2016年08月05日

Coffee Breakエレミヤ書54、偽預言者とエレミヤ(エレミヤ書14章10節〜15節)




 この民について、主はこう仰せられる。「このように、彼らはさすらうことを愛し、その足を制することもしない。それで、主は彼らを喜ばず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」(エレミヤ書14章10節)
主はさらに、私に仰せられた。「この民のために幸いを祈ってはならない。(11節)

 主はエレミヤの「とりなしの祈り」を退けられています。この民(イスラエルの民)のために祈ってはならないと、仰せなのです。もはや、イスラエルの民が、どのように神に祈っても無駄だというのです。

 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす。」(12節)

 旧約の神は、恐い神、容赦なく滅ぼす神との側面は、このような個所を重く見た神学者や聖書読者から導き出されたのでしょうか。断食や祈りやいけにえやささげ物で、主に取りすがってももう手遅れだ。そんなことをすれば、かえってますます(怒りが増して)、イスラエルの民を滅ぼす。

 聖書には、何度か、神が人の滅亡を決意される箇所があります。
 「ノアの洪水」(創世記6章7節)がそうです。「ソドムの滅亡」(創世記18章17節〜、同19章12節13節)「シナイでの金の小牛事件」(出エジプト記32章10節〜14節)
 神はこれらの時に、悪い者も善い者もすべていっしょくたにしておられるようには見えません。
 「正しい人」ノアと「悪い者」を分けられました。、アブラハムのとりなしで、ソドムの滅亡の時から、ロトをお助けになりました。金の小牛事件では、モーセの必死のとりなしで怒りを収められたのです。

★★★★★

 そこで、エレミヤは、別の方法で神に訊ねます。

 私は言った。「ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える。』と人々に言っているではありませんか。」(13節)

 王国時代には、南北イスラエル王国にはたくさんの預言者がいました。サムエル自身が預言者を養成する機関をもっていたようですし、エリシャは、たくさんの弟子(ともがら)とともにいた様子が記録されています。(U列王記6章1節2節)
 王の顧問のような豊かな者から、ほんの一場面にしか登場しない名もない預言者も、必要に応じて、自由に神が召された様子がうかがえます。

 エレミヤが預言活動をしている時も、同業者はたくさんいたわけです。
 彼らはまた、なんと、エレミヤと正反対の預言をしていたのです。彼らは、戒めと警告の預言ではなく、バラ色の甘い未来を預言したのです。
 これは、エレミヤにとって辛いことだったに違いありません。「良薬は口に苦し」ですが、だれもが、甘い薬を求めるのです。これは、個人の感情としても、国民の感情としても、今も同じですね。人は、耳に心地よいことばに惹かれるのです。

 エレミヤが民から嫌われたのも、偽預言者の方が人気があったためでしょう。
 しかし、神は仰せです。

 主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。(14節)
 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない。』と言っているこの預言者たちについて、主はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』(15節)









posted by さとうまさこ at 09:47| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする