2016年08月26日

エレミヤ書75 姦淫をおかす神のしもべたち、偽預言者(エレミヤ書23章1節〜14節) 節)




  預言者たちに対して。――
  私の心は、うちに砕かれ、
  私の骨はみな震える。
  私は酔いどれのようだ。
  ぶどう酒に負けた男のようになった。
  主と、主の聖なることばのために。(エレミヤ書23章9節)
  国は姦通する者で満ちているからだ。
  地はのろわれて喪に服し、
  荒野の牧草地は乾ききる。
  彼らの走る道は悪で、
  正しくないものをその力とする。(10節)

 主の怒りは、こんどは預言者に向かっています。それは、当然です。預言者は、祭司制度の中で、フリーランスの立場です。世俗の権威がないとはいえ、預言者は神によって立てられたとの認識と合意が、イスラエルにはあるのです。本物の預言者が国の大切な転換期を導いてきたのは、イスラエルの歴史に明らかです。
 王も、「預言者」に神のみこころを求めるのです。
 その預言者が、神の言葉ではなく自分で勝手なことを語ったら、どうでしょう。

 もし、預言者が真実の預言者なら、エレミヤの語ることと、ほかの預言者の語ることが「異なる」はずがありません。主はおひとりなのです。
 ところが、多くの預言者が、エレミヤとは異なることを語り、それが、王や民、今で言うなら世論に歓迎されているのです。厳しいことばはだれでも、聞きたくないからです。
 
 どうしてそんなことになるのか。その答えを見るのに、難しい理屈はいりませんね。てっとり早く、人気者になり、売れっ子になる。多分、お金にもなる。それのみならず、たしかに、人の耳にこころよいことを語ってあげる方が、相手を幸せにするように見える。
 これは、現代にも通じる、私たちキリスト者にも通じるディレンマであり、誘惑です。

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 ただ、エレミヤが指弾している預言者たちは、世俗的な善意と楽天性だけで、人の耳にこころよいことを語っているのではないのです。
 すでに、偶像礼拝や、主と他国の神を同時に拝むような世情に慣れてしまっているのです。

  実に、預言者も祭司も汚れている。
  わたしの家の中にも、
  わたしは彼らの悪を見いだした。
  ――主の御告げ――(11節)

 主は、彼らを「汚れている」とご覧になっていますが、彼らにはその自覚さえないのです。

  それゆえ、彼らの道は、
  暗やみの中のすべりやすい所のようになり、
  彼らは追い散らされて、そこに倒れる。
  わたしが彼らにわざわいをもたらし、
  刑罰の年をもたらすからだ。
  ――主の御告げ――(12節)

 とうぜん、彼らはすべり、倒れるのですが、それは、主ご自身がなさったことなのです。

  サマリヤの預言者たちの中に、
  みだらな事をわたしは見た。
  彼らはバアルによって預言し、
  わたしの民イスラエルを惑わした。(13節)
  エルサレムの預言者たちの中にも、
  恐ろしい事をわたしは見た。
  彼らは姦通し、うそをついて歩き、
  悪を行なう者どもの手を強くして、
  その悪からだれをも戻らせない。
  彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、
  その住民はゴモラのようである。(14節)

 深刻なのは、このような偽預言者、節を曲げてしまった祭司たちの存在が、すでに、崩壊した北イスラエル――サマリヤだけでなく、ユダにも蔓延していることです。
 「姦通する」は、もとより、主以外の神を拝むことに対する厳しい表現です。十戒の第二の戒めへの違反です。それは、たくみな嘘で隠蔽(いんぺい)されているのでしょう。
 なにより悪いことは、少数の正しい人が、「主に立ち返る」ことを、「神の名によって」妨げているのでしょう。

 ソドムとゴモラ(創世記18章20節)の悪を、いまさら、例示されている、神様の苦衷が伝わってきます。






posted by さとうまさこ at 10:05| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする