよくあります。
 迫害ということばがありますが、迫害の中でも一番苦しいのは、嘲笑や、鞭や剣ではないような気がします。
 迫害が、信徒を苦しめるのは、文字通り、「神を信じない者たち」から、神を侮られることではないでしょうか。
 
  それゆえ、主はこう仰せられた。
  「もし、あなたが帰って来るなら、
  わたしはあなたを帰らせ、
  わたしの前に立たせよう。
  もし、あなたが、卑しいことではなく、
  尊いことを言うなら、
  あなたはわたしの口のようになる。
  彼らがあなたのところに帰ることがあっても、
  あなたは彼らのところに帰ってはならない。(19節)
  わたしはあなたを、この民に対し、
  堅固な青銅の城壁とする。
  彼らは、あなたと戦っても、勝てない。
  わたしがあなたとともにいて、
  あなたを救い、あなたを助け出すからだ。
  ――主の御告げ――(20節)

 気落ちして、潰(つい)えそうなエレミヤに、主は力強く、仰せになるのです。

  また、わたしは、
  あなたを悪人どもの手から救い出し、
  横暴な者たちの手から助け出す。」(21節)

 かならず、(悪人からの)迫害から救い出そうと約束して下さるのです。







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2016年08月09日

エレミヤ書58 あなたは妻をめとるな。またこの所で、息子や娘を持つな。(エレミヤ書16章1節〜13節)



 完結した聖書がある今日、預言はもうないと言うのは、定説だと思います。
 イスラエル民族――ダビデの家の末裔にイエス様がお生まれになり、救いを完成させて下さるというのが神の御計画です。それまでは、神様は、さまざまな預言者を起こされて、救い主キリストをお迎えするイスラエルの民の信仰を正し続けておられるのです。
 
 それは時間がかかることであるばかりでなく、大変な手間がかかっています。出エジプトをした直後から、「神の選びの民」は、素朴だけれど、すぐに迷う頼りない羊であったからです。右に左に迷い出る者、渇きや飢えのたびに叫び出す者、果ては、契約を忘れ、「選びの民」であることさえ、忘れる者が続出するのです。父なる神――ヤハウエの気苦労は察するに余りがあるとはいえ、もとより、人間の気苦労と同列に考えるのは、不敬というものでしょう。神は全知全能の方だからです。「神に不可能はない」のです。

 神は必要な預言者を起こされますが、神の言葉を口に授けられた預言者は、個人的な感情や理性で、それを取捨選択することなどできません。それは、すばらしいことであると同時に、やはり恐ろしいことではないでしょうか。

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 次のような主のことばが私にあった。(エレミヤ書16章1節)
 「あなたは妻をめとるな。またこの所で、息子や娘を持つな。」(2節)

 若くして召されたエレミヤに対して、「結婚するな」というのは人間的に考えれば過酷です。結婚は本来、神の御心だから、なおさらです。

 まことに、主は、この所で生まれる息子や娘につき、また、この国で、彼らを産む母親たちや、彼らを生ませる父親たちについて、こう仰せられる。(3節)
 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らはいたみ悲しまれることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。また、剣とききんで滅ぼされ、しかばねは空の鳥や地の獣のえじきとなる。」(4節)

 暗い未来が予告されています。子どもを持つ親も子もひどい病気で死ぬというのです。葬られることもない。病気で死ななかった者は剣で死ぬのです。疫病と戦乱が予告されているのです。

 まことに主はこう仰せられる。「あなたは、服喪中の家にはいってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしはこの民から、わたしの平安と、――主の御告げ――いつくしみと、あわれみとを取り去った。(5節)
この国の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らをいたみ悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪もそらない。(6節)
 だれも、死んだ者を悔やむために葬儀に出て、パンを裂くこともなく、その父や母を慰める杯を彼らに飲ませることもないだろう。(7節)

 死があまりにも蔓延している時に、人々の目に、死者はどのように映ることでしょう。平和時の葬儀と違い、多くの人が「主は、いったいどうしてこのようなむごいことをされるのか」と、嘆くでしょう。

 あなたは宴会の家に行き、いっしょにすわって食べたり飲んだりしてはならない。」(8節)
 まことにイスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしは、この所から、あなたがたの目の前で、あなたがたが生きているうちに、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。(9節)

 神はエレミヤに、結婚式などの宴会に出ることも、禁じられています。その場で、エレミヤがみんなに告げなければならない預言はあまりにも、過酷なのです。

 あなたがこの民にこのすべてのことばを告げるとき、彼らがあなたに、『なぜ、主は私たちに、この大きなわざわいを語られたのか。私たちの咎とは何か。私たちの神、主に犯したという、私たちの罪とは何か。』と尋ねたら、(10節)
 あなたは彼らにこう言え。『あなたがたの先祖がわたしを捨て、――主の御告げ。・・ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、わたしを捨てて、わたしの律法を守らなか
ったためだ。(11節)

 私たちは、結婚式に出たら、喜びに水を掛けることがないように、些細な言葉遣いにさえ気を使うのです。たとえば、「切れる」「別れる」「去る」「出る」「戻る」などの単語を口にしないように、です。
 それなのに、エレミヤは、「あなたがたが生きているうちに、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。」と言わなければならないのです。これでは、石を投げられても仕方がないですね。彼の苦しみの重さがわかる気がします。
 もちろん、神はその理由も告げられるのですが。

 また、あなたがた自身、あなたがたの先祖以上に悪事を働き、しかも、おのおの悪い、かたくなな心のままに歩み、わたしに聞き従わないので、(12節)
 わたしはあなたがたをこの国から投げ出して、あなたがたも、先祖も知らなかった国へ行かせる。あなたがたは、そこで日夜、ほかの神々に仕える。わたしはあなたがたに、いつくしみを施さない。』(13節)








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2016年08月10日

エレミヤ書59 それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ――(エレミヤ書16章14節〜21節)



 神から、妻を娶るな、子供を持つなと命じられているエレミヤは、かつてなく、私生活を犠牲にしなければならない預言者だったかもしれません。
 モーセは民をエジプトから連れ出して、荒野を行かせるために、晩年の40年をささげましたが、妻も子供もいました。詳しくは書かれていませんが、妻は二人以上いた可能性もあります。最初の妻チッポラは、ミデヤン人の祭司の娘でしたから異教徒でした。後にミリアムとアロンが非難したモーセの妻もクシュ人(エチオピア人)の女です。(民数記12章) けれども、その場合でさえ、神ご自身が、モーセの家族を非難されたとは書かれていません。
 士師記の時代の、預言のできる士師たちも家族をもっていました。ギデオンは、最終的に多くの妻をもって、70人の子どもがいたと記されています。(士師記8章30節)
 サムエルは、王制を確立する働きをした偉大な預言者でしたが、二人の息子は、父親の志を行なわない不肖の息子でした。(Tサムエル記8章1節〜3節)
 エリヤとエリシャの妻についてはわかりませんが、少なくとも、神から妻帯を禁じられた様子はありません。
 イザヤは、女預言者の妻との間に子供がいました。(イザヤ書8章3節)

 言えることは、家族が社会の単位であったイスラエルで、妻帯を禁じられるのは過酷なことだったのです。
 しかし、神がエレミヤに、そのような命令を下されたのは、イスラエルとユダが崩壊し民は捕囚として連れ去られ、外国に散らされる運命にあったからです。

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 それでは、イスラエル民族の未来は、真っ暗だったのでしょうか。神の選びの民も結局、国を保てないとしたら、「神の救いのご計画」はどうなってしまうのでしょう。

 かりにも祭司の家に生まれたエレミヤには、「選びの民イスラエル」の自覚はあったのではないでしょうか。もし、神がイスラエルを見捨ててしまわれるなら、いったい人びとの反感を買ってまで「預言をする」ことにも意味がなくなってしまいます。エレミヤがそのような煩悶を抱いたとしても自然でしょう。

 もとより、神は、エレミヤの心など読んでおられます。神はエレミヤに一転、「希望の預言」を授けるのです。

 それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ――その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とは言わないで、(14節)
 ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。(15節)
 見よ。わたしは多くの漁夫をやって、――主の御告げ――彼らをすなどらせる。その後、わたしは多くの狩人をやって、すべての山、すべての丘、岩の割れ目から彼らをかり出させる。(16節)

 散らされた民は、かならず神が連れ戻して下さると約束されるのです。海底の砂の中にいても、岩穴に隠れていても、神は漁師や狩人――あらゆる手段を使って、人々を探しだっし、返して下さるというのです。
 同時に、「選びの民」を連れ去り、虐待した民には報復してくださるのです。

 わたしの目は彼らのすべての行ないを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。また、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。(17節)
 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。それは彼らがわたしの国を忌むべきもののしかばねで汚し、忌みきらうべきものを、わたしの与えた相続地に、満たしたからである。」(18節)

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 このような神の約束を聞いて、エレミヤは神を褒めたたえます。

  主よ、私の力、私のとりで、
  苦難の日の私の逃げ場よ。
  あなたのもとに、
  諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。
  「私たちの先祖が受け継いだものは、
  ただ偽るもの、
  何の役にも立たないむなしいものばかりだった。(19節)
  人間は、自分のために神々を造れようか。
  そんなものは神ではない。」と。(20節)

 神もエレミヤの喜びに応答なさいます。

  だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。
  今度こそ彼らに、
  わたしの手と、わたしの力を知らせる。
  彼らは、わたしの名が主であることを知る。」(21節)

 捕囚から帰還できた暁には、道を迷い、国を失うほどだったイスラエルの民も、今度こそ、「主こそ神」と崇めるようになると断言されるのです。







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