2016年08月13日

エレミヤ書62 「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、彼らに言え。(エレミヤ書17章14節〜27節)



  私をいやしてください。主よ。
  そうすれば、私はいえましょう。
  私をお救いください。
  そうすれば、私は救われます。
  あなたこそ、私の賛美だからです。(エレミヤ書17章14節)
  ああ、彼らは私に言っています。
  「主のことばはどこへ行ったのか。
  さあ、それを来させよ。」(15節)

 エレミヤの言葉を読んでいると、なんだか涙が出てきます。エレミヤは主から授けられたことばを語りながら、傷ついているようです。
 人々が彼をあざ笑って、あろうことか言うのです。「主のことばはどこへ行ったのか」。
 どうやら、エレミヤは主のことばを真面目に聞こうとしない相手から、からかわれているのです。
 これは、 クリスチャンとノンクリスチャン、若い牧師と彼を懐疑の目で見ている信徒の間でも、起り得ることかもしれません。

 神の言葉を語るというのは、ある意味とてもリスクのある事です。人は同じ仲間であるはずの誰かが、神の言葉を語ると「何故?」と思うように造られているのかもしれません。
 なにしろ、人が楽園から追放された世界は、「罪が戸口で待ち伏せしている」(創世記4章7節)場所だったのです。

 若いエレミヤは、人々が自分を嘲笑するので、傷ついてしまいます。さいわいエレミヤは預言者です。祈ることができます。主にすがることができます。エレミヤは、神様に対する使命を真摯に行うしもべであることを、改めて主に訴えています。

  しかし、私は、あなたに従う牧者となることを、
  避けたことはありません。
  私は、いやされない日を望んだこともありません。
  あなたは、私のくちびるから出るものは、
  あなたの御前にあるのをご存じです。(16節)
  私を恐れさせないでください。
  あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。(17節)
私に追い迫る者たちが恥を見、
  私が恥を見ないようにしてください。
  彼らがうろたえ、
  私がうろたえないようにしてください。
  彼らの上にわざわいの日を来たらせ、
  破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。(18節)

「私に追いせまる者」が侵略者バビロンではなく、同じ同胞であることが問題ですね。エレミヤは、ユダ王国の人びとのために預言し、彼等から迫害されているのです。

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 主は、エレミヤに対し、「破れを倍にして、彼らを打ち破ってやろう」とは、仰せになっていません。それどころか、さらなる預言を命じられるのです。

 主は私にこう仰せられる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、(19節)
 彼らに言え。
 これらの門のうちにはいるユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ。主のことばを聞け。(20節)
主はこう仰せられる。『あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。(21節)

 ユダ王国の都エルサレムの「民の子らの門」と「エルサレムのすべての門」に立って預言するのは、ユダ王国の中心で働く王や祭司や商人に向かって預言することです。また、神殿にささげ物をしようとする民にも聞かせることになります。
 聖なる都エルサレムは、同時に大消費地でしょう。人間は食べたり飲んだりしなければならないのですから、買い物に出る者もいたのでしょう。

 安息日は、元々、主から命じられた休日です。十戒にもある大切な戒めなので、これを守ることは、当時のイスラエルの民には当然のことでした。
 ところが、エレミヤの時代には有名無実になっていたのです。

 また、安息日に荷物を家から出すな。何の仕事もするな。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て。(22節)
 しかし、彼らは聞かず、耳も傾けず、うなじのこわい者となって聞こうとせず、懲らしめを受けなかった。(23節)
 もし、あなたがたが、ほんとうにわたしに聞き従い、――主の御告げ――安息日にこの町の門のうちに荷物を持ち込まず、安息日をきよく保ち、この日に何の仕事もしないなら、(24節)
 ダビデの王座に着く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この町の門のうちにはいり、この町はとこしえに人の住む所となる。(25節)

 イエス様は、のちに、ただ形式的に安息日を守ることを警告しておられます。安息日だからと言って、井戸に落ちた羊を助け出さないだろうか。また、神が休まれるなんてことはあり得ない。と、もっぱら、律法を守ることで自分たちは完全であると誇っていた律法主義者たちを叱っているのです。(マタイの福音書12章1節〜13節)
 けれども、「選びの民の育成期間である」王国時代には、当然、安息日の戒めは厳守されるべきものでした。

 ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地や低地から、また山地やネゲブから、全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、穀物のささげ物や乳香を携えて来る者、感謝のいけにえを携えて来る者が、主の宮に来る。(26節)
 しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日をきよく保たずに、安息日に荷物を運んでエルサレムの門のうちにはいるなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くして、消えることがないであろう。』」(27節)

 安息日をきちんと守るなら、エルサレムはその昔のように、エルサレムの周辺地ベニヤミンやネゲブからのささげ物を持った多くの民がやってくるのです。
 反対に、神の命令を無視し、安息日すら守れないと、主の怒りは、エルサレムの崩壊に至るだろうと仰せなのです。








posted by さとうまさこ at 10:57| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする