2016年08月14日

エレミヤ書63 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(エレミヤ書18章1節〜17節)



 エレミヤ書13章で、亜麻布の帯を例示した預言がありました。今度は、陶器をつくる陶器師を例示として預言が開始されています。

 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。(エレミヤ書18章1節)
「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」(2節)
 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。(3節)
 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(4節)
 それから、私に次のような主のことばがあった。(5節)
 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。(6節)

 聖書読者ならだれでも、主が陶器師に譬えられることに納得します。すでに、イザヤ書の預言の中にも陶器師のたとえがありました。(イザヤ書45章9節) 神=主は、万物すべての造り主ですから、当然造り主としての「主権」をお持ちです。じつに宇宙もこの地球も、私のいのちも、うるさく鳴いているセミも主がお造りになったわけです。粘土は、あるいはもろもろの元素なのでしょうが、それを使って何を造るかは神様の自由です。陶器師が思う形にならなかった器をこわしてしまうのが自由であるように、神は私たちを作り直す自由も力もお持ちです。
 イスラエルの人たちは、自分たちが、陶器師の手にある粘土だという自覚をもつべきでした。

 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、(7節)
 もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。(8節)
 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、(9節)
 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。(10節)

 イスラエルはとても分かりやすい例によって、神から二つの道を示されたのです。
 その上で、エレミヤに語るべき預言を告げています。同時に、エレミヤが神の言葉を継げても、イスラエルの民が聞かないことも、神はすでにご存知です。

 さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行ないとわざとを改めよ。』(11節)
 しかし、彼らは言う。『だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行なうのだから。』と。(12節)

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悔改めない民に、またしても恐ろしい宣告です。

  それゆえ、主はこう仰せられる。
  『さあ、国々の中で尋ねてみよ。
  だれが、こんなことを聞いたことがあるか。
  おとめイスラエルは、
  実に恐るべきことを行なった。(13節)
  レバノンの雪は、
  野の岩から消え去るだろうか。
  ほかの国から流れて来る冷たい水が、
  引き抜かれるだろうか。(14節)
  それなのに、わたしの民はわたしを忘れ、
  むなしいものに香をたく。

 それから、イスラエルの民の災難が述べられます。恐怖が支配し、永久に他国からあざけられる国。敵が攻めて来たときには、敵の前で散らされる。なんと、イスラエルを散らされるのはイスラエルの神なのです。
 イスラエルの民は、労苦や災難の日には、神に叫んできました。エルサレムを取り囲んだ18万5千人のアッシリア軍が、一晩で死んでしまったように神は、彼等を助けてくっださったのです。

  それらは、彼らをその道、
  いにしえの道でつまずかせ、
  小道に、まだ築かれていない道に行かせ、(15節)
  彼らの国を恐怖とし、
  永久にあざけりとする。
  そこを通り過ぎる者はみな色を失い、頭を振る。(16節)
  東風のように、わたしは彼らを敵の前で散らす。

 しかし、それは今後はないと仰せなのです。

  彼らの災難の日に、
  わたしは彼らに背を向け、顔を向けない。』」(17節)









posted by さとうまさこ at 09:57| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする