2016年08月19日

エレミヤ書68 なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。(エレミヤ書20章11節〜18節)



  しかし、主は私とともにあって、
 横暴な勇士のようです。
 ですから、私を追う者たちは、
 つまずいて、勝つことはできません。
 彼らは成功しないので、大いに恥をかき、
 それが忘れられない永久の恥となりましょう。(エレミヤ書20章11節)

 預言者エレミヤが預言を語ったために迫害されるのは、悲惨なことです。
「神の民イスラエルは大きな間違いをしている・罪を重ねている!」と、断固、今、私はいうことができます。
 今(ごろ)、言うのは簡単です。私が、エレミヤに同情をもって口はばったく「エレミヤは正しい」と言えるのは、私の生きている21世紀が、エレミヤの生きた時代とはるかにへだたっていて、直接石が飛んでこないからでしょう。
 主、神がエレミヤの口に預言を置かれたため、エレミヤの苦難が起きているのですが、それでもエレミヤは、その苦しみを振りかえって神に訴えるしかありません。同時に、この箇所はうらやましいほど、エレミヤの主への信頼(甘え)が現れています。

  正しい者を調べ、
  思いと心を見ておられる万軍の主よ。
  あなたが彼らに復讐されるのを
  私に見せてください。
  あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。(12節)
  主に向かって歌い、主をほめたたえよ。
  主が貧しい者のいのちを、
  悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。(13節)

 「ねえ。お父さん。お父さんのおっしゃることは正しいのだから、その通り伝えている僕は、正しいことをしているんですよね。調べて、彼らをいつかこらしめてくださいね。懲らしめて下さいますよね」
 そんな心が表出されています。

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 と同時に、エレミヤは嘆いているのです。

  私の生まれた日は、のろわれよ。
  母が私を産んだその日は、
  祝福されるな。(14節)
  私の父に、
  「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、
  彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。(15節)

 この言葉は、聞き覚えがありますね。「生まれた日はのろわれよ。」と言うのは、「生まれてこなかった方がよかった」「いないほうがよかった」ということに他なりません。完全な自己否定です。自殺をするような人が「遺書」に書き残すことばです。自分の存在そのものが自分を打っているのです。

 聖書では、もちろん、ヨブが同じ意味のことを叫んでいます。(ヨブ記3章1節〜5節)あまりに大きな痛みや苦しみに遭うと、どんな人でも生きる気力を失います。
 かつては、大勢の人に祝福されて生まれてきた事実さえ呪わしくなります。
 イスラエルは、父系社会でした。まして、エレミヤは祭司の家に男の子として生まれたのです。大勢の人が、喜び祝福したことでしょう。
 それにしても、「男の子が誕生したと喜んだ者たち」まで、くつがえされて、神から罰せられよ。とは、きびしい。

  その人は、主がくつがえして
  悔いない町々のようになれ。
  朝には彼に叫びを聞かせ、
  真昼にはときの声を聞かせよ。(16節)
  彼は、私が胎内にいるとき、私を殺さず、
  私の母を私の墓とせず、
  彼女の胎を、永久に
  みごもったままにして
  おかなかったのだから。(17節)

 この言葉をそのまま受け取るなら、エレミヤは、自分の誕生を喜んだ者だけでなく、自分が母親の胎にいるときに、自分や母を殺さなかった者までものろっているのです。
 彼女の胎を永久に身ごもったままにしておくとは、妊婦が身ごもったまま死ぬことでしょう。確かに、難産で死ぬ人が多かった時代ですが、そこまで、さかのぼって自分をのろうのは、イスラエルの人々の、感情の文学的表現のあるパターンだったのでしょうか。

 生まれない方がよかったというのは、いずれにしても、神への冒涜であると思うのです。しかし、このような、最大級の愚痴を、主にこぼすことができるほど、主とエレミヤきずなは強かったとも言えます。「召される者」の重さを覚えるのです。

  なぜ、私は労苦と苦悩に会うために
  胎を出たのか。
  私の一生は恥のうちに終わるのか。(18節)







posted by さとうまさこ at 09:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする