2016年08月16日

エレミヤ書65 このことを聞く者は耳鳴りがする(エレミヤ書19章1節〜15節)



 主はこう仰せられる。「行って、土の焼き物のびんを買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人といっしょに、(エレミヤ書19章1節)
 『瀬戸のかけらの門』の入口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを呼ばわって、(2節)


 今回の主の預言は、焼き物のびんが例示として使われます。主はエレミヤに焼き物のびんを買うように命じられます。当時口元が細くなった水差しは高価なものだったようです。(新実用聖書注解・いのちのことば社p1038) さらに「祭司と長老の内何人かを伴なって、ベン・ヒノムへ出かけなさい」と言われるのです。ベン・ヒノムは、エルサレムの西側から南側を囲む谷で、そこで異教の神々に人身御供がささげられていた場所です。(同注解書)

 『ユダの王たちとエルサレムの住民よ。主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの所にわざわいをもたらす。だれでも、そのことを聞く者は、耳鳴りがする。(3節)

 「耳鳴りがする」というのは、非常に恐ろしいこと、聞きたくなことを聞いたときの気持ちを表す慣用句でしょう。
それは、次のようなきびしい預言が語られるためです。

 彼らがわたしを捨ててこの所を見分けがつかないほどにし、この所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々にいけにえをささげ、この所を罪のない者の血で満たし、(4節)
 バアルのために自分の子どもたちを全焼のいけにえとして火で焼くため、バアルの高き所を築いたからである。このような事は、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ。(5節)
 それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ――その日には、この所はもはや、トフェテとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。(6節)

 トフェテとは、偶像の神にささげ物をした「高き所」のことです。(エレミヤ書7章31節) 「虐殺の谷」の呼び方は、「高き所」と較べれば、はるかにイメージが悪いですね。

 また、わたしはこの所で、ユダとエルサレムのはかりごとをこぼち、彼らを敵の前で、剣で倒し、またいのちをねらう者の手によって倒し、そのしかばねを、空の鳥や地の獣にえじきとして与える。(7節)
 また、わたしはこの町を恐怖とし、あざけりとする。そこを通り過ぎる者はみな、色を失い、そのすべての打ち傷を見てあざける。(8節)

 エルサレムの民が、外国からの侵略軍によって虐殺された様子を預言しています。当時のことですから、敗残兵の死体は、鳥や獣のえじきになるのです。そのような光景を見た者は、とうぜん、あざけるのです。「ああ、これが、イスラエルの末路か。選びの民と言っていた者たちの最後か」と言うに違いないのです。

 また、わたしは、包囲と、彼らの敵、いのちをねらう者がもたらす窮乏のために、彼らに自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いにその友の肉を食べ合う。(9節)

 もっとひどいのは、包囲され、飢え苦しむイスラエルの生き残った者たちの惨状です。これは、古今たくさんの戦いに際して実際に起きたことですが、極度に飢え苦しむようになると、人は死んだ仲間の肉でも食べるのです。自分の息子の肉、娘の肉を食べるというのは、文字通り死体を食べたのか、殺して食べたのかはわかりませんが、聖書に例がないわけではありません。(U列王記6章28節〜30節)

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 そこであなたは、同行の人々の目の前で、そのびんを砕いて、(10節)
 彼らに言え。『万軍の主はこう仰せられる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。このように、わたしはこの民と、この町を砕く。人々はトフェテに葬る余地がないほどに葬る。(11節)
 わたしはこの所と、――主の御告げ――その住民にこうしよう。わたしはこの町をトフェテのようにする。(12節)
 エルサレムの家々とユダの王の家々、すなわち、彼らが屋上で天の万象に香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェテの地のように汚される。』」(13章)

 偶像にいけにえがささげられたトフェテに、死体が累々と積み上げられるとは、何と言う恐ろしい光景でしょう。

 この後、エレミヤは主の宮に立ち、預言の核心部分を語るのです。

 そこでエレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェテから帰って来て、主の宮の庭に立ち、すべての民に言った。(14節)
 「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」(15節)







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2016年08月17日

エレミヤ書66 預言者と祭司(エレミヤ書20章1節〜6節、マタイの福音書5章10節〜12節、創世記)



 祭司であり、主の宮のつかさ、監督者であるイメルの子パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。(エレミヤ書20章1節)
パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。(2節)

 聖書を読んでいる者にとっては、祭司と預言者に身分の上下があるかなど、意味のない問です。神と人との物語、神が人をお救いになる物語である聖書では、その最初から神は言葉で、すべてを支配しておられました。宇宙万物も言葉によって造られました。生きものも植物も、神の言葉から生まれました。人間に対しても、まず言葉が先にありました。

 神は仰せられた。「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて、彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1章26節)

 楽園から追放されても、神は人に語り続けておられます。カインの弟アベルへの殺意に警告し、罪を犯したカインの悔悟の声に答えて、彼が殺されないようにしてくださいました。(創世記4章)
 ノアも神の声に従って箱舟を造り、箱舟に入ったのです。(創世記6章13節)
 アブラハムは、神の声に従ってメソポタミヤのハランから出て来て、カナンに入りました。神はアブラハムに声を掛けて彼を導き続け、(創世記12章〜)
 アブラハムは神の言葉を聞いて彼の歩みを定めました。大切な一人息子イサクを、犠牲として神にささげよと命じられた時でさえ、アブラハムは、従いました。
 創世記に出て来るアブラハムの家をひきつぐ男はみな、預言者といえる性質をもっていました。

 出エジプト記は、このアブラハムの子孫がエジプトを出る話です。まだ、国家も祭司制度もなかった時代に、神はモーセを召されて全イスラエルのリーダーとされたのです。つまり、この時代、預言者こそ民の頂点に立つリーダーであると、神はお定めになったのです。
 祭司制度でさえ、モーセが神の預言を受けて定めたものです。(出エジプト記28章1節)

 ところが、王国時代になると、どうやら、預言者の権威は、世俗の権力と切り離されています。王や祭司には、さまざまな世俗の力があったようです。
 サウルに油を注ぐまで(王冠を授けるまで)サムエルは、イスラエルをさばく預言者でした。しかし、ひとたび王制が確立すると、ダビデに油を注ぐことにさえ恐れています。(Tサムエル記16章2節)
 また、エリヤほどの預言者でも、悪女イザベラ王妃の迫害を恐れて、逃げ隠れするのです。(T列王記19章1節〜5節)
 祭司パシュフルがエレミヤを打ち、足枷を付けて繋ぐということは、明らかに預言者には、世俗的な権力がなかったからでしょう。

 イエスさまも仰せです。

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
 歓びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイの福音書5章10節〜12節)

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 足かせから解かれた後、神は次のような預言を、エレミヤに授けられました。
 これまでの預言は、イスラエルやユダの人びとに対するものでしたが、ここははっきりと、迫害者パシュフルを標的になっています。

 翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はあなたの名をパシュフルではなくて、『恐れが回りにある』と呼ばれる。(3節)
 まことに主がこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを、あなた自身とあなたの愛するすべての者への恐れとする。彼らは、あなたの目の見る所で、敵の剣に倒れる。また、わたしはユダの人全部をバビロンの王の手に渡す。彼は彼らをバビロンへ引いて行き、剣で打ち殺す。(4節)
 また、わたしはこの町のすべての富と、すべての勤労の実と、すべての宝を渡し、またユダの王たちの財宝を敵の手に渡す。彼らはそれをかすめ奪い、略奪し、バビロンへ運ぶ。(5節)
 パシュフルよ。あなたとあなたの家に住むすべての者は、とりことなって、バビロンに行き、そこで死に、そこで葬られる。あなたも、あなたが偽りの預言をした相手の、あなたの愛するすべての人も。』」(6節)

 このような容赦のない言葉を自分と自分の一族に浴びせられたパシュフルが、怒り心頭になり、さらにエレミヤを迫害したことは容易に想像がつきます。
 エレミヤは、苦しんで、神に泣き叫んでいます。








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2016年08月18日

エレミヤ書67 私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。(エレミヤ書20章7節〜12節)



  主よ。あなたが私を惑わしたので、
  私はあなたに惑わされました。
  あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。
  私は一日中、物笑いとなり、
  みなが私をあざけります。(エレミヤ書20章7節)
  私は、語るごとに、わめき、
  「暴虐だ。暴行だ。」と叫ばなければなりません。
  私への主のみことばが、一日中、
  そしりとなり、笑いぐさとなるのです。(8節)

 このようなエレミヤの叫びに、私は、不謹慎にも。コミカルな映像を見ているような気にさせられるのです。エレミヤが預言をしているのを、嘲笑したり毒づいたりしながら聞いている人たちがいます。エレミヤの声がかき消されるように、騒いだり、太鼓を叩いたりして妨害する者もいるのかもしれません。その上、エレミヤを小突いたり、叩いたりと暴力を振るう者がいる? エレミヤは、あるいは、「こんな苦しみに遭うなんて,神は私を惑わしておられる」とさえ、思ったのでしょう。
 「だから、もう、口を噤(つぐ)もう。」

  私は、「主のことばを宣べ伝えまい。
  もう主の名で語るまい。」と思いましたが、
  主のみことばは私の心のうちで、
  骨の中に閉じ込められて
  燃えさかる火のようになり、
  私はうちにしまっておくのに
  疲れて耐えられません。(9節)

 エレミヤは、いやというほど預言をするリスクを味わっているのです。今目の前にいる者たちが、あざけったり、暴力を振るったりして、エレミヤに語らせまいとしているのです。ところが、言葉があふれて来るのです。主のことばがエレミヤ臨んでいるので、語らないではいられないのです。例は適切ではないと思いますが、例えば、私たちが胃の中の物を戻しそうになるとき、どうにも止められません。嘔吐は、それが毒性を持つから吐き出すのでしょうが、神は、その言葉が、預言者の口から出るように預言者を召されているのです。これも、エレミヤの意思ではどうにもなりません。

 止めるに止められない預言を叫びながら、同時にエレミヤは、それを聞く聴衆の悪意を、いやというほど聞くのです。

  私が多くの人のささやきを聞いたからです。
  「恐れが回りにあるぞ。
  訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。」
  私の親しい者もみな、
  私のつまずくのを待ちもうけています。
  「たぶん、彼は惑わされるから、
  われわれが彼に勝って、
  復讐してやろう。」と。(10節)

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 エレミヤは、神(主)に訴えています。

  しかし、主は私とともにあって、
  横暴な勇士のようです。
  ですから、私を追う者たちは、
  つまずいて、勝つことはできません。
  彼らは成功しないので、大いに恥をかき、
  それが忘れられない永久の恥となりましょう。(11節)
  正しい者を調べ、
  思いと心を見ておられる万軍の主よ。
  あなたが彼らに復讐されるのを
  私に見せてください。
  あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。(12節)

 預言をあざける者に、預言者は仕返しをすることができません。もともと、預言者は、神が選ばれたのであって、彼が真実、預言者かどうかは、神のみぞ「知る」存在なのです。王国のこの時代には、自称預言者(偽預言者)もたくさんいて、王や祭司、民の耳に快い預言をする者の方が歓迎されているのです。

 そのような者に、復讐して下さいというのは、エレミヤの心からの叫びだったでしょう。







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2016年08月19日

エレミヤ書68 なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。(エレミヤ書20章11節〜18節)



  しかし、主は私とともにあって、
 横暴な勇士のようです。
 ですから、私を追う者たちは、
 つまずいて、勝つことはできません。
 彼らは成功しないので、大いに恥をかき、
 それが忘れられない永久の恥となりましょう。(エレミヤ書20章11節)

 預言者エレミヤが預言を語ったために迫害されるのは、悲惨なことです。
「神の民イスラエルは大きな間違いをしている・罪を重ねている!」と、断固、今、私はいうことができます。
 今(ごろ)、言うのは簡単です。私が、エレミヤに同情をもって口はばったく「エレミヤは正しい」と言えるのは、私の生きている21世紀が、エレミヤの生きた時代とはるかにへだたっていて、直接石が飛んでこないからでしょう。
 主、神がエレミヤの口に預言を置かれたため、エレミヤの苦難が起きているのですが、それでもエレミヤは、その苦しみを振りかえって神に訴えるしかありません。同時に、この箇所はうらやましいほど、エレミヤの主への信頼(甘え)が現れています。

  正しい者を調べ、
  思いと心を見ておられる万軍の主よ。
  あなたが彼らに復讐されるのを
  私に見せてください。
  あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。(12節)
  主に向かって歌い、主をほめたたえよ。
  主が貧しい者のいのちを、
  悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。(13節)

 「ねえ。お父さん。お父さんのおっしゃることは正しいのだから、その通り伝えている僕は、正しいことをしているんですよね。調べて、彼らをいつかこらしめてくださいね。懲らしめて下さいますよね」
 そんな心が表出されています。

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 と同時に、エレミヤは嘆いているのです。

  私の生まれた日は、のろわれよ。
  母が私を産んだその日は、
  祝福されるな。(14節)
  私の父に、
  「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、
  彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。(15節)

 この言葉は、聞き覚えがありますね。「生まれた日はのろわれよ。」と言うのは、「生まれてこなかった方がよかった」「いないほうがよかった」ということに他なりません。完全な自己否定です。自殺をするような人が「遺書」に書き残すことばです。自分の存在そのものが自分を打っているのです。

 聖書では、もちろん、ヨブが同じ意味のことを叫んでいます。(ヨブ記3章1節〜5節)あまりに大きな痛みや苦しみに遭うと、どんな人でも生きる気力を失います。
 かつては、大勢の人に祝福されて生まれてきた事実さえ呪わしくなります。
 イスラエルは、父系社会でした。まして、エレミヤは祭司の家に男の子として生まれたのです。大勢の人が、喜び祝福したことでしょう。
 それにしても、「男の子が誕生したと喜んだ者たち」まで、くつがえされて、神から罰せられよ。とは、きびしい。

  その人は、主がくつがえして
  悔いない町々のようになれ。
  朝には彼に叫びを聞かせ、
  真昼にはときの声を聞かせよ。(16節)
  彼は、私が胎内にいるとき、私を殺さず、
  私の母を私の墓とせず、
  彼女の胎を、永久に
  みごもったままにして
  おかなかったのだから。(17節)

 この言葉をそのまま受け取るなら、エレミヤは、自分の誕生を喜んだ者だけでなく、自分が母親の胎にいるときに、自分や母を殺さなかった者までものろっているのです。
 彼女の胎を永久に身ごもったままにしておくとは、妊婦が身ごもったまま死ぬことでしょう。確かに、難産で死ぬ人が多かった時代ですが、そこまで、さかのぼって自分をのろうのは、イスラエルの人々の、感情の文学的表現のあるパターンだったのでしょうか。

 生まれない方がよかったというのは、いずれにしても、神への冒涜であると思うのです。しかし、このような、最大級の愚痴を、主にこぼすことができるほど、主とエレミヤきずなは強かったとも言えます。「召される者」の重さを覚えるのです。

  なぜ、私は労苦と苦悩に会うために
  胎を出たのか。
  私の一生は恥のうちに終わるのか。(18節)







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2016年08月20日

エレミヤ書69 国の崩壊を見る王たち(エレミヤ書21章1節〜14節、U列王記24章25章、U歴代誌36章)



 預言者エレミヤをさんざん嘲ったのは、祭司や王を取り巻く人たちでした。しかし、ユダ王国の崩壊は近づいていました。エレミヤは、ヨシヤ王治世の13年に召命を受けました。その時は、宗教改革を行なったヨシヤ王でした。しかし、ヨシヤ王が亡くなると、、ユダ王国は坂道を転げ落ちるように困難が続き、王が次々と代りました。

 ヨシヤがメキドの戦いで戦死した後、その子エホアハズが王になりましたが、たった三カ月の在位でした。(U列王記23章31節)
 つぎのエホヤキムはヨシヤの子とありますから、エホアハズの兄弟だと思われます。(同34節)
 エホヤキムが死んだ後、その子のエホヤキンが王となりました。(24章6節)
 このエホヤキンは、王国の断末魔を見ることになります。エルサレムはバビロンのネブカデネザルの軍隊に包囲されました。エホヤキンは全面降伏するのですが、捕囚となってバビロンに引いて行かれます。(24章14節〜16節)
 バビロンの王は、エホヤキンのおじマタヌヤを改名させてゼデキヤとし、即位させました。いわば、ゼデキヤは傀儡の王だったのですが、なんと、バビロンに反逆するのです。(同20節)
 ゼデキヤも悲惨な運命をたどりました。二年間、エルサレムに籠城しましたが、ついには飢えのためエルサレムは崩壊し、逃亡したゼデキヤはエリコの草原で捕まりました。彼は目の前で子供たちを殺され、その後目をつぶされ、足枷を付けられてバビロンに引いて行かれたのです。

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 主からエレミヤにあったみことば。ゼデキヤ王は、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言わせた。(エレミヤ書21章1節)
 「どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行なわれたように、私たちにも行ない、彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。」(2節)
 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。(3節)

 これは、ゼデキヤ王がエレミヤに主のことばを求めに来たときのことです。バビロンによって立てられたゼデキヤでしたが、反逆に至るにはそれなりの困難があったためでしょう。しかし、彼らが、エレミヤに尋ねに来るのは、遅すぎました。

 U歴代誌36章12節には、つぎのようにあります。

 彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。

 当然、エレミヤからの神のお答えは、突き放したものでした。

 イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『見よ。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲んでいるバビロンの王とカルデヤ人とに向かって戦っているが、わたしは、あなたがたの手にしている武具を取り返して、それをこの町の中に集め、(4節)
 わたし自身が、伸ばした手と強い腕と、怒りと、憤りと、激怒とをもって、あなたがたと戦い、(5節)
 この町に住むものは、人間も獣も打ち、彼らはひどい疫病で死ぬ。(6節)

 彼らは敵の剣に倒れ、倒れなかった者は、疫病で死ぬと宣告されるのです。

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 そのあとで、――主の御告げ――わたしはユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。』」(17節)
 「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。(8節)
 この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。(9節)
 なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。――主の御告げ――この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。』」(10節)

 これは、神が、エルサレムを勝たせて下さるという答えではありません。それどころか、主がバビロンに味方して、エルサレムを打たれるのです。降伏する者は生きのびるというのです。いわば、降伏勧告です。

 次のような主のことばを、彼らはどのような気持ちで聞いたでしょう。

  ユダの王家のために。――
  「主のことばを聞け。(11節)
  ダビデの家よ。主はこう仰せられる。
  朝ごとに、正しいさばきを行ない、
  かすめられている者を、
  しいたげる者の手から救い出せ。
  さもないと、あなたがたの悪行のために、
  わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、
  消す者はいない。」(12節)

  「ああ、この谷に住む者、平地の岩よ。
  あなたに言う。――主の御告げ――
  あなたがたは、
  『だれが、私たちのところに下って来よう。
  だれが、私たちの住まいにはいれよう。』と
  言っている。(13節)
  わたしはあなたがたを、
  その行ないの実にしたがって罰する。
  ――主の御告げ――
  また、わたしは、その林に火をつける。
  火はその周辺をことごとく焼き尽くす。」(14節)









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