2016年08月27日

エレミヤ書76 自分の幻を語る者、偽預言者(エレミヤ書23章15節〜24節)



  それゆえ、万軍の主は、
  預言者たちについて、こう仰せられる。
  「見よ。わたしは彼らに、
  苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。
  汚れがエルサレムの預言者たちから出て、
  この全土に広がったからだ。」(エレミヤ書23章15節)
  万軍の主はこう仰せられる。
  「あなたがたに預言する預言者たちの
  ことばを聞くな。
  彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。
  主の口からではなく、
  自分の心の幻を語っている。(16節)
  彼らは、わたしを侮る者に向かって、

 預言者は、神の言葉を預かって語る者ですが、今日の社会で言えば、行政官側ではなく、官僚でもなく、学者でも、神官でもありません。既成の組織や社会から独立した存在で、イスラエルの祭司制度の外に立っていて、祭司より権威をもって神の言葉を取り次ぐのです。いまでいえば、たしかに、評論家、アナリスト、組織の諮問機関の人たち、カウンセラー、予想屋のような立場でしょうか。違いは、任命者が神だということです。語る言葉も、書物やデータから導き出すのではなく、神からいただくのです。

 神が話されなかったことは、どんなに真実に見えても、語ってはいけないのです。サムエルがすでに始めていたらしい「預言者の学校」は、エリシャの時代にもあり、その後、増え続けたと思われます。しかし、預言者は、学校に行ってなれるような〈資格〉ではありません。よい先生につけば、学べるわけでもありません。エリシャの一番弟子だったゲハジがどうなったかを見れば明らかです。(U列王記5章15節〜37節)
 ホンモノになれなかった預言者たちは、主のことばを聞けないので、聞いたふりをするしかありません。
 主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。(エレミヤ書23章16節)となるのです。
 それは、とうぜん、まがいものです。

  『主はあなたがたに平安があると告げられた。』と
  しきりに言っており、
  また、かたくなな心のままに歩む
  すべての者に向かって、
  『あなたがたにはわざわいが来ない。』と
  言っている。」(17節)
 
 国が急坂を転げ落ちるように、滅びに向かっているのにこのような嘘偽りを告げるのは、まさに亡国の流れに棹を指す行為です。
 
  いったいだれが、主の会議に連なり、
  主のことばを見聞きしたか。
  だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。(18節)
  見よ。主の暴風、――憤り――
  うずを巻く暴風が起こり、
  悪者の頭上にうずを巻く。(19節)
  主の怒りは、
  御心の思うところを行なって、成し遂げるまで
  去ることはない。
  終わりの日に、
  あなたがたはそれを明らかに悟ろう。(20節)

★★★★★

  わたしはこのような預言者たちを
  遣わさなかったのに、
  彼らは走り続け、
  わたしは彼らに語らなかったのに、
  彼らは預言している。(21節)

 世の中が落ち着かない時代ほど、評論家やアナリスト、カウンセラーや占い師など、要するに行くべき方向を指示してくれそうな人が必要ですね。それで、ユダ王朝末期、神ご自身があずかり知らぬ預言者たちが大量に現れ、神のあずかり知らぬことを預言しているのです。
 主は仰せです。 

  もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、
  彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、
  民をその悪の道から、その悪い行ないから
  立ち返らせたであろうに。(22節)

 主の会議は、例えば、ヨブ記に出てきます。(ヨブ記1章6節〜12節、2章1節〜6節)
 天上ではときに神の子らが主の前に来て立って、地上の人びとについて神に報告をするという設定になっていなす。全能の神が、何もかもご存知の理由を「人が解釈した一種のたとえ」かと思われます。エレミヤ書で見る限り、この会議には「神の子」でなくても、出席できそうです。
 仮にも、預言者だと思う人間なら、それが自称であっても、神はどのようなご意見だろうとお伺いを立てるのは当然ですね。
 そうすれば、神は「わたしのことばを聞かせ」で下さるというのです。
 これは、人間にとって、何と大きな希望だろうと思います。
  
★★★★★

  わたしは近くにいれば、神なのか
  ――主の御告げ――
  遠くにいれば、神ではないのか。(23節)
  人が隠れた所に身を隠したら、
  わたしは彼を見ることができないのか。
  ――主の御告げ――
  天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
  ――主の御告げ――(24節)

 私たちが、たとえ召しがなくても、お伺いを立てること、神のお言葉を聞こうとすることを、神は奨励しておられます。偶像を拝んでいると、主・神は「見えない」かもしれませんが、主は、「天にも地にも満ちている方」というのは、イスラエル人ならあたりまえだったはずです。
 それなら、どうして、主に「聞かないか」と仰せなのは、感謝なことです。







posted by さとうまさこ at 10:42| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする