2016年08月18日

エレミヤ書67 私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。(エレミヤ書20章7節〜12節)



  主よ。あなたが私を惑わしたので、
  私はあなたに惑わされました。
  あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。
  私は一日中、物笑いとなり、
  みなが私をあざけります。(エレミヤ書20章7節)
  私は、語るごとに、わめき、
  「暴虐だ。暴行だ。」と叫ばなければなりません。
  私への主のみことばが、一日中、
  そしりとなり、笑いぐさとなるのです。(8節)

 このようなエレミヤの叫びに、私は、不謹慎にも。コミカルな映像を見ているような気にさせられるのです。エレミヤが預言をしているのを、嘲笑したり毒づいたりしながら聞いている人たちがいます。エレミヤの声がかき消されるように、騒いだり、太鼓を叩いたりして妨害する者もいるのかもしれません。その上、エレミヤを小突いたり、叩いたりと暴力を振るう者がいる? エレミヤは、あるいは、「こんな苦しみに遭うなんて,神は私を惑わしておられる」とさえ、思ったのでしょう。
 「だから、もう、口を噤(つぐ)もう。」

  私は、「主のことばを宣べ伝えまい。
  もう主の名で語るまい。」と思いましたが、
  主のみことばは私の心のうちで、
  骨の中に閉じ込められて
  燃えさかる火のようになり、
  私はうちにしまっておくのに
  疲れて耐えられません。(9節)

 エレミヤは、いやというほど預言をするリスクを味わっているのです。今目の前にいる者たちが、あざけったり、暴力を振るったりして、エレミヤに語らせまいとしているのです。ところが、言葉があふれて来るのです。主のことばがエレミヤ臨んでいるので、語らないではいられないのです。例は適切ではないと思いますが、例えば、私たちが胃の中の物を戻しそうになるとき、どうにも止められません。嘔吐は、それが毒性を持つから吐き出すのでしょうが、神は、その言葉が、預言者の口から出るように預言者を召されているのです。これも、エレミヤの意思ではどうにもなりません。

 止めるに止められない預言を叫びながら、同時にエレミヤは、それを聞く聴衆の悪意を、いやというほど聞くのです。

  私が多くの人のささやきを聞いたからです。
  「恐れが回りにあるぞ。
  訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。」
  私の親しい者もみな、
  私のつまずくのを待ちもうけています。
  「たぶん、彼は惑わされるから、
  われわれが彼に勝って、
  復讐してやろう。」と。(10節)

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 エレミヤは、神(主)に訴えています。

  しかし、主は私とともにあって、
  横暴な勇士のようです。
  ですから、私を追う者たちは、
  つまずいて、勝つことはできません。
  彼らは成功しないので、大いに恥をかき、
  それが忘れられない永久の恥となりましょう。(11節)
  正しい者を調べ、
  思いと心を見ておられる万軍の主よ。
  あなたが彼らに復讐されるのを
  私に見せてください。
  あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。(12節)

 預言をあざける者に、預言者は仕返しをすることができません。もともと、預言者は、神が選ばれたのであって、彼が真実、預言者かどうかは、神のみぞ「知る」存在なのです。王国のこの時代には、自称預言者(偽預言者)もたくさんいて、王や祭司、民の耳に快い預言をする者の方が歓迎されているのです。

 そのような者に、復讐して下さいというのは、エレミヤの心からの叫びだったでしょう。







posted by さとうまさこ at 09:28| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする