2016年08月11日

エレミヤ書60 主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。(エレミヤ書17章1節〜8節)



 聖書の神様が、私たちに望んでおられる大切なことは、けっきょく、申命記6章5節「心を尽くし、精神を尽くし、こころを尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」です。これは、イエスさまも同じことを強調されています。(マタイの福音書22章37節)
 イエス様は第二の大切な戒めとして、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と仰せなのですが、このシンプルに見える御命令が、人にとっては真実難しいのだと思わせられています。

 私たちの信仰生活において、誤解の多くは、この二つの戒めが守れないこと、「どのようにすることが戒めを守ることになるのか」分からないことから来ているのではないでしょうか。
 若いクリスチャンの女性が、「仕事のため日曜礼拝を守れない」と苦しんでいる投稿をみたことがあります。それに対して「自分はこのようにして日曜に休みが取れる職場を見つけた」といった回答を投稿している方もあります。「仕事を変わるまで『いつも苦しんでいた』」というわけです。そのような問いと答えの間に、クリスチャン同士の連帯感ももてるようで、少なくともあるきずなが生まれたような返答があったりします。

 しかし、私は考えるのです、戒めを守るのは良いことですが、戒めをわざと破ったわけでもない状況でも「罪意識」をもって平安がないのは、はたしてイエス様の望まれるところかしら。イエス様が私たち人類全部の罪を背負って十字架に掛かった下さった時、イエスさまの心には、罪に満ちた人に対する愛が、「完了した」との思いだったのではないでしょうか。(ヨハネの福音書19章28節)人は自分では罪の代価を払うことはできない。しかも、祭壇にささげる不完全な贖いでわずかに自分の罪を支払ったそのすぐ後から、罪を犯すような者なのです。
 それを、充分ご存知の神様が、御子(神ご自身)を打つことで贖いを完成されたという、このことにキリスト信仰があるはずなのです。
 そうであれば、私たちは、神様に対する後ろめたさや恐ろしさは消えて、心からの平安に満たされるはずではないでしょうか。

 教会生活において、例えば、「奉仕と個人的な生活の間の調整」がうまくいかなくて、いつも、後ろめたそうに「祈らせていただいているんですが、足りない者ですから」という方がいますが、もし彼が(彼女が)「後ろ暗い気分」「痛ましい気分」が謙遜だと思っているなら、それこそ、イエスさまは困惑しておられると思うのです。
 
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 クリスチャンが、謙遜の証明のように、「ひりひりしている」のは、旧約聖書の神の怒りのシーンなどの影響があるのかもしれません。
 たしかに、出エジプト以来、神は大変な犠牲を払われてイスラエルに荒野を行かせ、カナンに入れられ、その地でも、イスラエルだけを選んで、不公平化と思われるほどのバックアップをされてカナンにダビデの国を立てて下さったのです。

 私たちが旧約聖書を読んで知るのは、神様は、文字通り、「初めである方」「天地万物の創造主」「全知全能で」「すべてに主権をお持ちの方」です。とうぜん、途方もない力を(私たちは)聖書に見ることになっています。岩から水を出され、マナを降らせ、肉を与えて下さる方、海を割り、川をせき止めるかたですから、人智をこえているわけです。
 そのような方がお怒りになるときも、また、たしかに「峻烈」な「怒り」です。

 エレミヤの時代には、偶像を拝んで、自分たちの神を忘れるイスラエルに対し、主はとうとう、「選びの民の国」を崩壊させられるのです。これが、衝撃でなくてなんでしょう。
このような神様を怒らせたら、このような神に見捨てられたらそれは  「恐ろしいこと」に違いないのです。
 同時に、その表面だけ見て、神をただ恐れ、神に対して罪意識を持つことが「謙遜」だったり、「正しい信仰態度」だと思わせられているとすれば、それは、イエス様の御心から少し外れていないでしょうか。

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  ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、
  彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。(エレミヤ書17章1節)
  彼らの子たちまで、
  その祭壇や、高い丘の茂った木のほとりにある
  アシェラ像を覚えているほどだ。(2節)
  野にあるわたしの山よ。
  わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、
  獲物として引き渡す。
  あなたの国中にある高き所の罪のために。(3節)
  あなたは、わたしが与えたあなたの相続地を、
  手放さなければならない。
  また、わたしは、
  あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。
  あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、
  それはとこしえまでも燃えよう。(4節)

 私が神さまに日々犯す罪を、私は神様が覚えておられるのを、否定するつもりはまったくありません。なにしろ、全知全能の神様は、私の骨格の中の小さな歪みも見ておられるのです。私は小さな(時には大きな)ごまかしを、人に対してだけでなく、なにより自分のためにたくらみ、それが、神様の前に、素透しに見えていることに赤面しなければなりません。
 しかし、それでも、聖書の神様は、「希望を下さる方」であるのを覚えたいと思うのです。
 その方法も主は示して下さっています。

  主はこう仰せられる。
  「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
  心が主から離れる者はのろわれよ。(5節)
  そのような者は荒地のむろの木のように、
  しあわせが訪れても会うことはなく、
  荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。(6節)
  主に信頼し、
  主を頼みとする者に
  祝福があるように。(7節)
  その人は、水のほとりに植わった木のように、
  流れのほとりに根を伸ばし、
  暑さが来ても暑さを知らず、
  葉は茂って、
  日照りの年にも心配なく、
  いつまでも実をみのらせる。(8節)









posted by さとうまさこ at 11:18| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする