2016年08月29日

エレミヤ書78 偽預言者・イスラエルの失敗と苦しみの歴史{エレミヤ書23章33節〜40節)



 主の民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か。』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる。』と言え。――主の御告げ――(エレミヤ書23章33節)

 預言者が二種類いるのです。一つは、ホンモノで、一つは偽物です。ホンモノの預言者はたった一人エレミヤだけです。そのほかの大ぜいは偽物か、偽者の預言に加担する者たちです。多勢に無勢です。これがどんなに苦しいことかは、だれでもわかります。仮に神の言葉とは何の関係もないことがらでも、大勢の意見は力です。今日の政治などはその典型です。どんなに良い候補者でも、多くの得票を勝ち取らなければ負けです。いじめられっ子がいじめっ子より多いなどということはあり得ません。かわいそうに、仲間からなぶり殺しにされるような場合、加害者は大人数で被害者は一人です。

 エレミヤは、たった一人で神の言葉を取り次がなければなりませんでした。エリヤがそうであったように、「バアルの預言者」ともいうべき偽預言者が、祭司や王まで味方に付けて、エレミヤに反対するのです。
 「お前が言っている『主の宣告とは何か』」
 それに対して、主は語り続けよと、さらに預言を授けて下さるのです。
 「『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる。』と言え。」

 預言者でも、祭司でも、民でも、『主の宣告。』と言う者があれば、その者とその家とを、わたしは罰する。」(34節)

 「主の宣告」は新共同訳聖書では、「主の託宣」と訳されています。口語訳は「主の重荷」と訳しています。英語TEV訳では、「The L0rd’s message」。NASでは「oracle(of the Lord)」,
MEVバージョンでも、「oracle」
が使われています。
 Oracle の意味は、「神のお告げ、神託」です。
 実際に主が語られた言葉を聞いたわけでもないのに,神託だと告げるなんて冒涜だと神ご自身がお怒りになり、そのような者を罰すると言われているのです。

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 あなたがたは互いに「主は何と答えられたか。主は何と語られたか。」と言うがよい。(35節)

 これは、いわゆる「分かち合い」の場面のようにも見えますが、私たちは、人が神の託宣だという場合は、警戒しなければならないと思います。「本当に、神はそのように語られたのか」と問い返す強さと神への恐れが必要ではないでしょうか。
 これは、教会でも、あるいは、キリスト教会でなくても、このように何か確信ありげな「託宣」を言う指導者に対して問いなおすことは、神様に対する謙虚さでしょう。

 しかし「主の宣告。」ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、万軍の主、私たちの神のことばを曲げるからだ。(36節)
 「あの預言者たちにこう言え。
 主は何と答えられたか。主は何と語られたか。(37節)

 間違った主のことばが伝わる危険性は、いつの時代でも、どこの社会でもあるのではないでしょうか。現にカルトと言われているような宗教は、教祖や教義への疑義を許しません。キリスト教会でも、初心で心優しい信徒は、先輩信徒や牧師、伝道師から学ぼうとするあまり、いつしか、ただ言いなりになるのが信仰的であると思い、それに疲れて。あるいは疑問をもつ時には、信仰からも離れてしまったりします。

 さいわい、今日の私たちには、「完結した聖書」があります。聖書を読み、聖書に聞く事が、「神さまのことばを聞く」ことだと、教えられる世界にいるのです。
 また、さいわいにも、この時、一度は捨てられたイスラエルの民は、捕囚から帰還したのです。

 もし、あなたがたが『主の宣告。』と言うなら、それに対して、主はこう仰せられる。『わたしはあなたがたに、主の宣告、と言うなと言い送ったのに、あなたがたは主の宣告というこのことばを語っている。(38節)
 それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、(39節)
 永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」(40節)

 イスラエルの民の多くの失敗や犠牲の上に、救い主の来臨があり、今日私たちは、少々の失敗さえ許していただいて、平安の中に十字架を見あげることができているのではないでしょうか。








posted by さとうまさこ at 10:50| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする