2016年08月21日

エレミヤ書70 国の崩壊を見る王たち2(エレミヤ書22章1節〜7節)



 エレミヤ書21章で語られる預言は、ゼデキヤ王の使者に対してエレミヤが語ったことです。22章の預言は、主が「王の家に行って語れ」と命じられたものです。

 主はこう仰せられる。「ユダの王の家に下り、そこで、このことばを語って(エレミヤ書22章1節)
言え。『ダビデの王座に着いているユダの王よ。あなたも、この門のうちにはいって来るあなたの家来、あなたの民も、主のことばを聞け。(2節)

 神がエレミヤに「下れ(くだれ)」と仰せられていることに注目です。これは、エレミヤが神殿にいたことを暗示しているとのことです。(新実用聖書注解・いのちのことば社) ふだんは、神殿で預言を語っていたと思われます。
 イスラエルの中心はエルサレムで、エルサレムの中心は神殿だったのです。王宮は、神殿より下位なのです。

 主がエレミヤを王宮に行かせたのは、ぜひとも、王とかれを取り巻く支配層の人たちに聞かせたい預言だったからでしょう。

 主はこう仰せられる。公義と正義を行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。(3節)
 もし、あなたがたがこのことばを忠実に行なうなら、ダビデの王座に着いている王たちは、車や馬に乗り、彼らも、その家来、その民も、この家の門のうちにはいることができよう。(4節)
しかし、もしこのことばを聞かなければ、わたしは自分にかけて誓うが、――主 の御告げ――この家は必ず廃墟となる。』」(5節)

 王の仕事は、神から託された権威を使って民を治めることでした。公儀と正義を行ない、民の間の利害損得を調整し、しいたげられるものの訴えを聞き、かすめ取られている者がないように努めるのです。在留異国人、みなしご、やもめへの配慮は、出エジプト記に示されている律法です。王の権力は、神がこのように民の幸福に努めることなのです。
イスラエルでは、いかなる権威も権力も神から与えられたと考えます。権威のある者は、神を恐れ、公正と正義を行なわなければなりません。
 そのようにしてこそ、馬や馬車に乗って堂々と、王宮の門を通過することができるのです。

 預言者は、要所で、「主の御告げ」と叫んでいます。これは、預言の内容を強調しているのでしょう。ここで、聞く者は、恐れて、耳をそばだてて、聞かなければならないのでしょう。
 託宣は、実際恐ろしい内容です。「この家は必ず廃墟となる」
「この家」とは、ユダの王の家です。

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  まことに、ユダの王の家について、主はこう仰せられる。
  「あなたは、わたしにとってはギルアデ、
  レバノンの頂。
  しかし必ず、わたしはあなたを荒野にし、
  住む者もない町々にする。(6節)
  わたしはあなたを攻めるため、
  おのおの武具を持つ破壊者たちを準備する
  彼らは、最も美しいあなたの杉の木を切り倒し、
  これを火に投げ入れる。(7節)

 ギルアデもレバノンも豊かな森林がありました。王宮の杉材の補給地だったのです。豊かな杉材が使われている王宮そのものも、ギルアデ、レバノンにたとえられる豊かさの象徴だったのでしょう。しかし、神・主は、その美しい王宮を荒野にして、住む者のいない町にすると言われるのです。
 そのように王宮が破壊されるのは、外から来る侵略者ですが、神は、神ご自身が破壊者を準備すると宣告しています。
 これは、神の民イスラエルにとって、心底、恐ろしい宣告であるはずですが。






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2016年08月22日

エレミヤ書71 国の崩壊を見る王たち3(エレミヤ書22章8節〜12節)



 「廃墟」は悲しみです。廃墟は、その場所に、かつて「繁栄があった」のを思い出させます。たとえ、森や山が自然発火で燃え広がり、焼け野原になっても「廃墟」とは言いません。人のわざのその跡地に、それがなんだったのかと気付かせる光景こそが、廃墟です。

 かつてアメリカの西部劇によくあった「ゴーストタウン」。住む人がいなくなった古城や館も、廃墟と言われるかもしれません。日本的な感覚なら「強者(つわもの)どもが夢のあと」です。城が落城する時、戦いに生きて来た武将たちは何を思ったのでしょう。彼らの多くが、城に火を放って自殺をするのは、「正視に耐えないから」ではないでしょうか。
 自分が生涯を賭けて得た領地や城が、無意味だと知る瞬間なのです。そして、そのあとを見る者も、大いに人生の意味や、この世の存在について問い直すのです。
 太平洋戦争で、国土の多くが焦土と化した日本で、生き残った多くの人は問い返したと言います。
「いったい、あの戦いは何だったのか」

 エルサレムが廃墟となった時、人々は次のように言うだろうと、神は仰せです。

 多くの国々の民がこの町のそばを過ぎ、彼らが互いに、『なぜ、主はこの大きな町をこのようにしたのだろう。』と言うと、(エレミヤ書22章8節)
 人々は、『彼らが彼らの神、主の契約を捨て、ほかの神々を拝み、これに仕えたからだ。』と言おう。」(9節)

 エルサレムは、ダビデがエブス人から攻め取って本拠地としたところです。(Uサムエル記5章6節〜9節) 神の「エル」平和「シャルム」と言う意味だと解説書にあります。ここの本拠地を置くことで、ダビデの王国は盤石なものとなりました。ダビデはまた、エルサレムに、「神の箱」を迎え入れるのです。(Uサムエル記6章12節)、ダビデはまた、神の箱をお入れする神殿の建設を計画するのですが、それは神によって止められてしまいます。(Uサムエル記7章5節〜16節)
 神殿はソロモンが即位してから、7年の歳月と莫大な費用をかけて、建設されるのです。

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  死んだ者のために泣くな。
  彼のために嘆くな。
  去って行く者のために、大いに泣け。
  彼は二度と、
  帰って、故郷を見ることがないからだ。(10節)

 エルサレムの崩壊は、ヨシヤ王の死とともに決定的になりました。続く王たちが「主の前の前に悪を行なった」からです。
 ここでは、だからと言って、ヨシヤの死を悲しんでも仕方がない。ほんとうに泣くべきは、生きていて連れ去られ二度とエルサレムに戻って来ることができない王のことを「泣け」と言われています。

 父ヨシヤに代わって王となり、この所から出て行った、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、主はまことにこう仰せられる。「彼は二度とここには帰らない。(11節)
 彼は引いて行かれた所で死に、二度とこの国を見ることはない。」(12節)

 シャルムとは、ヨシヤのあとを継いだエホアハズのことです。パロ・ネコによって、ヨシヤの死後王位につけてもらい、エルサレムで三カ月間だけ王だったのです。(U列王記23節30節〜33節)








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2016年08月23日

エレミヤ書72 国の崩壊を見る王たち4(エレミヤ書22章13節〜19節)



 エレミヤ書22章は、ユダの王たちに対する託宣になっている。(新実用聖書注解・いのちのことば社) この箇所がゼデキヤがエレミヤに求めた託宣(エレミヤ書21章2節)への答えなのか、別の機会に語られたのかは、文脈からはよくわかりません。
 しかし、ゼデキヤへの預言は、エホアハズに続く王たちの運命を知ることで、なお、そのメッセージが鮮明になることは事実です。
 なぜなら、彼ら(ヨシヤ王のあとの4人の王、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤ)は、国の崩壊を見る王たちだからです。
 
 最初のターゲットはヨシヤの子シャルム(エホアハズ)でした。
 彼はヨシヤの死後、エジプトのパロによって王位に就けられました。しかし、たちまち、ハマテの地リブラ(ダマスコの北、フェニキヤ人の国)に幽閉されてしまいます(U列王記23章33節)。その後エジプトに連行され、その地で死んだのです。(同34節)
 理由は、エジプトに降伏している身でありながら、バビロンに内通したことではないかとさとうは推測します。

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 預言は、次の王、エホアハズの兄弟エホヤキムに向かっています。彼はエルサレムで11年間王位にありましたが、主の目に悪を行ないました。

  「ああ。
  不義によって自分の家を建て、
  不正によって自分の高殿を建てる者。
  隣人をただで働かせて報酬も払わず、(エレミヤ書22章13節)
  『私は自分のために、
  広い家、ゆったりした高殿を建て、
  それに窓を取りつけ、
  杉の板でおおい、朱を塗ろう。』と言う者。(14節)
  あなたは杉の木で競って、
  王になるのか。
  あなたの父は飲み食いしたが、
  公義と正義を行なったではないか。
  そのとき、彼は幸福だった。(15節)
  彼はしいたげられた人、
  貧しい人の訴えをさばき、
  そのとき、彼は幸福だった。
  それが、わたしを知ることではなかったのか。
  ――主の御告げ――(16節)
  しかし、あなたの目と心とは、
  自分の利得だけに向けられ、
  罪のない者の血を流し、
  しいたげと暴虐を行なうだけだ。(17節)

 エホヤキムも、エホアハズと同じく、エジプト王が即位させた者でした。
 しかし、彼は崩壊に向かっている国を直視できませんでした。自分の地位を安泰にするために、パロに多額の金銀を贈りました。その結果、国民に多額の税の負担を強いました。また、不正なさばきを行なったりして、金を造りました。自分の欲望やぜいたくのために民を苦しめたのです。(U列王記23章35節)

  それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう仰せられる。
  だれも、『ああ、悲しいかな、私の兄弟。
  ああ、悲しいかな、私の姉妹。』
  と言って彼をいたまず、
  だれも、『ああ、悲しいかな、主よ。
  ああ、悲しいかな、陛下よ。』
  と言って彼をいたまない。(18節)
  彼はここからエルサレムの門まで、
  引きずられ、投げやられて、
  ろばが埋められるように埋められる。(19節)

 エホヤキムの悪業はバビロン捕囚で、ピリオドを打たれました。悪王エホヤキムがバビロンに打たれるのを、主・神は、放置なさいましした。彼は、バビロン王ネブカデネザルによって、青銅の足枷を付けられ、バビロンに引いて行かれたのです。第一回のバビロン捕囚です。(BC605年)





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2016年08月24日

エレミヤ書73 神・預言者・王――国の崩壊を見る王たち5(エレミヤ書22章20節〜30節)



 エホヤキム王に対する預言は続きます。

  レバノンに上って叫び、
  バシャンで声をあげ、アバリムから叫べ。
  あなたの恋人はみな、砕かれたからである。(エレミヤ書22章20節)

 レバノンは、もともとのイスラエルの北端ダンよりさらに北の地です。パシャンは、ヨルダン川東岸のマナセ半部族の相続地でしたが。じっさいにはヤルムク川以北に住んだかどうか疑わしいのです。(新改訳聖書付録地図参照) ですから、ここではレバノンと同じように外国の意味でしょう。アバリムはネボ山を含む地域ですが、この時代、モアブの地になっていました。(同地図)
 じつは、これらの地域の国々とユダ王国は同盟関係にありました。しかし、彼らもまた、バビロンに敗北し、捕囚になる運命でした。(新実用聖書注解・いのちのことば社p1042)
 つまり、恋人だと思っていた相手は砕かれるのです。 

  あなたが繁栄していたときに、
  わたしはあなたに語りかけたが、
  あなたは『私は聞かない。』と言った。
  わたしの声に聞き従わないということ、
  これが、若いころからのあなたの生き方だった。(21節)
  あなたの牧者はみな風が追い立て、
  あなたの恋人はとりこになって行く。
  そのとき、あなたは自分のすべての悪のゆえに、
  恥を見、はずかしめを受ける。(22節)

 偶像を拝む国々と同盟して、エジプトや バビロンとの関係を政略(人間の知恵)で乗り切ろうとすることに、主は預言者エレミヤを通して警告を発してつづけたのですが、王は聞き従わなかったのです。

  レバノンの中に住み、
  杉の木の中に巣ごもりする女よ。
  陣痛があなたに起こるとき、
  産婦のような苦痛が襲うとき、
  あなたはどんなにうめくことだろう。」(23節)

 ここでの、レバノンは「王宮」の意味です。高価な杉材に囲まれた宮殿に住んで、あれこれ人間的な知恵をめぐらせているだけの王の末路を、預言者は容赦なく描写しています。

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 24節からはエホヤキムの次の王エホヤキンについての預言です。
 最後の四人の王たちの中でも、エホヤキンは数奇な生涯をたどったようです。十八歳で即位し、間もなく侵攻して来たバビロンに降伏することになります。この時バビロン王は、ユダの人たちをごっぞりとバビロンに引いて行くのです。(U列王記二十四章14節〜16章)この第二回捕囚で、ほぼユダ王国は、崩壊したと言えます。
 もっとも、エホヤキンは、バビロンに捕え移されてから37年も捕虜として生き残り。最後は、許されてバビロン王の前で食事をする待遇を与えられたと記されています。(同25章27節〜30節) そうであったとしても、彼がユダの王としては、「罰せられている」のに変わりありません。

 「わたしは生きている、――主の御告げ――たとい、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤが、わたしの右手の指輪の印であっても、わたしは必ず、あなたをそこから抜き取り、(24節)
 あなたのいのちをねらう者たちの手、あなたが恐れている者たちの手、バビロンの王ネブカデレザルの手、カルデヤ人の手に渡し、(25節)
 あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたの生まれた所ではないほかの国に投げ出し、そこであなたがたは死ぬことになる。(26節)
 彼らが帰りたいと心から望むこの国に、彼らは決して帰らない。」(27節)

 エホヤキンの母に言及があるのは、若い王の後ろ楯として、母が「主の前に悪を行なった張本人」だったからでしょう。

 このエコヌヤという人は、さげすまれて砕かれる像なのか。それとも、だれにも喜ばれない器なのか。なぜ、彼と、その子孫は投げ捨てられて、見も知らぬ国に投げやられるのか。(28節)
  地よ、地よ、地よ。主のことばを聞け。(29節)
 主はこう仰せられる。「この人を『子を残さず、一生栄えない男。』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」(30節)

 エホヤキンに子どもがいなかったのではなく、ユダ王朝をひきついだ子がいなかったという意味です。仮に悪を行なわせたのが彼の母であっても、王座についた者の責任が、神から問われているのです。王の施政権を意味する指輪を神が「必ず抜く」と仰せなのです。

 主の意思は固いのです。預言は神が下さるもので、預言者は神の言葉を取り次ぐ者で、王は神からこの世を治める権限を委託された者、この順序を思い起こさせられます。





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2016年08月25日

エレミヤ書74 ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち――国の崩壊を見る王たち6(エレミヤ書23章1節〜8節)



 「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。――主の御告げ――」(エレミヤ書23章1節)
 それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。――主の御告げ――(2節)


 聖書では牧者ということばは、指導者を指しています。民をひつじに見立て、民を統べる王を牧者と言うのです。新約聖書では、ふつう羊飼いと訳されているとのことです。(新聖書辞典) 
 ここで「牧者」が、国の滅びを招いた王たちを指しているのは明らかです。エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、最後の王ゼデキヤまでが、神の怒りの対象です。最後の三人の王たちは、多くの民とともに、捕囚になったのでした。悲劇は、良い牧者を戴かなかったばかりに、バビロンに連れ去られた民です。

 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。(3節)

 この預言は実現します。エズラやネヘミヤが帰還して来て、神殿を再建するのです。

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 わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。――主の御告げ――(4節)
  見よ。その日が来る。
  ――主の御告げ――
  その日、わたしは、
  ダビデに一つの正しい若枝を起こす。
  彼は王となって治め、栄えて、
  この国に公義と正義を行なう。(5節)
  その日、ユダは救われ、
  イスラエルは安らかに住む。
  その王の名は、
  『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。(6節)

 これは、キリストを指しているのは明らかですね。ダビデに一つの正しい若枝――これは、イザヤの預言にもある言葉です。

  その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、
  地の実は、イスラエルののがれた者の
  威光と飾りになる。(イザヤ書4章2節)

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 それゆえ、見よ、このような日が来る。――主の御告げ――その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とはもう言わないで、(エレミヤ書23章7節)


 イスラエルの民は、自分たちの主を思うときいつも、「エジプトの国からのぼらせた主」と呼んで、そのイスラエルへの愛と、全能の御力を確信したのです。しかし、捕囚後は、いつか民は言うようになるのです。

 『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」(8節)







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